プリンセスとバックと魔法のキス『アノーラ』

『アノーラ』鑑賞。

・ディズニー・プリンセス

『アノーラ』は『シンデレラ』を代表とするディズニー・プリンセス映画の現代版かつ現実版として、意図的に極めて単純な構造とキャラクター設計がされている。

アノーラを捕まえるイヴァンの世話焼き係りやロシア正教の神父が、口やかましくアノーラを攻め立てるがヒドい目に会わされて泣き言を漏らすのは、悪の女王にかしずくコミカルな手下たちそのままだ。イヴァンの母親が威厳を撒き散らし、とりつく島も無く野太い声で相手を威嚇する様子はアースラやマレフィセントなどの悪の魔女や女王であろう。

「プリンス・チャーミング」たるイヴァンは、金持ち特有のおおらかさと陽気さを持ち「プリンセス」アノーラに結婚を決意させる。

そして、最後までアノーラに寄り添い続ける“戦士”イゴールは『アナと雪の女王』に登場する労働者階級のクリストフだ。

 

また、近年のディズニー・プリンセスものに顕著だが、劇中の困難はプリンセスであるアノーラ自身に降りかかる。オールド・スタイルの『白雪姫』や『眠れる森の美女』のように、プリンセスが眠っている間にプリンス・チャーミングが困難を解決してはくれない。

プリンセス・アノーラは悪の手下と共にイヴァンを探す旅に出る。むろんその道中が“珍道中”になってしまうのは近年のディズニー・プリンセス映画のお約束だ。

アノーラが家族の話として「マイアミに行けば母と義理の父、それと姉に会える。姉にアナタを取られてしまうかもしれないけど。」と言うのは劇中でも言及されるアノーラが好きなディズニー・プリンセスの『シンデレラ』であろう。

 

そして、タイトルが『アノーラ』の名前だけなのも多くのディズニー・プリンセス映画に倣ったものだろう。

・セックス・ワーカー

一般的にセックスは「子作り」や「快感」といった目的の違いはあるにせよ、いずれにしても「好きな相手」と行うものだ。

しかし、誰でも好きな相手とセックスができる程度の関係性:パートナー・シップを築けるものでは無い。そんな人の「性の捌け口」として、仮のパートナーを務めるセックス・ワーカーは、それなりの重責を果たしている。

もちろん結婚などでパートナー・シップを築いた人物がたまさかセックス・ファンタジーを叶えるためだけに、割り切った関係を求める場合も多いだろうが、中には誰とも分かち合えない“愛”の捌け口を求める人もいるだろう。

そんな重い想いを込めてしまい「金の切れ目が縁の切れ目」が理解出来ない割り切れない側が犯す殺傷事件は枚挙にいとまが無い。また、セックス・ワーカー自身も割り切れない想いを持ってしまうこともあるだろう。私だけを贔屓にしてくれているのは私が好きなのかもしれないと。

『アノーラ』では、好きで指名し続けて太客の夢である推しとの結婚をしたイヴァンが、生活を捨てる決意が出来るほど大人ではなかったという悲劇がある。『シンデレラ』の王子様で、その語源でもあるプリンス・チャーミングだって、義理の家族の世話をさせられている、ツギハギだらけでみすぼらしい服を着ているシンデレラとの結婚に、反対する家族もいただろうに。

 

・魔法のキス

ラスト(のことを書きますよ!)。

 

アノーラは指輪を取り返してくれたイゴールの上にまたがり、彼女が持っていて与えられる最も価値のあるもの、セックスを行う。

日本がどうなのかイイ年こいて寡黙にして知らないのだが、アメリカではセックス・ワーカーとのキスは“別料金”か、人によっては行わない。この知識は、むろん映画『ガールフレンド・エクスペリエンス』から得たものだ。キスは「愛」の行為であり、まさにガールフレンド・エクスペリエンス(恋人体験)の、いわば“オプション”で、セックスとは別なのだ。

イゴールの感覚ではセックスは愛の行為であり、むろんキスも含まれている。対してアノーラはキスは別料金(もしくはしないタイプ)でセックス分のみを報酬として行為に及んだだけなのだ。

 

と思えば、イヴァンとアノーラのセックスにキスは少なく(私は2人のキスの場面が思い出せない)後背位ばかりで、向き合って事に及んだのは序盤、アノーラが「まだ45分残っているけど、どうする?」と誘った場面くらいか。この場面ではセックスが労働であるセックス・ワーカーが手早く仕事を済ませた後に、そこで終わっても良かったのに続きを促したことでアノーラ自身のイヴァンへの想いが垣間見れる。ただ、ここでもキスはしていない。

また、競争のようにバンバンと攻撃的に腰を振るイヴァンのセックスに、ゆったりとした愛情溢れるセックスを指導したアノーラだったが、結局その後の2人のセックスは後ろからバンバンやるスタイルに戻っていたのも印象的だ。

 

ラストのキスの拒絶は、むろんディズニー・プリンセス映画を意識している以上「魔法のキス」の意味もあっただろう。

白雪姫やオーロラ姫を目覚めさせ、カエルになった王子を人間に戻したキスを、アノーラはしなかった。

もう魔法は消えてしまっていたのだ。

 

・12時を過ぎたシンデレラ

おそらく反射的にキスを拒んだアノーラは、我にかえり2つの意味で慟哭する。

 

割り切ったハズのセックスで、また勘違いさせたこと。

 

魔法のキスはもう無いという現実に向き合ったこと。

 

映画『アノーラ』はディズニー・プリンセス映画の枠組みで、セックス・ワーカーの悲劇を描いた作品である。