ネタバレ解説『ボーはおそれている』

漫画家、根本敬の代表作のひとつ『生きる 村田藤吉寡黙日記』。ただただひたすらに、寡黙で気弱で学も無く、子供がいるのに童貞で、信じられないほど不器用な男、村田藤吉と彼の家族が陰惨な目に遭い続けるだけの漫画である。
その「陰惨な目」も生半可では無い。殴られる蹴られるは比較的ぬるい方で、家族そろって別の家族に(性的な)イタズラを受けていたり、ちょくちょく殺されるし、気が狂うほど追い詰められもする。
さらにSF的な加虐にも会う。物質転送機に入った村田と彼の永遠の加虐者である吉田佐吉は当然合体してしまうのだが、村田の顔が吉田の尻にくっつき、口が吉田の肛門の役割を担ってしまう。吉田はその境遇を大して気にせず「まぁ、さすけねっぺ(しょうがない)」と、ブリブリ用を足す。
1986年に刊行された本作は大人気となり、村田はパルコのCMキャラクターにまでなった。
 
読者は村田の陰惨な状況を笑って楽しんだのだ。
 
根本の絵が「技巧的」ではなかったのも笑える要因の一つであっただろう。太くウネウネとした荒っぽい線で描かれた村田は、共感や寄り添おうという気にさせず、常に「漫画を読んでいる」という意識を読者に持たせた。
根本の漫画は手塚治虫同様「スター・システム」が採用されており、常に加虐される村田藤吉に、常に彼を虐める吉田佐吉。レイプ魔の鈴木定吉あまりにバカ故にチンポに体の主導権を奪われる「逆さの男」など。基本的には一話読切で、さまざまな状況で村田が虐めを受けるのも、笑える程度に読者を突き放すことに成功していた。
 
ありえない程の陰惨な目に遭う村田の様子は、それが虚構だと強く認識させられればさせられるほど笑えたのである。
 
『ボーはおそれている』序盤。ボーの住む街は道端に腐乱死体が転がり、目玉にまで刺青を入れた男が炊き出しのスープを貰ってスグに「アチい!」と地面に叩きつけ、レスラーのような大男が誰かの目に指を突き立てて、ニュースでは全裸で人を殺しまくる連続殺人鬼が報じられ、ボーの住む娼館のようなアパートには「アナル・ファックでハメ殺す」等カースワードだけの文章が壁を覆い、張り紙で毒グモの発生が告知されている。
さらにそれらを捉えるカメラはカンフー映画のようなズームや、ウェスタンのようなクローズ・アップ、優美なスローモーションなど、肉眼では不可能な映像表現が取り入れられている。
また、アパートに駆け込む様子は建物の中の俯瞰映像だったり、狭い廊下を歩く場面では真横からボーを捉えるなど、スタジオセットも駆使されている。
 
ウソの作り物のフィクションだと丁寧に念を押して語られるのは、ステレオタイプな「ユダヤ人」である。
 
(ここから映画の終盤についても書きます。本作はいわゆる映画的な三幕構成で作られていないので、初見を驚きをもって鑑賞したい人は今スグ劇場へ!)
 
まず、野蛮な隣人に家から締め出され、実家へ向かう。という『ボーはおそれている』そのものが、ローマ帝国に国を滅ぼされて、約束の地へ向かうというユダヤ人の境遇と重なる。
劇中で語られる「あったかもしれないボーの人生」の大洪水や、いたかもしれない子供たちは「ノアの方舟」や「ヨブ記」であろう。
実家の屋根裏部屋に隠された“父親”や、ボーが置かれた幼いままで成長を止められた状態はユダヤ人作家フィリップ・ロスの作品からの影響だと監督自身が告白している。
幽閉された家の監視カメラのチャンネル「78」はユダヤの法則。
ラストで行われる公開裁判は、悪いと判決が出れば地獄で、良いと出れば天国で、永久に過ごすと言われるユダヤ教版の「最後の審判」。
そして、ボーを溺愛し執拗に管理した母親は、英語の慣用句で、その名もまんまな「ジューイッシュ・マザー」である。
 
などと知った風に書いてはいるが聖書については『誰も教てくれない聖書の読み方』とロバート・クラムの漫画版『旧約聖書』でしか知らないし、読んだことのあるフィリップ・ロス作品はタイトルに惹かれた『乳房になった男』だけ。なので、解説のマネゴトはここまでしか出来ない。
 
それでも『ボーはおそれている』の3時間を楽しく観られたのは、根本敬メソッドであくまでフィクションだと常に突き放されたからであろう。ボーは手始めにフィジカルな痛みを与えられ、次にバツ悪い生活を強いられ、罪悪感に苛まれ、無力感に支配され、微かな希望を踏みにじられる。
アリ・アスターはそれらの苦行を意地悪なコメディ的演出で魅せていく。しかし、本当は、それらの苦行は手の届く範囲に実際にある苦行である。
理不尽な暴力や、抑圧は日常的に、ユダヤ人では無い我々も経験しているものだ。それらを突き放し、カリカチュアして笑い飛ばすという自己防衛的な快感が本作にはある。
 
『ボーはおそれている』楽しかったよ!