『ノセボ』効果の恐怖を体感!呪いと祈りが交錯するオカルトの世界

『ノセボ』鑑賞。

タイトルの「ノセボ」とは偽薬がもたらす「プラシーボ」に相反する効果で、本来悪い効果が無いものを服用したのに、不安から悪い効果をもたらしてしまう事態を指す言葉だ。

本作の劇中で繰り返し言及されるのは「祈り」や「呪い」など、日常に浸透したオカルトについてである。
悪態としての「ジーザス」やゲン担ぎのおまじない。ラッキーアイテム。これらは本来、何の(本当に全く何も)効果も無い、信心が無ければ気休めにもならない行動だ。

子供向けファスト・ファッションのデザイナー、クリスティーンは皮膚が醜く爛れた野犬から飛び散るマダニに全身を這い回られる悪夢に取り憑かれてしまい、それ以来慢性的な体の痙攣や痺れを抱えてしまう。
夫のフェリックスはそんな妻を気遣うポーズはするものの「気の病い」だと、どこか無下にするような態度を取る。
娘のロバータは、両親のひんやりとした関係を感じ取り、塞ぎ込んだ性格になり学校でも居場所が無さそうだ。
そこへ、東南アジアから来た家政婦として小柄な女性ダイアナが現れる。クリスティーンには頼んだ覚えが無いが、病気で記憶があやふやで知らないうちに依頼をしていたかもしれないと、彼女を招き入れる。

登場人物の名前「クリスティーン」はクリスチャン:キリスト教徒を語源に持つ名前だ。夫の「フェリックス」はラテン語の「芳醇」から「成功」や「富」が込められている。娘の「ロバータ」はロバートの女性名で、由来としては古いドイツ語「古高ドイツ語」のループレヒトで「光で闇を照らし、将来を予見し、進むべき道を予知する」といった意味を持っている。

そして家政婦の「ダイアナ」はワンダーウーマンの「ダイアナ・プリンス」と同じで、猟犬を携えて野山を駆ける「狩猟の女神」である。
 
名付けるという行為が「日常に浸透したオカルト」そのものであり、映画『ノセボ』のタイトルが示す本作のテーマの一つでもある。
 
クリスティーンがロバータの悪態「ジーザス!」を嗜めるのは、旧約聖書モーセ十戒にもある「主は、み名をみだりに唱なえるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20:7)に準拠している。
出エジプト記の、この直前「20:6」にはこう書かれている。「わたしを愛し、わたしの戒を守るものには、恵を施して、千代に至るであろう。」
要は脅しである。ルールを守れば良いことが起きますよ。守らなければ罰を与えますよ。と、誓いへの祝福は戒律破りの呪いもセットになって成立しているのだ。

キリスト教の信仰は「恐怖で服従を促す支配」と言い換えられる。ここにプラシーボ、ないしノセボが出現する心的なスキが生まれる。
 
ダイアナが登場する前のクリスティーンの体の不調はクリスティーンの「罪の意識」に所以した「ノセボ」効果の現れであろう。寝付きが悪いのを呼吸障害だと思い込みマスクをして寝ているが、要因はおそらくそこに無い。
罪の意識を思い出させる「人種」であるダイアナの登場と彼女への信頼と民間療法が「プラシーボ」効果になるも、終盤のダイアナの途中退出で「ノセボ」がバックラッシュとして強く現れる。
 
ただ、本作の意地の悪さはダイアナに超自然的なパワーと、明確な目的を持たせているところだ。タイトルを無視し、スクリーンに現れるものだけを映った通りに解釈すれば、単純なジャンル話に落ち着く。
しかし、この物語に『ノセボ』のタイトルを冠することで、非常に面倒臭い疑問符を観る者につきつける。