「サンシティ」と日本

1984年。イギリスのポップ/ロックミュージシャンたちにより、興されたチャリティ・プロジェクト「バンド・エイド」に端を発し、翌年にはアメリカの「USAフォー・アフリカ」が立ち上げられ、豪華ミュージシャンたちによるチャリティ祭りが、ある種「ブーム」のように巻き起こった。日本でも森進一らが立ち上げた「じゃがいもの会」や24時間テレビ発のアリス谷村新司加山雄三の「サライ」が有名だろう。
それらの活動は基本的にアフリカの飢饉などのために無償で集まったアーティストたちが曲をリリースし、その収益を寄付するというものだ。
 
その中でも異色だったのは1985年に発表された「アーティスツ・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト」(直訳で「アパルトヘイトに反対するアーティスト連合」)の「サンシティ」だ。
南アフリカの人種隔離政策「アパルトヘイト」に反対したアーティストたちが集まり、発表したプロテスト・ソングである。
参加ミュージシャンはU2ボノやピーター・ガブリエル、“ボス”スプリングスティーンボブ・ディランリンゴ・スターホール&オーツなどに始まり、アフリカ・バンバータやグランド・マスター・メリーメル、カーティス・ブロウ、ランDMCといったラップ勢。Pファンク総帥ジョージ・クリントンギル・スコット・ヘロンボビー・ウーマックのファンク勢。ルー・リード、ジョーイ・ラモーン、マイケル・モンローのパンク/ハードロック勢、そしてジャズ界からはハービー・ハンコックに帝王マイルス・デイビスまで参加した、不良感度の高いメンバーである。
 
 
この企画盤が異色だったのは、最終的に収益はアフリカを支援する公益信託に寄付されたが、それはあくまで「結果的」「付帯的」なもので、第一の目的は「サンシティでコンサートしない」と表明することだった。
曲のサビからして「私はサンシティでプレイしない(I ain't gonna play sun city)」である。
当時の南アフリカが「人種差別」という犯罪行為を国をあげて行っていた事や、アメリカでも黒人に対する人種差別は根強く残っていたこともあり、曲調も「バンド・エイド」や「USAフォー・アフリカ」とは違い、怒りが籠もったアップテンポなロック調である。
さらに、最終的にはカットされたが、歌詞にはサンシティでコンサートを行ったアーティスト(おそらくクイーン)を攻撃する内容もあったらしい。
 
アーティストにとってコンサートは「仕事」だ。それも、ギャラの良いサンシティでの仕事は「良い仕事」だっただろう。それでも多くのアーティストが反対したのは、腐敗した反人間的なシステムに対して、反対を唱えなければならないという「道義的責任」に他ならない。
 
腐敗した組織の元、一部富裕層のさらなる利益と娯楽のために、何百人か、ことによっては何千人か死ぬことになる、東京オリンピックに出場するアスリートたちの皆さんへ。
 
この曲が「サンシティ」です。
 

もう少しまじめにやっておくべきだった

東京オリンピックパラリンピックと言えば、オシャレあごヒゲ佐野研二郎である。

2020東京オリンピックパラリンピック公式エンブレムのデザイナーとして脚光を浴びたが、その光は優しいものでは無かった。まず、そもそものオリ・パラエンブレムがベルギーのデザイナーに訴えられる。これをきっかけに過去の仕事と「パクリ元」の一覧が作成されてしまう。
デザイン業の端っこでごはんを食べている私から見て、論われたデザインのほとんどはパクリとは言えない。当てこすりの言いがかりだ。
 
しかし「アウト」も存在していた。
 
ノンアルビールのシールを集めて応募すると「佐野研二郎デザイン」のトートバッグがもらえる、というキャンペーンで30種類あるデザイン中、いくつかに他のデザイナーの作品やSNSにアップされたイラストの無断使用、トレースが見つかった。
まとめサイトなどでは8点がパクリとして挙げられているが、私的には「アウト」は2つ。無し寄りの「アウト」が1つ。他の5点は完全なあてこすり。これは他の、どのデザイナーでも同じ意見になると思う。
しかし「アウト」は「アウト」だ。
 
 
まず。この件を理解するには「アート・ディレクター」という存在と仕事を知る必要があるだろう。
業界内では「AD」と約される「アート・ディレクター」。この「ディレクター」は映画などの製作現場で言う「監督」と同じ意味だ。
 
例としては『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が解りやすいだろう。この作品には3人の「監督」(摩砂雪鶴巻和哉前田真宏)がおり、その3人を、さらに監修する庵野秀明が「総監督」として存在している。現場で動画の演出、編集などを作業者に指示するのは「監督」たちで、その仕上がりに対して、修正点や変更を決めて「監督」たちに指示を出すのが「庵野総監督」の仕事だ。
実際に、どの程度口を出していたのか、どんな役割分担があったのかは知らないが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は3人の共同監督作と言うよりも「庵野作品」として受け入れられている。
 
デザインでは「アート・ディレクター」がクライアントと打ち合わせをし、方向性や指針を決め、決定事項を「デザイナー」に伝え、仕事を振る。デザイナーはその指針に沿ったデザイン作業を行い「アート・ディレクター」に確認してもらい、取捨選択なり修正指示をもらい、デザインを完成させる。
 
おそらく、トートバッグのデザインは佐野が自身の事務所所属デザイナーや外部デザイナーなどに仕事を振り、上がってきたデザインを佐野が監修する。という流れがメインであっただろう。もしかしたら幾つかは佐野自身が手がけたかもしれない。
つまり、パクリとされるトートバッグは佐野自身の作業では無い可能性が高い。プロのデザイナーならネットで拾った画像の無断引用ないし流用がタブーである事は周知しているので、ディレクションする佐野も上がってきたデザインの権利をイチイチ確認する事は無かっただろう。
 
しかし。とはいえ。引責は佐野のものだ。今回の場合は「佐野研二郎デザイン」と看板に掲げられているし、仕上がりに責任を持つのが「アート・ディレクター」である佐野の役目で仕事だからだ。
 
そして、この3つのトートバッグの存在故に、他の「完全セーフ」もアウト認定されていき、オリ・パラエンブレムも結局は取り下げられた。
 
こうなると、もはや手がつけられない。佐野が手がけた全てが批判、批難、罵詈雑言のマトとなった。そんな炎上の中「薪」として、オリ・パラエンブレムのプレゼン資料が「パクりだ!」と投下され、ワイドショーなどで取り上げられた。渋谷駅前のビル群や、空港での告知展開見本で使用した写真が、他のサイトなどで掲載されていた写真の無断流用だと言うのだ。
 
アホか。
 
そんなのはあたりまえの話で、その展開図やイメージ画像そのものをCMやポスターへそのまま流用したなら完全にアウトだが「こんな感じになりますよ」とクライアントに伝えるイメージ見本にパクりもへったくれもない
例えば打ち合わせ中に「だいたいこのスマホくらいの大きさです」と持ってるiPhone出す時に、アップルの承諾なんかいらないし、取り出した事が発覚しても訴えられない。抵触する法が無い。JASRACじゃあるまいし、全ての場において権利料が発生するワケではない。
当時も同じような事を私は発信したが、あまり注目されなかった。もちろん私自身の発信力の弱さが主な要因だろうが、ヨダレを垂らし佐野に石を投げ続ける人々の目に留まったとしても、私はこう言われただろう。


「こういう状況で真っ先に公の場で書くようなものじゃないです」と。


日本人の99.9%はバカかもしれないが、バカのままであろうと前向きにバカであり続ける人は、それほど居ないと思う。思いたい。石を投げる方向を間違ったままマウントをとるクズに忠告するのは当然のリアクションであって欲しいし、そうありたい。
しかし、いわゆる「日本人的」な感覚ではその忠告は「出る杭」として忌み嫌われる。同調圧力は日本人の特性と言ってしまって良いだろう。そして、忠告を止める感覚は困ったことに「正義」なのだ。「自粛警察」「マスク警察」「他県ナンバー狩り」同様に「呪い」めいた自己陶酔を促すロマンチックな「正義」だ。
また、(収入に雲泥の格差はあるが)同じデザイン業の私が忠告すれば「身内に甘い」という批判に正当性があると勘違いする者も多く出現しただろう。しかし、それでも忠告は、なされた方が良い。後になって振り返った時、権力にも似た大きな潮流に忠実ではない人がいた事をリマインドさせるためにも。
 
私はなぜ、今になって佐野研二郎について書いているのか?
 
101年ほど遡って考えてみることにしよう。

ヘイ・ボーイ、ヘイ・ガール『ハンナ』

 

 


ケミカル・ブラザーズ1st『さらばダスト惑星』を初めて聞いた時、荒っぽいロックビートにガツガツと裏打ちが入るリズムと、生音やサイレン音をサンプリングしたザリザリとした触感が猥雑な世界をイメージさせ、心底ヤラれてしまった。


その彼らが音楽を担当した『ハンナ』。

『つぐない』や『プライドと偏見』など、文芸臭の強い作品を手がけてきたジョー・ライト監督の新作でありながら、美少女殺人マシーンが暴れまくるアクション満載の映画になっていた。もちろん単なるアクション映画では終わらず、サブテーマを含んだ重層的な仕上がりになっている。


出生に秘密を抱え、フィンランドの山奥で殺人マシーンとして育てられた少女ハンナと父親による死屍累々のルーツ巡りというのがあらすじ。サバイバルと殺人術だけを教え込まれ、それ以外の知識は『007/ドクター・ノー』のハニー・ライダーのように百科事典からだけ。フィンランドの森と雪原以外の世界を知らない少女が、社会に触れ、父親以外の人物と出会い交流して行くカルチャーギャップが描かれる。


旅行中のアメリカ人一家とその娘ソフィーがコミックリリーフとして登場し、殺伐とした物語を彩る。サバイバルしか知らないし自意識も持てないまま育ったハンナに対し、徹底的に無駄な知識と「レズビアンになりたいの!」といった10代特有のワケのわからない願望しか持ち合わせていないソフィー。

ソフィーに言われるがままに背伸びしたアバンチュールの道連れにされるハンナが、生きるのに全く必要の無い事がらに挑戦していく様は目尻の下がる光景だ。

また前記したサブテーマが素晴らしくてボクは鑑賞中、ほとんどそちらに気を取られていた。劇中「音楽とは何か?」と問うハンナに父親は百科事典を開き「音楽:音の組み合わせで感情を表現するもの」とそっけなく取りつく島もない。まだ、音楽を聴いた事の無いハンナが、逃避行中のモロッコの川で洗濯をするおばちゃんたちの労働哀歌に聞き入るシーンはなんとも言えぬ多幸感にあふれる。


そして、ケミカル・ブラザーズによる劇伴が、かなり面白い試みに挑戦している。通常、映画音楽というと画面に映る情景や登場人物の心象を音楽で表したり補足していくような役割を担っている。歌の入っている曲であれば、その歌詞で登場人物の代弁をするなど、流れる映像のレイヤーの上に音楽のレイヤーを重ねるようなイメージだ。


ところが『ハンナ』では画面の中の環境音、雑踏や繰り返されるサイレン音など、反復される音をベースのリズムに見立て、そこに裏打ちのビートが入ってくる。さらにタイヤのきしむ音や浮浪者の奇声がアタックとして入るなど、映像と劇伴が解け合うようなイメージなのだ。


丁度、ケミカル・ブラザーズの有名な『スター・ギター』のPVのようにリズムと景色がシンクロしているような感じ。あのPVの場合は曲ありきで風景をCG加工していたワケだが、『ハンナ』の場合、映像の段取り/組み立ての段階から音楽に合わせるよう、3拍子の3拍目に大きな動きが来るように演出しているのではなかろうか?


この映像と音楽のシンクロがキメキメにポーズが決まるダンスを見るような快楽となっている。また、そういった無駄に思える演出が、そのまま社会に溢れる音楽への讃歌となっており『ハンナ』の大テーマと有機的に繋がっていくあたりも素晴らしい。
音楽好きの感想が聞いてみたい傑作。

幸せに、まだ慣れない

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一昨年の冬からネコを家に迎え入れた。
 
お腹に白い差し色がある黒猫。女の子なので逞しく育って欲しいという願いも込めて『ブラック・パンサー』の屈強な戦士「オコエ」の名前をいただいた。
しかし、オコエはネコタワーの2階(40cmほどの高さ)から飛び降りるのも躊躇してから降りるような恐がりだ。
 
家の中でも、まだ慣れていない場所がある。家に来たばかりの頃は里親さんが用意してくれていたケージの中でほとんどの時間を過ごしていた。ケージを取り払った後は、ケージを置いていたリビングの中だけをウロウロしたり、テーブルの影で寝ていたり。
 
今は家人の書斎とリビングがテリトリーだ。たまに寝室に入るが、オコエにとって寝室はチャレンジングな場所らしく、トイレ後のハイになって駆け回る時に勢いをつけて飛び込むか、そーっと、そーっと、様子を伺いながら入って、それでも1分もしないうちにトコトコと出てきてしまう。
 
ほぼ毎日仕事に出かける私にとって、オコエに接するのは朝の身支度をしている間と、帰ってきて晩酌をして、ゆったりと休んでいる間だけ。
しかしオコエは、仕事から帰ってきた私の顔を見るなり隅っこやテーブルの影に隠れてしまっていた。撫でようと近くと後ずさりして固まっていた。
休日でも、私は休みが少ないので大概は映画を観に外へ出てしまう。さらに、隔週の休日にオコエの爪を切るのが私の役目なので、昼間に家にいるだけで爪を切らない週でも警戒されて私の姿に怯えて隠れてしまう。
 
一度、私の姉がオコエを見に来た時には、知らない人だ!っと家人の書斎に飛び込んで篭りきりになってしまった。
 
それくらい臆病で恐がりで人見知りなオコエが私に慣れてくれたのは、今年に入ってからくらいか。
 
今では仕事から帰ってきた私を見てもフフンと見上げて、寝っ転がったままだ。撫でようと近づいて、手を伸ばし背中のあたりを撫でていても、気に入らない時以外はフアアとあくびの一つもしながら撫でさせてくれる。気に入らない時は噛む。
 

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私が朝起きてリビングのテレビをつけ、目が覚めるまでボンヤリしていると、寝床にしている書斎のクッションからトコトコと歩いてリビングに入り、伸びをして、ヒャーンと一鳴き挨拶をすると、私の尻に自分の尻をつけて座り込んでくる。
オコエ〜と呼ぶとこっちを見る。ニヤニヤしつつトイレに立ち、帰ってくると扉の前で待っている。私を見るなりヒャーンとまた鳴いて、部屋の真ん中でさぁ撫でろ! とばかりに寝転がる。
ハイハイハイと撫でてやるとゴロゴロとノドを鳴らす。ゴロゴロ言ってるんだからと撫で続けていると、唐突に噛み付いてくるので、最近は途中で止めているが、撫で足りないとまたヒャーンと鳴く。
頭を撫でてやるとグイーンと手に頭を押し付けてくる。私の周りを歩き出して腕や腰に頭を押し付けて、またゴロリと寝転がる。
 
仕事のために身支度をはじめ、終わる頃にごはんをあげる時間になる。スチールのお椀を持ち上げるとメシだメシだと近づいてくる。キッチンにはオコエが入らないように、腰高の扉のケージを設置しているのだが、お椀に水を入れたり、カリカリを入れていると、そのケージを頭で押してくる。
ミャーンと鳴く。ハイハイ、いま準備してるでしょ?と、解らないだろうと思って答える。たまにヒャーンと答える。それが可笑しくて毎回答える。
 
準備が出来てお椀を持ってケージを開けると、こっちを見ながら歩き出し、お椀を置く台から少し離れた場所にゴロリと寝転がる。さっきまでメシだメシだと騒いでいたクセに。
 
この行動は「アンタの用意したメシなんか、すぐさま飛びついて前向きに食べようなんて気が起こらないんだよ!」という意味らしい。しかし、転がっているのだからと撫でてやる。またゴロゴロとノドを鳴らす。
撫でられ飽きると歩き出し、お椀に向かい、食事を始める。
 
ガツガツと食事をする後ろ姿を眺めている。1分ほどで食べたい分は食べて、残りはおやつにしているらしい。
食後は遊べ! とオコエが目を丸くしてネコジャラシを凝視しはじめる。そろそろ出かけないといけないのだが、少しだけ遊んであげる。ネコジャラシを軽快に振り回すと、後を追って走りまわる。寝転がってネコジャラシを捕まえようと手を叩くような動作をするのが、漫画表現の「アワアワしている人」みたいで可笑しい。
 
いよいよ、もう出かけないといけない。ネコジャラシをしまい、じゃあね、行ってきますよ! と言う。たぶん遊び足りないという意味でこちらを見上げている。リビングの扉を閉めて、玄関を出て仕事に向かう。
 
毎朝やっていて、ほぼルーチンになっているのに、まだ慣れない。
毎朝「わぁ、家にネコいるよ!」と感嘆している。
いつか飽きたりするのだろうか? 

人がスターウォーズを愛することのどうしようもなさ『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』

 

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』を観た。
 
私は映画好きで、最近は忙しくてそれほど本数は観れていないが、それでも月に6〜7本は劇場で映画を観るし、好きが高じて映画ライターのようなこともしている。スター・ウォーズについてはギャラの発生する文章を書いたこともある。
その上でスター・ウォーズ作品について「評価をする」ような文章を書くことは、躊躇せざるをえない。プリクエル/シークエルについては特にそうだ。
 
プリクエル/シークエルの「映画」としての出来について「映画ライター」の立場で評価をすれば、それなりに厳しい言葉が並ぶものになる。そうしなければ「映画ライター」としての信用が無くなってしまうからだ。
しかし、私はスター・ウォーズを愛している。愛している対象について厳しい言葉をかけるのは、自分自身を痛めつけるようなものだ。
良いところだけを書けば良いのであれば、私にとっては気持ちの良いものになるが「批評」ないし「良い評文」にはならない。だからしたくない。
 
これが私の「スター・ウォーズについて書く」ことについての偽らざる心境だ。
 
ツイッターで『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の感想が視界に飛び込んでくる。「良かった!」「感慨一入!」といった言葉には、目を細め、心穏やかに眺めている。
しかし、厳しい言葉も少なくない。他人が一般公開された映画について、何をどう語ろうと自由だ。しかし、やはり口さがない言葉には心を痛めてしまう。
特に、認識不足、誤認、いいがかり、あてこすりの“しょーもない言葉”には、その浅薄さを力いっぱいに殴りつけてやりたいという衝動に駆られる。
 
私はこの先、何度も『スカイウォーカーの夜明け』を観るだろう。それは『スカイウォーカーの夜明け』が好きだからではない。スター・ウォーズが好きなのに『スカイウォーカーの夜明け』のことを素直に、愛してあげることが出来ていないからだ。
 
「愛」という言葉を、多くの人は誤解しているような気がする。
「愛」は一目惚れのような感覚では無い。「一目惚れ」は「愛」へのきっかけにはなるが「愛」そのものでは無い。
好ましいと思う対象を見つけ、もっと良く知りたいと思い、対象と深く付き合っていく。すると大概、好きだと思う気持ちを揺るがすような欠点も見えてくる。そこで「好き」という感情を辞めてしまう人もいる。バックラッシュ的に「嫌い」へ舵を切り直す人もいる。しかし、その欠点も踏まえて「好き」であろうと決める人もいる。
そういった人の、対象に対する「好き」な想いが「愛」だ。
 
「愛」とは「好き」も「嫌い」も含めた上で、その対象を「好き」で居続けようとする想いだ。なので「こんなヒドいところがある」といった言葉は、対象を愛する人にとって「え!そうなの! じゃあ、もう好きで居続けるのは辞めだ!」とはならない。
「知ってるよ。でも好きだ。」という想いこそが「愛」だからだ。
 
これは家族や長く連れ添ったパートナーに対する想いに似ているだろう。
家族、特に親であれば付き合いも長い。自分に対して良くしてくれていることも実感しているが「あぁイヤだな」と思うことだってある。時には愚痴として誰かにこぼすこともあるだろう。
だからと言って、自分以外の人が家族やパートナーに対して口さがない言葉を言っていたり、聞かされたりしたら、それなりにイヤなものだ。それが“しょーもない言葉”だったら尚のこと。
 
この先『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』について思ったことをツイッターなどで発信する人も多いだろう。中には否定的なものもあることは想像に難しくない。しかし、その否定的な言葉は多くの場合、スター・ウォーズを愛している人にとって、思いもよらない発見的なまでに新しいものでは無い。
「もう、それわかっているから。何を今さら鼻の穴おっぴろげてミジメなクリシェを開陳してんだ。」と。その程度のものだ。誰かにとっては愛を揺るがすようなものかもしれない。それは、その人の愛がそこまでのものだったダケだ。
 
上記した通り、誰が何をどう語ろうと自由だ。しかしスター・ウォーズに関して言えば、その言葉はいたずらに私を痛めつけるもので、“しょーもない言葉”であった場合には、私の手の届く範囲にいれば、比喩では無く、力いっぱいに殴りつけるだけのこと。
手が届かなければ、比喩表現として「力いっぱいに殴りつける」だろう。
 
「愛」とは外側から見れば不可解で理不尽なものなのだ。
 

海兵隊員は人を殺すために自分の良心を壊す

20年ほど前。今はもう無い吉祥寺のカレー屋で、突き出しとして出てくるキャベツの漬物が苦手だった。マズいワケでは無い。味としては漬物なのだが、たとえば「フルーツの匂いのする消しゴム」のような。確かにフルーツめいた甘い匂いはするが、食べたいとは思わせない。そんな感じだ。
それが「塩漬け」の要領で「味の素」で漬けられた漬物だと知ったのはツブれた後のことだった。
 
昔から、なぜか、とある人気漫画家が好きになれなかった。
最初に見たのは雑誌のコラムまんがだったと思う。仲間との愉快なやりとりを描いたまんがに、何か違和感があった。なんというか。私を不安にさせる何かが芬芬と漂っていた。
その後、漫画家の生活を元にしたと思われる作品で、「泣ける!」と人気の人情ものを読んで、芬芬と漂っていたのが何なのかがストンと腑に落ちた。
これは「味の素」だ。
純然たるテクニック。「面白い」「泣ける」記号の羅列だ。作者のエモーションもへったくれも無く、ひたすらに「泣け」「笑え」という記号が並んでいただけだった。
 
おそらくコラムまんがでは、まんがで描かれた人物が実際に集まり、(まんが的な脚色はあるのだろうが)笑えるやりとりがされていたのだろう。しかし、まんがにされた情景は、もはや「情景」と言うのもはばかれるような、「情」の気配も無い、化学的とも思える、まさに「味の素」のような不安な代物になる。
実人生をベースにしたフィクションの「人情もの漫画」ではその特徴はさらに顕著になる。人を泣かす。感動させるフォーミュラだ。フィクションとはいえ、自分の人生から生まれた感情を物のように扱い、魚をおろすように切りさばく背筋の凍る記録である。
別に「記号」やフォーミュラに裏付けられた「テクニック」を否定しているワケでは無い。漬物だってチョイチョイと味の素を振りかければ旨味が増しておいしくいただける。ただ、それしか無いのは、まさに「味気ない」。晩ごはんのおかずに味の素の小瓶を出された時の気持ちを思い浮かべれば、その「味気なさ」は想像しやすいだろう。
私がその漫画家の作品を見て感じるのは、(作者自身も含めた)被写体に対する、非人間的な冷徹さだ。目的(おそらく金)のためなら心を殺せる。そんな冷徹さ。
 
その漫画家が高名な美容整形医と内縁関係だと聞いた時、非常に納得した。
 
目的を持った、感情の無い人間は、何だって出来る。
自分の利になるなら、羞恥心無く衆人の中で全裸になれる。痛くないなら土下座も出来る。得になるなら不潔で自分の好みでは無い相手とだって夜を共に出来る。病気にならない確証があって、やはり自分に得があるなら肥溜めのクソやウジのわいたネズミの死骸だって喰うだろう。
 
少し前。一度だけ。その2人を見かけたことがある。
 
その時に見た整形医の姿は、内縁の報を聞いた時の印象をさらに強めた。
美容整形を繰り返し、髪の毛を脱色して若作りし、写真映りも良いが、実際は、歩幅10cmほどでヨチヨチとしか歩けない老人である。
 
おそらく。それほど長くはない内に、整形医の死が報じられるだろう。
その後、その漫画家の行動を、この文章を念頭に見てみるといい。
漫画家の演じる悲劇は、あまりに精巧であるが故に「不気味の谷」めいた不安をかきたてるだろう。

ドリフト的横滑り映画『ZERO』

『ZERO』鑑賞。

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「キング・オブ・ボリウッド」シャー・ルク・カーン最新作。本国でも12月21日に公開されたばかりで、日本では日本在住インド人向けの上映会を開催しているスペース・ボックスさんによる、英語字幕の上映。
ちなみに、スペース・ボックスさんは、月に1度ほどのペースでインド本国とほぼ時差無く新作上映をしているので、興味のある方は上映会参加をおすすめ。日本の上映と違い、インターミッションでは休憩が入り、ロビーではサモサや甘いおやつ、チャイなどが販売され、インド人たちの気楽な上映スタイル、鑑賞態度、スター登場の盛り上がりなどが、ややソフィスティケイトされた形で体感できる。
 
さて。シャー・ルク・カーン:SRKの新作は当然のように「メロドラマ」だ。
日本ではお昼の連続ドラマが「メロドラマ」と称されていたことで「叙情的な恋愛モノで、決まり切った常套展開の薄っぺらいドラマ」という印象があるかもしれない。
たいがい、惹かれ合う2人が立場や地位の違いから引き裂かれる。という展開で、その障害を乗り越えてようやく愛が成就しそうになると次の障害がやってくる。というのがパターンだ。
そんな「メロドラマ」はインド映画の非常に大きな潮流の一つでもあり、多くのメロドラマの傑作に出演しているSRKは「メロドラマ」の帝王と言っていいだろう。つまり「キング・オブ・ボリウッド」である。

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そのSRKの新作でメロドラマの『ZERO』だが、いわゆる「決まり切った常套展開」は無い。それどころか『ZERO』に似た作品すら無い。
あらすじは「資産家だが学の無い陽気で軽薄な小人症の男バウアーと、脳性麻痺で運動障害のある宇宙工学博士の女性アーフィヤーの、多難な恋」だ。
この時点で凡百のメロドラマとは一線を画しているのが解るだろう。しかし、一線を画すのはあらすじだけでは無い。
バウアーは星を自在に操れる超能力も持ちつつ、ダンスコンテスト出場を目指しムンバイへ向かう。アーフィヤーはアメリカで宇宙計画に参加しチンパンジーを火星探査に向かわせるプロジェクトを立ち上げている。そこへ、最近イケメン俳優にフラれてヤケになっているバウアー憧れの女優バビータが現れる。
映画はこの3人を中心に、いたって解りやすい表現で語られる。時系列も一直線だ。しかし、印象としては極めてアブストラクトな、例えるなら『スローターハウス5』のような散文詩的なものになっている。
 
まず、本作は西部劇として幕を開ける。
そして、バウアーとアーフィヤーのロマンティックコメディへ移り、中盤になるとバビータの登場と共に大転換をし芸能業界内幕モノ的な展開をしていく。さらに終盤はドリフト的横滑りでジャンルを変えて物語が終わる。
しかし、その芯にあるのはメロドラマである。
観客は2時間45分の本作で、様々なジャンルを横断しながら、惹かれ合う2人がなかなか結ばれない様子を息つく間も与えられずに見守ることを余儀なくされる。
 
なんと豊かな映画であろうか。
私は全編に渡り呆気にとられ続け、そのまま涙を流してエンドロールを眺めるハメになった。