ドキュメンタリー映画『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』を観る
『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』鑑賞。
伊藤詩織の初監督作品。自著『ブラック・ボックス』と裁判をめぐる背景を自身でドキュメンタリー映画化した作品。自身に降りかかったレイプ被害を(刑事事件としては)握りつぶされた監督から見えた世界。
本作について、法的な問題提起がされているという事は知っているが、それを判断するために何を読めば良いのか解らないし、批評者が監督寄りか安倍政権寄りかで法解釈も全く違ったものになるだろうし、その正当性を判断する知識は持っていない。なので映画としての評価に終始せざるを得ない。
まず、映像表現は王道な場面が散見される。
象徴的に登場する桜。その花びらが川面を流れていく様子から幕を明ける。桜は花を咲かせるや散っていく様子から日本では特に潔さを象徴しているが、映画のラスト近くでは美しかった花びらが淀みの中で油っぽい泡にまみれ排水溝に吸い込まれていく。強いられた潔さに争い、汚泥にまみれ暗闇に吸い込まれてしまうのは監督の心象そのものであろう。
事態に暗雲が垂れ込み始めると異動中の車の車窓は明るい場所からトンネルに入り、好転の兆しを見せるとトンネルから外に出ていく。また、事態が悪い方向へ進んでいくと車窓に雨が打ちつける。
それら映像表現は、おそらく映画の「象徴性」についての講義があるとすれば、その教科書の1ページ目に書いてある、講義を進める前の前提のような、王道中の王道な表現だと言えるであろう。ただ、だからといって劣っているというワケでは無い。使い方次第では陳腐にならず力強く心象を表していく。本作では正しいタイミングで正しい見え方で使われており、心象を強く訴える見事な表現だと言えるだろう。
そもそも近年のドキュメンタリー映画でここまで明確に心象が伝わる表現が出来ている作品は多く無い。これは監督が真面目に「映像化」「映画化」に向き合った証明であろう。
被写体:監督の様子が素晴らしい。表情が多く、嬉しさや安心はニコニコと。不安や落胆は険しく。驚きは「ガビーン!」とオノマトペまで見えそうなくらい明確で、見ていて清々しい。中でも「捜査官A」との電話で「証言して欲しい」と頼む監督に対し「であれば結婚してくれという話になるでしょう?」と、「捜査官A」は突飛な提案をする。冗談とも何とも受け取りかねるその提案を、日本人らしく笑って受け流すが、次の会話へ進む狭間で「今の何???」という表情を瞬間的に見せる。そのタイミングや間は一級のコメディ映画もかくやという場面になっている。
また、欧米人のような豊かボディアクションも楽しい。
そもそも日本での公開は諦めていたのか、それとも国際的な場に相手を引き摺り出そうという思惑か、本作でのモノローグや仲間内との会話のほとんどは英語で交わされる。それも相まり豊かなボディアクションが無垢で表現が派手な英語圏の小学生を思わせ、相対的に監督を襲うレイプ被害がより重く、より醜く、立ち現れる。
本作では字幕は必要最低限でしか使用されない。話しているのが誰なのか、会っているのは/出席した会議や集会は何なのか。話される内容から伺い知れるものもあるが、明確には解らない。
ワンビンやワイズマンの作品でも字幕はほとんど、というか全く無かったりもする。見せたいのが情報や背景では無く、見えているものや交わされる会話とその空気だけだというドキュメンタリスト特有の「自我」であろう。初監督作品でこれほど力強い自我を見せつけられるのも見事と言う他無い。
音楽の使い方も白眉と言える。重苦しい時間の経過はスローで動く秒針のインサートに合わせた、低く震えるノイズ音が流れる。また、本作のテーマ曲のように聞こえてくるグロリア・ゲイナーの「I will survive」も見事だ。70年代後半のいわゆる「ディスコ・ソング」だが、その歌詞は自分を捨てて出ていった男が帰ってきたけど追い出して「私は生きていく!」と宣言するものだ。ただ「粉々になった心をかき集め」「幾晩も泣いて過ごした」「自分で自分が惨めに思えた」など、監督の心象と重なる歌詞もあり、しかもそこから「I will survive(私は生きていく!)」と朗々と歌うサビが「survive」:サバイブした人:サバイバーに繋がる選曲だ。その劇的で大仰な曲の展開が、一度は握りつぶされた事件が民事で勝訴という展開と重なり、ダイナミックかつエモーショナルに盛り上げる。
ドキュメンタリー映画の醍醐味として「奇跡的に捉えられた奇妙な現実」も映されている。
逮捕を握りつぶした刑事部長(後に警察庁長官)が走って逃げる場面。刑事部長が、走って逃げるんだよ?
安倍元首相をアジテートするおばちゃんたちの朗らかな荒っぽさ。
そして裁判所から出る監督に詰め寄る狂人。
監督ほどの衝撃的かつ屈辱的な目には遭っていないが、今の日本で、無能が服を着て歩いているような政権与党の人々や、その与党に擦り寄るウジ虫じみた人々。彼らが進める大金持ち優遇政策。などなどスーパーエゴイストな人々から、ゆっくりジワジワと理不尽な目に遭っていると自覚がある人が鑑賞すれば共感を得られるだろう。
総じて大変優れた映画だと言えるだろう。
AIは間違えない『シャドウズ・エッジ』
『シャドウズ・エッジ』鑑賞。
香港が中国に返還されて以降、中国(香港)映画は歴然とした変化を見せた。
犯罪を犯した登場人物は必ず最後には捕まる。ジョン・ウーやジョニー・トーの作るノワール物やピカレスク映画はもはや不可能となり、犯罪がテーマの作品は観る前から犯人が捕まるのは解りきった上での鑑賞となる。
また日本Jホラーの名匠、鶴田法男監督が中国で撮ったホラー『戦慄のリンク』では、中国の国是として「幽霊はいない」のでJホラー的な演出をしても「幽霊」では無いという不思議な展開をしていた。
日本でも大ヒットした『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』。敵役ウォンガウは「硬直!」の掛け声で刀も弾も寄せ付けない硬さを身につける。もともとは超常的な「硬直!」だったらしいが国から横槍が入り「気功です!」と言い訳して乗り切った、と何かで読んだ。
そんな中国映画の「新しいルール」を垣間見た気がした。
『シャドウズ・エッジ』冒頭。犯人グループによる最初の強盗で、車で逃走する犯人を街中の防犯カメラをAIが精査し、予測される逃走経路を割り出し、数台の車に分乗した警官たちが追う場面。
ほぼ確保も見えてきた時点で、それでもなお有り得る逃走経路をサジェストするAIを鬱陶しがって警察幹部が切ってしまう。とはいえほぼ確保していたので犯人たちの乗った車を小さなロータリーに追い詰める。しかし、その「犯人たちの乗った車」は強盗団のスーパーハッカーが映像を加工したニセ映像で、実際には存在しない車を追わせており、犯人たちは全く別のルートで逃げ切っていた。
この事から防犯カメラ映像が信用できない物になってオールド・スタイルの人間の目視による「追跡」が必要になり、かつての名手であるジャッキー・チェンにお声がかかるという展開になる。
この場面、単に「防犯カメラに依存した捜査ができなくなる」という展開になれば良いし実際そう展開するので、AIを切ってしまう意味があまり無い。
意味があるとすればAIが起動している時は失敗をさせないため、であろう。
現在の中国はコンピューター・テクノロジーの面で日本なんかとっくのとうに追い越して、世界を牽引している。AIに代表される技術についてもモチロン国を挙げての案件なのであろう。ラストでは再度AIが起動され犯人逮捕の一翼を担う。
現在の中国映画では「AIは間違えない」というルールが追加されたのであろう。
ちなみにこの『シャドウズ・エッジ』はジョニー・トーがプロデュースに回った傑作『天使の眼、野獣の街』のリメイクで犯人グループのリーダー役をレオン・カーファイが再演しているが、追いかけるのがサイモン・ヤムからジャッキーに変わればそうなるでしょー!という、2階からジャッキーとカーファイが落ちてくる展開を魅せる。
ジャッキー映画にしては2時間20分と長尺ではあるが、上映時間中ひっきりなしに何かが起こり、ピンチが到来し、からがら解決し続ける見事な脚本とミチミチに詰め込んだ構成、ウェットな感情にド派手な銃撃戦まで盛り込んだ傑作娯楽作である。
最近読んだ本
パートナーに勧められて背筋の『近畿地方のある場所について』を読み、読書そのものの楽しさを再確認。引っ越しして長くなった通勤時間に小説を読む習慣が身に付いた。最初が『近畿地方〜〜』だったので選ぶ本が近年流行っているホラー小説に偏り、まとまった量のホラー小説を読んだ、その記録。
背筋『近畿地方のある場所について』
心霊ムック本作成のために雑誌の記事や取材テープなどを並べていく、いわゆるモキュメンタリー小説。諸星大二郎の稗田礼二郎シリーズのようにバラバラとした個々のエピソードが繋がっていく様子が楽しい。序盤で登場する霊現象が後半になり意味を変えていくのも醍醐味。
背筋『近畿地方のある場所について』(文庫版)
白石晃士監督による映画化に伴い、主人公の名を映画の登場人物に合わせてリライトされた文庫版。オリジナルを読んだ人は解ると思うが、後半に人物設定に絡めたトリックが仕掛けられており、単に名前を変えれば良いという構成になっていない。しかも発売に先立って公開された書き出しは、オリジナルで仕掛けられたトリックが使えない設定になっていた。はて? どうなるのか? と読み終わってビックリした。全然違う展開になってる!
紹介される個々の怪現象に大きな違いは無いが、それらを繋ぐ人物設定や展開がテレビ版のエヴァと最初の映画版のエヴァくらい変わってる。アハ体験とかサイゼの間違い探しどころじゃなく、本当に全然違う。ファン歓喜の「シン近畿地方」的な文庫版。
背筋『穢れた聖地巡礼について』
心霊系YouTuberの本を作るために集まった3人の登場人物、それぞれのトラウマが霊現象を通じて掘り起こされ、克服していく様子が清々しいドラマになる。「本を作る人のホラー」という括りのシリーズになるのだろうか?
背筋『口に関するアンケート』
10cm四方ほどの豆本。その凝った創りは組班にも及び、展開に沿って文字が赤くグラデーションしたり、ページをめくるタイミングでビックラかしがあったり。背筋は『穢れた〜〜』のオマケとして小さな豆本をプレゼントとして付けており、書き手のみならず製本から本に携わっている感じがある。短く書ける京極夏彦。
梨『かわいそ笑』
「行方不明展」のテキストやモキュメンタリー・ホラー番組の構成など現在のモキュメンタリー・ホラー界隈で多方面に活躍する“梨”の作家デビュー作。心霊のみならず、汚物や虫などの禁忌も取り込む「オールマイティイヤなもの作家」の片鱗がすでに見えている。また、本に掲載されたQRコードで劇中の掲示板などがスマホから閲覧できるなどの仕掛けも楽しい。心霊写真の心霊部分を切り取った写真は心霊写真か? という思考実験が面白い。
梨『6』
「屋上」「5階」「4階」「3階」「2階」「1階」の6篇からなる短編集で最終章になる1階でそれまでの話が1つに纏まる。その構成に囚われすぎてなんだか1篇として成立してないような章もあり。ただ、デビュー作にあった思考実験のような物が本作でもあり、そこは猛烈に面白かった。
真島文吉『右園死児報告』
報告書の羅列という構成はモキュメンタリー的なアプローチだが、後半に行くにつれ呪いで呪いを倒す『呪術廻戦』や『チェーンソーマン』的な熱いジャンプ・コミックへと変化していく。その設定は創作サイト「SCP」のコンセプトそのものであろう。クライマックスを終えた後の、それぞれの日常的な描写続くエピローグが良くも悪くもアニメ的。
雨穴『変な家』
大ヒット作。広告などに出てくる間取りが近代建築に座敷牢がある感じで、そーいうホラー話かな? と思ったら新本格だった。移動や心象風景はほぼ省かれ、正解だけで一本道の考察と推理だけが延々と続くだけなので、展開が派手で読みやすい。ファスト・ファッションならぬファスト・ミステリーといった感じ。
雨穴『変な家2』
間取りを変にするために登場人物がメキメキ不幸になっていく。あまりにも費用対効果が低すぎる陰謀や、あからさまな『近畿地方のある場所について』インスパイアな叙述トリックがニヤけ笑いを誘う。
くるむあくむ『或るバイトを募集しています』
意味や意図が不明なアルバイトの顛末をインタビューや残されたSNSのログから見ていく、といったモキュメンタリー小説。SNSのインターフェイスそのままのレイアウトや、禍々しい擦れた文字など、構成は子供向けの本のように多様で、しかもそれぞれが短く、通勤の片道で読み切ってしまった。それなりにゾッとするものもあるが、組版への依存も高く、雑誌の特集のような手軽さが恐怖を薄める。インスタント・ホラー。
海藤文字『ある映画の異変について目撃証言を募ります』
ワンカメ、ワンカットの主観映像で6人の男女が限界集落に入ると何かに襲われ一人ずつ消えていく映画『ファウンド・フッテージ』。劇中に登場した白塗りの全裸男が別の映画にも現れる。その怪異を映画感想ブログのエントリーとコメント欄から語るモキュメンタリー作品。白塗り男の正体が判る中判から盛り上がるのだが、当の「映画描写」が戴けない。他にもチグハグな状況や設定。あからさまなネタ元をボカせない力量など。『DeepLove』のスターツ出版らしい乱暴な拙さ。
小田雅久仁『禍』
「このホラーがスゴい!」2024年版で『近畿地方のある場所について』と同率1位になった短編集。こちらはホラーと括るには文章や表現が文学的で、読後感は重く深く充実する。特に最終章のゾンビ・パンデミックのように人々がストリーキングを始めていく文明の崩壊と、その後の夢のような世界の描写が素晴らしい。関西弁でふざけた村上春樹のような印象。
上條一輝『深淵のテレパス』
2025年版の「このホラーがスゴい!」1位作品。心霊現象を物理的かつ因果律で探っていくYouTuber「あしや超常現象調査」。たいがいショボい現象ばかりを相手にしてきた彼らに大ネタがやって来るという展開。久々に電車を降りそこねる程に熱中させられた。S・キングにも劣らないページターナー。
キャラクターが魅力的。蓮っ葉でガラっぱちなリーダー。自信が持てず前へ出ようとしないが知恵の回る若者。裏にも表にも顔が利く優秀な探偵。ゲスで酒好きなオッサンとゴスっ子の超能力者2人。彼らの活躍を見守るのが心地よい読書となる。すごく絵になるので映像化待ったナシでお願いしたい。
上條一輝『ポルターガイストの囚人』
『深淵のテレパス』の「あしや超常現象調査」が活躍する続編。ページターナーぶりは健在で、読んでる自分の遅さがもどかしい。途中で大胆なトリックがあって、まんまとダマされたのが楽しくて気持ち良い。オッサン超能力者の秘めた力に胸熱。それがクライマックスのフリになる激アツ展開もたまらない。
澤村伊智『うるはしみにくし あなたのともだち』
『ぼぎわんが来る』の澤村伊智によるホラー。女子高校生が学校に伝わる伝説の占い雑誌「ユア・フレンド」の呪いで、一人づつ顔面を崩壊させていく。ルッキズムやセクシズムなど女性にまつわる困難と、多感な高校生の危なっかしさを描く。顔面崩壊はビジュアライズしやすく、読書のスペクタクルになる。
飴村行『粘膜人間』
これは少し古い本だが気になっていたので。まるで根本敬と丸尾末広が合作したマジックリアリズム小説といった感じのガロ味の強いサブカルホラー。凄惨な生々しい加虐も犬小屋と豚小屋の間の出来事として描かれるのに加え筆致の巧みさもあり、どこか牧歌的に読めてしまうのが秀逸。中盤に登場する「イヤな死に方を幻視する薬」の幻覚描写が凄まじい。
飴村行『粘膜蜥蜴』
飴村行の粘膜シリーズ第二弾。とはいえ、直接的な繋がりは薄く、同じ名前の病院があったりする程度。前作では薄く混入していた戦況や軍備オタっぽい門外漢には辛い文章が多めに登場しはするものの、やはり犬小屋と豚小屋の間の出来事がスラスラと読めてしまう。しかしラストで奇妙な純愛物語に着地し、サブカル的悪ふざけから一歩踏み出している。
ディーノ・ブッツァーティ『神を見た犬』
「ホラー小説」で検索をかけた結果で、キングやクーンツ、背筋、梨、絢辻行人、岩下志摩子らが並ぶランキングに横並びで紹介されていたのだが、全然ホラーでは無かった。マジックリアリズム味のあるマーク・トウェインの短編集のような印象。恐怖をテーマにした作品もあるが、カテゴライズされる事への弱さとか、人類誕生の皮肉などなど。表題作では信仰が生まれるメカニズムのようなものを詳らかにすることが、逆に背徳的になるという見事な短編。文学味があるが、1篇々々がすごく短くて言いたい事だけサっと言って終わる潔さが魅力。後になって気づいたが、これ「ホラ噺」で引っかかって取り上げたんじゃないか?
搾取と不遇を描いた完全無欠な娯楽作『罪人たち』
【ネタバレします】
『罪人たち』について事前に聞いていたのは「双子のギャングが故郷に戻ってクラブをオープンすると吸血鬼がやってくるホラー」という、そりゃほぼ『フロム・ダスク・ティル・ドーン』じゃないか? と思ったのだが、全然違った。
そもそも映画のジャンルすら違っていた。『罪人たち』が描いているのはアメリカで黒人たちが産んだ文化を白人たちが盗用してきた音楽の文化盗用の歴史である。
「文化盗用」というと、一番有名なのは「ロックンロールの始祖はエルビス・プレスリー」になるだろう。リトル・リチャードやチャック・ベリーが産んだ「ロックンロール」をエルビスが産んだ事にしてしまっている。
アメリカで黒人として産まれ作家活動をするイシュメール・リードはコラムで「文化盗用」について、いくつかの論考を発表している。
リードはコラムで「ロックンロールの始祖はビートルズ」という新聞評を取り上げ、呆れ怒りを隠さないが、しかし黒人“だけ”でロックが産まれ、発展したとも思っていない。つまり、文化というのはそもそもの「始祖」は存在するが、様々な他の文化と触れ、融合し、変化して、新しくなり、発展していく。とはいえ「始祖」を無視すんなよ。というのがリードの論だろう。
ロックンロールは黒人のブルースを元にカントリーなどと融合して産まれた。とよく言われている。確かにロックンロール特有の早いリズムはイギリス民謡を祖としたカントリーからの影響は少なからずあるように思う。しかし「ロックンロールの始祖」はどうひっくり返してもリトル・リチャード、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノのどれにする? という所に落ち着くだろう。エルビスでもビル・ヘイリーでも無い、最初の最初は“ワッパラルバッパラッパンブー”だ。
リードの自作『マンボ・ジャンボ』に登場する「人々を熱狂させ踊り続けさせる病:ジェスグルー」は、黒人音楽であるラグタイムがアメリカで急激に流行った現象を報じた新聞記事の「just grow」(ジャスト・グロウ:ただただ広まる)が語源だ。そのジェスグルーは作品の終盤でフッと消えてしまう。
それはラグタイムからジャズが産まれ、ジャズが黒人、白人、黄色人種問わずに広まり、それぞれの文化と融合し変化し新しくなって、黒人だけの文化では無くなった象徴のように思える。
『罪人たち』の吸血鬼は人を襲い相手を吸血鬼化すると、その知識や言語、スキルを「共有」する。最初の吸血鬼たち(3人の白人)は、バンジョーやフィドルを弾き、イギリス民謡を歌う。その彼らが黒人ミュージシャンを襲い、彼らのスキルやリズム、コード進行などを「共有」した。
劇中の主な登場人物は、中国人移民の夫妻とアフリカからの奴隷の末裔である主人公たち。そして吸血鬼のアイリッシュ系の移民。アメリカは昔から移民の国である。他国から来た人々を取り込み発展していった国であり、音楽ももちろん様々な要素を取り込んで、今もなお複雑に進化している。
それら複雑に進化した音楽の「始祖」を突きつけるのが中盤のプリチャー・ボーイの歌うブルースだろう。
プリチャー・ボーイが歌い出すと、劇中の時代(1930年台)には無かった低いリズムが鳴り出しエレキギターの轟音と共にキラキラの衣装を着たギタリストが登場する(ブーツィかE,W&F?)。さらにスクラッチ音と共にステージにはターンテーブルとDJが現れる。ダンスフロアにはアフリカの民族ダンスを踊る一群や中国の舞踊を魅せるダンサーまで登場する。
その場にいる人々のそれぞれの発展した姿とルーツが渾然となり、その音楽の「始祖」に黒人たちが介在していたことをワンカットの中に詰め込んだ見事な場面だ。
そしてラストでは映画人であるライアン・クーグラー自身の「始祖」を開示する。
皆殺しにするつもりでやって来たKKKの男たちを、たった独りで銃火器を次々に取り出して返り討ちにする。この場面は70年台にアメリカ映画史に燦然と輝く傑作群を残した「ブラックスプロイテーション・ムービー」へのオマージュであろう。
『罪人たち』はアメリカ黒人たちの、搾取と不遇を詳らかにしつつ、完全無欠な娯楽として昇華させた傑作である。
ボディ・ホラーとしての『サブスタンス』
【ネタバレします】
この作品絡みで大小さまざまな炎上が立ち上がっている。しかし、鑑賞後なら「そりゃそうだろうよ!」と思わざるをえない。
なんというか、炎上するべくしてなってるし、炎上させてる人もしてる人も「ははーん。そうなると思ってた。」と、タバスコが意外にたくさん出てきてビシャビシャになってしまったピザを口に入れて「うん、辛い!」と言っている感じ。
※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※
本作は本来「ボディ・ホラー」とジャンル付けされるべき作品だ。
「ボディ・ホラー」とは肉体が変形したり欠損したり、言ってみれば「身体が取り返しのつかない状態になる恐怖」のことだ。
有名作だと『遊星からの物体X』や『ヴィデオドローム』『ソサエティ』とか。近年だと『TITAN/チタン』や『ムカデ人間』が「ボディ・ホラー」になる。
無論『サブスタンス』の「1つの人格で2つの肉体を交互に使う」という基本設定もその所以ではあるが、特にラストのモンスター“エリザベ・スー”の存在こそ本作を「ボディ・ホラー」に相応しい作品たらしめている。
「若い美しさ」に囚われたエリザベスの悲劇や芸能業界のルッキズム、ひどい男尊女卑は“エリザベ・スー”の存在を以ってして、人々の関心を強く惹きつけている。
ただ「ボディ・ホラー」としての『サブスタンス』が残念なのは“エリザベ・スー”に全体像が無いことだ。
正面の崩れたスーの顔や大小さまざまな無数の乳房。唐突に自分の肉体を噛みしめている歯。身体はコブのような塊で、そこから2本の腕と2本の足が生えている。背中には、エリザベスの顔が、顔のバランスだけは美しく保ったまま、しかし絶叫した表情のまま張り付いている。
しかし、たっぷりとしたプリーツのドレスを着ていることもあり、全体像が現れるのは安定化出来ずに腕から大量の体液を撒き散らすあたりで、画面は赤く染められコントラストを失い、ディティールが見えなくなってしまう。
名作ボディ・ホラーには例えば『遊星からの物体X』の外れた頭にカニの足と目玉が生えて歩き回る“ノリス・シング”や『ザ・フライ』で人間とハエが融合した“ブランドル・フライ”など。非常にアイコニックな存在がある。
『サブスタンス』にはそれらのような“フィギュア映え”した“エリザベ・スー”が存在しない。
ただ、そんなフィギュアジェニックな“エリザベ・スー”の不在こそが、アカデミー賞ノミネートや、カンヌでの脚本賞受賞をもたらしたのかもしれない。
見事な造形の“エリザベ・スー”が登場すれば、人々の注視は“エリザベ・スー”へ注がれ、巧みな映像表現や極端にセリフの少ない脚本などは「ホラー演出を支える素材」へ格下げされてしまっただろう。芸能業界のルッキズムやひどい男尊女卑などの痛烈な皮肉もしかりだ。
ただ、見事な半魚人を出しながら、しかもDVモラハラ差別主義男に鉄槌を下し、さらにアカデミー作品賞をかっさらった『シェイプ・オブ・ウォーター』の例を見るに、やはり“エリザベ・スー”は少なくともロブ・ボッティンかリック・ベイカー、もしくはギレルモ・デル・トロにデザインしてもらえば良かったのではないだろうか?
シンメトリックで美しくグロテスクな“エリザベ・スー”の姿を夢想してやまない。
プリンセスとバックと魔法のキス『アノーラ』
『アノーラ』鑑賞。
・ディズニー・プリンセス
『アノーラ』は『シンデレラ』を代表とするディズニー・プリンセス映画の現代版かつ現実版として、意図的に極めて単純な構造とキャラクター設計がされている。
アノーラを捕まえるイヴァンの世話焼き係りやロシア正教の神父が、口やかましくアノーラを攻め立てるがヒドい目に会わされて泣き言を漏らすのは、悪の女王にかしずくコミカルな手下たちそのままだ。イヴァンの母親が威厳を撒き散らし、とりつく島も無く野太い声で相手を威嚇する様子はアースラやマレフィセントなどの悪の魔女や女王であろう。
「プリンス・チャーミング」たるイヴァンは、金持ち特有のおおらかさと陽気さを持ち「プリンセス」アノーラに結婚を決意させる。
そして、最後までアノーラに寄り添い続ける“戦士”イゴールは『アナと雪の女王』に登場する労働者階級のクリストフだ。
また、近年のディズニー・プリンセスものに顕著だが、劇中の困難はプリンセスであるアノーラ自身に降りかかる。オールド・スタイルの『白雪姫』や『眠れる森の美女』のように、プリンセスが眠っている間にプリンス・チャーミングが困難を解決してはくれない。
プリンセス・アノーラは悪の手下と共にイヴァンを探す旅に出る。むろんその道中が“珍道中”になってしまうのは近年のディズニー・プリンセス映画のお約束だ。
アノーラが家族の話として「マイアミに行けば母と義理の父、それと姉に会える。姉にアナタを取られてしまうかもしれないけど。」と言うのは劇中でも言及されるアノーラが好きなディズニー・プリンセスの『シンデレラ』であろう。
そして、タイトルが『アノーラ』の名前だけなのも多くのディズニー・プリンセス映画に倣ったものだろう。
・セックス・ワーカー
一般的にセックスは「子作り」や「快感」といった目的の違いはあるにせよ、いずれにしても「好きな相手」と行うものだ。
しかし、誰でも好きな相手とセックスができる程度の関係性:パートナー・シップを築けるものでは無い。そんな人の「性の捌け口」として、仮のパートナーを務めるセックス・ワーカーは、それなりの重責を果たしている。
もちろん結婚などでパートナー・シップを築いた人物がたまさかセックス・ファンタジーを叶えるためだけに、割り切った関係を求める場合も多いだろうが、中には誰とも分かち合えない“愛”の捌け口を求める人もいるだろう。
そんな重い想いを込めてしまい「金の切れ目が縁の切れ目」が理解出来ない割り切れない側が犯す殺傷事件は枚挙にいとまが無い。また、セックス・ワーカー自身も割り切れない想いを持ってしまうこともあるだろう。私だけを贔屓にしてくれているのは私が好きなのかもしれないと。
『アノーラ』では、好きで指名し続けて太客の夢である推しとの結婚をしたイヴァンが、生活を捨てる決意が出来るほど大人ではなかったという悲劇がある。『シンデレラ』の王子様で、その語源でもあるプリンス・チャーミングだって、義理の家族の世話をさせられている、ツギハギだらけでみすぼらしい服を着ているシンデレラとの結婚に、反対する家族もいただろうに。
・魔法のキス
ラスト(のことを書きますよ!)。
アノーラは指輪を取り返してくれたイゴールの上にまたがり、彼女が持っていて与えられる最も価値のあるもの、セックスを行う。
日本がどうなのかイイ年こいて寡黙にして知らないのだが、アメリカではセックス・ワーカーとのキスは“別料金”か、人によっては行わない。この知識は、むろん映画『ガールフレンド・エクスペリエンス』から得たものだ。キスは「愛」の行為であり、まさにガールフレンド・エクスペリエンス(恋人体験)の、いわば“オプション”で、セックスとは別なのだ。
イゴールの感覚ではセックスは愛の行為であり、むろんキスも含まれている。対してアノーラはキスは別料金(もしくはしないタイプ)でセックス分のみを報酬として行為に及んだだけなのだ。
と思えば、イヴァンとアノーラのセックスにキスは少なく(私は2人のキスの場面が思い出せない)後背位ばかりで、向き合って事に及んだのは序盤、アノーラが「まだ45分残っているけど、どうする?」と誘った場面くらいか。この場面ではセックスが労働であるセックス・ワーカーが手早く仕事を済ませた後に、そこで終わっても良かったのに続きを促したことでアノーラ自身のイヴァンへの想いが垣間見れる。ただ、ここでもキスはしていない。
また、競争のようにバンバンと攻撃的に腰を振るイヴァンのセックスに、ゆったりとした愛情溢れるセックスを指導したアノーラだったが、結局その後の2人のセックスは後ろからバンバンやるスタイルに戻っていたのも印象的だ。
ラストのキスの拒絶は、むろんディズニー・プリンセス映画を意識している以上「魔法のキス」の意味もあっただろう。
白雪姫やオーロラ姫を目覚めさせ、カエルになった王子を人間に戻したキスを、アノーラはしなかった。
もう魔法は消えてしまっていたのだ。
・12時を過ぎたシンデレラ
おそらく反射的にキスを拒んだアノーラは、我にかえり2つの意味で慟哭する。
割り切ったハズのセックスで、また勘違いさせたこと。
魔法のキスはもう無いという現実に向き合ったこと。
映画『アノーラ』はディズニー・プリンセス映画の枠組みで、セックス・ワーカーの悲劇を描いた作品である。
『どうすればよかったか?』を謎解きフィクションとして考察する
『どうすればよかったか?』鑑賞。
日本映画学校(現:日本映画大学)を卒業した監督が約20年に渡って家族を捉えたドキュメンタリー作品。
まず、本作が優れている点は、被写体の家族にカメラを意識させない、気の遠くなるような手順である。もはや森達也の名を出さずともドキュメンタリーのフィクション性は前提として認識されているだろう。どんな人でもカメラを構えられたら「撮られている」「見られている」意識が生まれ、全く普段と同じ言動はしない。
その意識を最小限にするため、監督は家族旅行を計画し、その記録を残すという前提でカメラを回し始め、旅行が終わった後も帰省するたびにカメラを家族に向け続けた。そうすることで家族に「息子はカメラを構えている人」だと慣れさせた。
また、モンタージュによるクレショフ効果もある。本作では「姉」の治療前と治療後の様子が繋げられており、「治療中」の様子は見せない。意味不明な言動をする姉が「退院した」というクレジットの後で、すっかり改善し意思疎通が出来る様子を観せる。短い時間で大きなギャップを見せることで「病院に連れていかなかった」期間をショッキングに浮かび上がらせる。
(おそらく)とんでもない量の素材の中から意図にそぐう場面を選び、組み立てた執念の作品がこの『どうすればよかったか?』である。
とはいえ、本作は純然たるドキュメンタリーである。事前に決めた言葉を言っているワケでも、何度か同じ演技をした中から良いテイクを選んで作品に残したワケでも無い。それでも作品には明確な監督の「意図」ないし「結論」が滲み漏れ出すように現れている。
そこで、本作をフェイク・ドキュメンタリーないし、謎解きフィクションとして考察してみる。
●オープニング
配給や制作会社のクレジットが出て、スクリーンが黒くなるとヒステリックな叫びだけが響き、映画が始まる。
統合失調症になった「姉」の叫びを、映像作家を目指す前の、まだカメラを持たない「監督」がウォークマンで録音したものだとクレジットが出る。
「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」
統合失調症の症状に「幻覚を見る」「幻聴が聞こえる」「強い妄想」などがある。状況を鑑みれば「姉」が妄想の中で対峙した「父」か「母」が統合失調症を発症したことを攻めた言葉になるだろう。ただ、この叫びは「母」の言葉をマネしたものじゃなかったろうか?
統合失調症を発症した「姉」を精神科に連れて行こうとすると「行くつもりの精神科の先生の論文が気にいらない」「父の知り合いの精神科の先生から100%正常だと診断してもらった」などの言い訳をして、都度々々阻止するのが「母」であることが語られる。「父」も同調はしているようだが「父」の意思の表明は「母」が代理で行う。表立って阻止をするのは必ず「母」なのだ。
その「母」が「姉」に向かって、というか「姉」の前で、その現状へ愚痴をこぼすように口をついて出た、返答や反応を期待しない独り言では無かったろうか?
おそらく「ゲイは病」だとか「鬱は甘え」のような旧態依然とした、現在的にアップデート出来なかった意識の現れとして。そう考えると以降に写される断片がパズルのピースのようにハマり、全体像を明確に映し出す。
●唯々諾々のスピリチュアル
「父」は医学研究者。母親も結婚するまで研究所勤めで「父」を助手のように支えていたことが語られる。「父」は「監督」が実家に戻り、家族4人が集まるとリビングに呼び寄せ、みんなで神棚に柏手を打って礼をする。
研究者なんだから実験や数式で明確に答えが出るもののみを真とするような実証主義者かと思いきや、いまどき存在そのものも珍しい神棚へ手を合わせる。彼らに神仏への信心があるのか? といえばそうでも無い。朝夕の供物の上げ下げも写っていない(もししていれば必ず撮影していただろうし、本編へも残したであろう)。
では、どうして神棚への礼を欠かさないのか?
おそらく「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」であろう。
携帯電話が出始めた頃「電波がペースメイカーを止める」という通説が囁かれた。新しいものに拒絶反応をする年寄りはこの通説に飛びつき、肉体的に弱い女性へ狙いをつけて暴力的に取り締まる「マナー警察」と化した。また、その通説のありなしに関わらず「人がウジャウジャいる場所で電話をするのはマナー違反であろう」と、その名も「マナーモード」へ切り替えた人もいるだろう。
これが「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」状態である。
これは「母」が「姉」を医者には見せず、家に閉じ込め続ける理由でもあっただろう。唯一疑問視した監督のみが被写体へカメラを向けるという、腫れ物に触るような「抗議」を始める。
余談だが、携帯電話がペースメイカーを止めるには条件がある。それは「ペースメイカーから3cm未満の位置に携帯電話を近づけて電話を受信する」であり、それでさえペースメイカーが止まる「可能性がある」だけだ。つまりペースメイカーのある胸へ携帯を押し付けないかぎり影響は受けづらく、そうしたとしても「可能性」があるのみ。実際、病院などではペースメイカーが止まる可能性よりも、携帯電話の利便性を取り、待合室や病室などでの携帯電話の利用は許可されていることが多い。
●スピリチュアルの才能
「姉」は研究者としての道を進む交換条件としてタロット占いの本を自費出版する。
タロット占いとはカード自体の意味とカードの置かれた位置や上下を、占う人が占われる人の現状を汲んで解釈し、予言として読むものである。占われる人によって同じ位置の同じ上下の同じカードが指し示す「予言」は変わっていく。つまり、カードの意味やルールを知ってさえいれば出来るものでは無い。出たカードの示すキーワードを取り込んで予言を紡ぎ出す、いわば小説家のような創造的才能が必要なのである。
両親が期待し「姉」も期待に応えようとした医療研究者の仕事とは全く種類の違う、正反対と言っても差し支えない才能が「姉」にあったことが伺える。しかし、両親共にそんな「姉」をなんとか研究者にしようと通院を拒み、家に閉じ込めて、研究者にはいつなるのか?とプレッシャーをかけ続けてしまう。
後半、薬により目覚ましく回復した姉がフリーマーケットのようなイベントで、迷い無くサっと手に取り流れるようにそのまま会計へ進んだ物は「パワーストーン」である。
●正気と生気
映画序盤から中盤。インタビューを試みるが何かを警戒してか口を開こうとしなかったり、話しても何か明確な意味が見つけられない「姉」。黒々とした髪はしかしザンバラで、眼光は鋭くカメラを見つめ返す。終盤、入院により統合失調症を改善させた姉。櫛で整った髪には白髪が目立ち、眼鏡をかけた目線は柔らかい。そして、ステージ4の肺がんが見つかる。
中盤までと終盤までにどれほどの歳月が経過しているのかは明確には判らない。年齢を重ねれば白髪は現れるものだ。抗がん剤やがんの放射線治療で白髪になる人も多い。とはいえ、あまりにも象徴的である。
映画『ポルターガイスト』であの世を通って娘を奪還した母親のこめかみあたりから一房の白髪が現れる。また『Xメン』(2000)のローグや『ゴーストバスターズ』(2016)のエリンにも大変な経験を通過した後に同じような白髪が出現する。映画的な文脈で「白髪」は厳しい戦いを終えた女性に現れる。
本作では、母と病との数十年に渡る消耗戦を経て「姉」の黒髪は白くなった。と、映画的には解釈できる。
●『どうすればよかったか?』
肺がんにより逝去した「姉」のお葬式で、老いた「父」が車椅子に乗ったまました挨拶で、「姉」との共著で研究結果をまとめた論文を準備していたと語られる。
これはおそらく「論文の準備」も含めた「だったら良いな」という父の見た夢であろう。
監督は「姉」の真相を知る唯一の人になった「父」へインタビューを試みる。誰が「姉」の治療を止めたのか。誰の決断だったのか。「父」はやんわりと、遠回しに、そしておそらくそう訝しんでいた「監督」の誘導により「母」の考えだと認める。
今、70歳以上の老人たちは親と先祖にはいかほど割り切れない思いがあっても感謝しろと、強烈な「家父長制」を叩き込まれてきた世代だ。「母」もモチロンそんな世代であり、女である自分には決定権は無いと思い「姉」の治療拒否は「父」の決定であると言っていた。それが「母」だけの強い希望であったとしてもだ。結局「母」の逝去後、「父」は娘の治療を承諾しているし、意味不明な事をしゃべり意思の疎通が出来ない「姉」を「100%正常」だと押し切るのは「父」には無理だったのだろう。
劇中繰り返されるのは「母」が「父」を盾にして、なんとか病院へは連れて行くまいとする、強い意思だ。「姉」は大丈夫だと言い張る「母」の口調は“お母さんヒス構文”めいてさえいる。おそらく「母」の反対を押し切り「姉」を病院へ連れていっても通院や入院は許可せず、協力もせず。無理を通し続ければ、むしろ「母」の心が“ポッキリ”と折れてしまうかもしれない、というのが「監督」と「父」の判断だったろう。
「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」そう叫んだのは「母」本人だったのではなかったろうか?
そして「監督」はタイトルにもなった『どうすればよかったか?』を「父」に問う。
その問いは明確な回答を求めた問いでは無かっただろう。後悔先に立たず。後からなら何とでも言える。「母」を押し切ることは出来なかった。無理をしてでも「姉」を病院へ連れて行くこともしなかった。ただただ現状維持を「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」だけだった。
後悔も出来ず、結果だけを受け止めざるを得ない「監督」の、そうとしか言葉では表せられない、疑問形ではあるが問うているワケではない、その状態そのものを表す言葉が『どうすればよかったか?』ではないだろうか?