『どうすればよかったか?』鑑賞。
日本映画学校(現:日本映画大学)を卒業した監督が約20年に渡って家族を捉えたドキュメンタリー作品。
まず、本作が優れている点は、被写体の家族にカメラを意識させない、気の遠くなるような手順である。もはや森達也の名を出さずともドキュメンタリーのフィクション性は前提として認識されているだろう。どんな人でもカメラを構えられたら「撮られている」「見られている」意識が生まれ、全く普段と同じ言動はしない。
その意識を最小限にするため、監督は家族旅行を計画し、その記録を残すという前提でカメラを回し始め、旅行が終わった後も帰省するたびにカメラを家族に向け続けた。そうすることで家族に「息子はカメラを構えている人」だと慣れさせた。
また、モンタージュによるクレショフ効果もある。本作では「姉」の治療前と治療後の様子が繋げられており、「治療中」の様子は見せない。意味不明な言動をする姉が「退院した」というクレジットの後で、すっかり改善し意思疎通が出来る様子を観せる。短い時間で大きなギャップを見せることで「病院に連れていかなかった」期間をショッキングに浮かび上がらせる。
(おそらく)とんでもない量の素材の中から意図にそぐう場面を選び、組み立てた執念の作品がこの『どうすればよかったか?』である。
とはいえ、本作は純然たるドキュメンタリーである。事前に決めた言葉を言っているワケでも、何度か同じ演技をした中から良いテイクを選んで作品に残したワケでも無い。それでも作品には明確な監督の「意図」ないし「結論」が滲み漏れ出すように現れている。
そこで、本作をフェイク・ドキュメンタリーないし、謎解きフィクションとして考察してみる。
●オープニング
配給や制作会社のクレジットが出て、スクリーンが黒くなるとヒステリックな叫びだけが響き、映画が始まる。
統合失調症になった「姉」の叫びを、映像作家を目指す前の、まだカメラを持たない「監督」がウォークマンで録音したものだとクレジットが出る。
「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」
統合失調症の症状に「幻覚を見る」「幻聴が聞こえる」「強い妄想」などがある。状況を鑑みれば「姉」が妄想の中で対峙した「父」か「母」が統合失調症を発症したことを攻めた言葉になるだろう。ただ、この叫びは「母」の言葉をマネしたものじゃなかったろうか?
統合失調症を発症した「姉」を精神科に連れて行こうとすると「行くつもりの精神科の先生の論文が気にいらない」「父の知り合いの精神科の先生から100%正常だと診断してもらった」などの言い訳をして、都度々々阻止するのが「母」であることが語られる。「父」も同調はしているようだが「父」の意思の表明は「母」が代理で行う。表立って阻止をするのは必ず「母」なのだ。
その「母」が「姉」に向かって、というか「姉」の前で、その現状へ愚痴をこぼすように口をついて出た、返答や反応を期待しない独り言では無かったろうか?
おそらく「ゲイは病」だとか「鬱は甘え」のような旧態依然とした、現在的にアップデート出来なかった意識の現れとして。そう考えると以降に写される断片がパズルのピースのようにハマり、全体像を明確に映し出す。
●唯々諾々のスピリチュアル
「父」は医学研究者。母親も結婚するまで研究所勤めで「父」を助手のように支えていたことが語られる。「父」は「監督」が実家に戻り、家族4人が集まるとリビングに呼び寄せ、みんなで神棚に柏手を打って礼をする。
研究者なんだから実験や数式で明確に答えが出るもののみを真とするような実証主義者かと思いきや、いまどき存在そのものも珍しい神棚へ手を合わせる。彼らに神仏への信心があるのか? といえばそうでも無い。朝夕の供物の上げ下げも写っていない(もししていれば必ず撮影していただろうし、本編へも残したであろう)。
では、どうして神棚への礼を欠かさないのか?
おそらく「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」であろう。
携帯電話が出始めた頃「電波がペースメイカーを止める」という通説が囁かれた。新しいものに拒絶反応をする年寄りはこの通説に飛びつき、肉体的に弱い女性へ狙いをつけて暴力的に取り締まる「マナー警察」と化した。また、その通説のありなしに関わらず「人がウジャウジャいる場所で電話をするのはマナー違反であろう」と、その名も「マナーモード」へ切り替えた人もいるだろう。
これが「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」状態である。
これは「母」が「姉」を医者には見せず、家に閉じ込め続ける理由でもあっただろう。唯一疑問視した監督のみが被写体へカメラを向けるという、腫れ物に触るような「抗議」を始める。
余談だが、携帯電話がペースメイカーを止めるには条件がある。それは「ペースメイカーから3cm未満の位置に携帯電話を近づけて電話を受信する」であり、それでさえペースメイカーが止まる「可能性がある」だけだ。つまりペースメイカーのある胸へ携帯を押し付けないかぎり影響は受けづらく、そうしたとしても「可能性」があるのみ。実際、病院などではペースメイカーが止まる可能性よりも、携帯電話の利便性を取り、待合室や病室などでの携帯電話の利用は許可されていることが多い。
●スピリチュアルの才能
「姉」は研究者としての道を進む交換条件としてタロット占いの本を自費出版する。
タロット占いとはカード自体の意味とカードの置かれた位置や上下を、占う人が占われる人の現状を汲んで解釈し、予言として読むものである。占われる人によって同じ位置の同じ上下の同じカードが指し示す「予言」は変わっていく。つまり、カードの意味やルールを知ってさえいれば出来るものでは無い。出たカードの示すキーワードを取り込んで予言を紡ぎ出す、いわば小説家のような創造的才能が必要なのである。
両親が期待し「姉」も期待に応えようとした医療研究者の仕事とは全く種類の違う、正反対と言っても差し支えない才能が「姉」にあったことが伺える。しかし、両親共にそんな「姉」をなんとか研究者にしようと通院を拒み、家に閉じ込めて、研究者にはいつなるのか?とプレッシャーをかけ続けてしまう。
後半、薬により目覚ましく回復した姉がフリーマーケットのようなイベントで、迷い無くサっと手に取り流れるようにそのまま会計へ進んだ物は「パワーストーン」である。
●正気と生気
映画序盤から中盤。インタビューを試みるが何かを警戒してか口を開こうとしなかったり、話しても何か明確な意味が見つけられない「姉」。黒々とした髪はしかしザンバラで、眼光は鋭くカメラを見つめ返す。終盤、入院により統合失調症を改善させた姉。櫛で整った髪には白髪が目立ち、眼鏡をかけた目線は柔らかい。そして、ステージ4の肺がんが見つかる。
中盤までと終盤までにどれほどの歳月が経過しているのかは明確には判らない。年齢を重ねれば白髪は現れるものだ。抗がん剤やがんの放射線治療で白髪になる人も多い。とはいえ、あまりにも象徴的である。
映画『ポルターガイスト』であの世を通って娘を奪還した母親のこめかみあたりから一房の白髪が現れる。また『Xメン』(2000)のローグや『ゴーストバスターズ』(2016)のエリンにも大変な経験を通過した後に同じような白髪が出現する。映画的な文脈で「白髪」は厳しい戦いを終えた女性に現れる。
本作では、母と病との数十年に渡る消耗戦を経て「姉」の黒髪は白くなった。と、映画的には解釈できる。
●『どうすればよかったか?』
肺がんにより逝去した「姉」のお葬式で、老いた「父」が車椅子に乗ったまました挨拶で、「姉」との共著で研究結果をまとめた論文を準備していたと語られる。
これはおそらく「論文の準備」も含めた「だったら良いな」という父の見た夢であろう。
監督は「姉」の真相を知る唯一の人になった「父」へインタビューを試みる。誰が「姉」の治療を止めたのか。誰の決断だったのか。「父」はやんわりと、遠回しに、そしておそらくそう訝しんでいた「監督」の誘導により「母」の考えだと認める。
今、70歳以上の老人たちは親と先祖にはいかほど割り切れない思いがあっても感謝しろと、強烈な「家父長制」を叩き込まれてきた世代だ。「母」もモチロンそんな世代であり、女である自分には決定権は無いと思い「姉」の治療拒否は「父」の決定であると言っていた。それが「母」だけの強い希望であったとしてもだ。結局「母」の逝去後、「父」は娘の治療を承諾しているし、意味不明な事をしゃべり意思の疎通が出来ない「姉」を「100%正常」だと押し切るのは「父」には無理だったのだろう。
劇中繰り返されるのは「母」が「父」を盾にして、なんとか病院へは連れて行くまいとする、強い意思だ。「姉」は大丈夫だと言い張る「母」の口調は“お母さんヒス構文”めいてさえいる。おそらく「母」の反対を押し切り「姉」を病院へ連れていっても通院や入院は許可せず、協力もせず。無理を通し続ければ、むしろ「母」の心が“ポッキリ”と折れてしまうかもしれない、というのが「監督」と「父」の判断だったろう。
「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」そう叫んだのは「母」本人だったのではなかったろうか?
そして「監督」はタイトルにもなった『どうすればよかったか?』を「父」に問う。
その問いは明確な回答を求めた問いでは無かっただろう。後悔先に立たず。後からなら何とでも言える。「母」を押し切ることは出来なかった。無理をしてでも「姉」を病院へ連れて行くこともしなかった。ただただ現状維持を「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」だけだった。
後悔も出来ず、結果だけを受け止めざるを得ない「監督」の、そうとしか言葉では表せられない、疑問形ではあるが問うているワケではない、その状態そのものを表す言葉が『どうすればよかったか?』ではないだろうか?