映画ポスター、意味の変遷

前回エントリ「『バードマン』ポスターに見るデザインの意味」(http://samurai-kung-fu.hatenablog.com/entry/2015/03/07/204203)の続き。
 
 
かつて。
ネットが今ほど普及していなかった時代の映画ポスターはこんな感じ。

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まず、目につくのはウソばっかりなところ。『ランボー1作目の本編にパトカーはこんなに沢山出てこないし、高層ビルが並ぶ都市部のハイウェイでカーチェイスするシーンなんて無い。実際には知っての通り、保守的な田舎町でベトナム帰りのジョン・ランボーが地元警察に追いたてられるだけの、陰惨で暗い話だ。しかし、ポスターでは派手なアクション巨編のような絵になっている。ダマしてでも客を劇場におびき寄せる。という名物配給会社「東宝東和」独自の宣伝だ。
ここで、オリジナルのアメリカ版を見てみる。

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かなりシンプル。デスクトップにドラッグしてアイコン化して見るとよく解るが、人物の顔と腕の肌色と「スタローン」「First Blood」の赤い文字が青暗い背景の中で目立つように設計された、王道ながら優れたデザインと言えるだろう。
当時のスタローン出演作には『フィスト』や『パラダイス・アレイ』など、労働者階級の苦しい日々を描いたドラマ映画もあり、『ランボー』もあくまで「ベトナム帰りで強いトラウマを抱えた兵士」という構造そのものをメインにした映画で、主人公をメインにしたキャラクター映画だとは考えていなかった。そんな中で日本版の、派手なアクションを売りにした宣伝方法に影響を受けてパート2以降の路線が決まったことは有名な話だ。
 
 
さて。当時は、テレビやラジオ、マンガ雑誌などは今よりももっと映画と密接に関わりあっていた。テレビでは毎日映画が放映され、情報番組でも必ず映画特集コーナーが組まれた。『E.T.』の姿を最初にメディアに発表したのは少年マガジンだった記憶がある。それほど各種メディアと映画は密接だった。
また、駅付近の巨大な広告スペースのほとんどは映画の宣伝広告に席巻されていた。特に新宿東口は歌舞伎町にあった10館以上の映画館で上映される作品がズラリと並ぶ壮観な景色になっていた。

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日常的に映画イメージに触れ、気になった映画を新聞や「ぴあ」「Tokyo Walker」などのタウン情報誌で調べて、劇場へ向かう。というのが当時の映画観賞スタイルだ。
当時の日本において、映画のポスターは駅構内の壁や劇場が独自に持っている広告スペース(といってもベニヤ板に杭をくくりつけた簡単なものだが)に貼られていた。それらは「どの劇場で上映しているか」を示すものだった。
図版はテレビや雑誌、看板などで露出した映画の総合的なイメージを、B2(もしくはB1)サイズに落とし込んだものになる。「あのテレビ番組で! ラジオで! マンガ雑誌で! 大きな看板で! アタナが気になった映画は、この劇場でやってますよ!」と誘導するのが映画ポスターの役割だった。
そのため、ポスターの上に上映する劇場名や上映のタイムテーブルが書かれた紙がべったりと貼ってあるのも、当時よく見る光景だった。
 
 

時代や人々の意識の移り変わりにより映画ポスターは、サイズを変えないまま役割が変わっていった。役割が変われば当然デザインも変わる。

 
 
例えば今日。年に数本しか映画を見ないような人が「映画でも見ようかな?」と思ったら、まずウェブに繋げる。普段仕事でも使い見なれているヤフーの映画ページへ飛ぶだろう。すると、公開中の映画ポスター画像がサムネールのサイズで並んでいる。気になる映画ポスターをクリックすると、あらすじやスタッフ、キャスト、上映館などの情報が出ている。見る気になったら上映館とタイムテーブルを確認する。チケットのネット予約で座席を押さえたら、あとは上映シネコンに行き、見ようと思っている映画のポスターが掲げられた上映スクリーンに入る。
という流れ。
 
 
パソコンやスマホ画面の、さらにサムネールサイズに縮小されてしまうのを前提としてデザインされるのが近年の映画ポスターだ。以上を踏まえてアップル社i tunesの映画予告サイトを見ると、私が言っていることがよく解るハズだ(前回エントリで佐藤可士和を例に出したのは、デザインはそれ単体で評価されるものでは無く、使われる用途や状況によって変化するものだという意図だったのだが、私が続きを書くのに飽きてしまったので宙ぶらりんになった。あの話、いま思い出して!)。
 
 
これを見れば『舞妓はレディ』写真積み上げポスターがいかに悪いデザインか解るだろう。細かく割り過ぎてサムネールサイズでは誰が出演しているかの判別など出来ない(ついでだが、事務所への気遣いなんてのは主演クラスの人に対してはそれなりにあるかもしれないが、端役出演者への気遣いなんてのは、ポスター図版に影響を与える程は無い。他の邦画ポスターを見ても、こんなにヒドい写真積み上げをしているポスターが無いのは、その証左と言える)。

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また、いきなり劇場へ行ってポスターをまじまじと見つめ、キャッチコピーや出演者を確認してから、ようやくその日に見る映画を決める奴なんかそうそういない。そんなニッチな層に向けてポスターを15分割して、人物のおでこが全員切れて余白の背景がバカみたいに悪目立ちするトリミングで、クドクドと切り貼りしたポスターが「良いデザイン」なワケは無い。「悪いデザイン」の、さらに大吟醸の「ゴールデン最低スーパー最悪デザイン」だとすら言える。
 
つまり。現在の映画ポスターにおいて「良いデザイン」とは、映画内容を象徴的に表している上に、サムネールサイズになっても判別でき、なおかつB2(もしくはB1)サイズでも栄えるデザインのもの、になる。
ココまで言えば、なんでもかんでも「シンプル・イズ・ベスト!」と言っているワケでは無いのは当たり前のように解るだろう。これについては書いても書ききれない愚痴や罵詈雑言があるのだが、今は止めておこう。
 
 
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版ポスターに話を移す。

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カラー版、モノクロ版、それぞれ良い点と悪い点があるが、上記した「サムネールサイズでの印象」は俄然モノクロ版の方に軍配が上がる。しかし、見た目に力があるのはカラー版の方で、それはサイズめいっぱい写真を使っているからという単純な理由だ
その替わりに、各要素は散漫でとっちらかって色数も増えて美しくないし、必要以上に説明的で下品だ。やはりベストはオリジナル版になってしまう。

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これはオリジナル至上主義とか欧米へのあこがれとかでは無い。オリジナルのポスターが、写真を版面めいっぱい使いつつ、余計な情報は極力抑えて、サムネールサイズでも栄えるようにデザインされているからだ。すなわち、現在における映画ポスターの「良いデザイン」を念頭に設計されている。
生き馬の目を抜くようなアメリカの興行産業界では、当然のように優れたデザインでなければ採用されない。
 
じゃあ、なんで日本は…… という詳しいところは、また機会があれば。
 
 
簡単に言うと「本当の意味でのクリエイティブ・プロデューサーの不在と印刷営業のクライアント=神様対応」。これは本当に仕事の愚痴になるから書かないかな?