正義の暴力 〜『ダウト〜あるカトリック学校で〜』シスター・アロイシスの暴走〜

 
カトリック学校の校長シスター・アロイシスは校則を破った生徒には容赦無い罰を与えるほど厳格な信仰者であり、温和で進歩的な考えの教会の司祭フリン神父のことはもちろん疎ましく思っている
そんな中、フリン神父と生徒の少年の性的な関係を匂わせる出来事の報告を、若い教師のシスター・ジェイムズから受ける。アロイシスはフリン神父を追求し「以前いた教会のシスターに当校への転任の理由を聞いた!」とカマをかけ、遂にフリン神父を学校から追い出してしまう。
 
さて。劇中フリン神父が本当に少年と関係を持ったのか、以前の学校からの転任理由が子供に対するレイプだったのかは明確には描かれていない。ただ、実話を元にした映画『スポットライト 世紀のスクープ』でも描かれている通り、カトリック教会聖職者による子供のレイプと、教会の隠蔽体質はよく知られており、フリン神父は「濃いグレー」に印象付けられている。
その上で、作品はアロイシスに焦点を合わせていく。
 
アロイシスは厳格にすぎる容赦ない人物として、観客に愛されないような人物設定が施されている。
少年の母親がフリン神父には感謝しており告発する気も無いし、大ごとにもして欲しくないと懇願しても、アロイシスはそれを無視する。加えて以前の転任の理由を聞いたというのもウソだ。敬虔なアロイシスは根拠なく信じた疑念のために「十戒」を破ったのである。
しかも「不正を追求するのは神から遠ざかる行為だが、その価値がある。」と詭弁まで弄する。
 
しかし、結局教会側はアロイシスの話を信用せず、フリン神父は新しい赴任先で主任司祭に昇進している。訓戒を破りウソをついてまで追放したのに、結局誰にも信用されなかったのだ。
アロイシスは、正義を為すためにフリン神父を追放をしたのか、フリン神父がただただ嫌いで追放したのか、自分に対する疑い(ダウト)が、自分で拭えないと泣き崩れる。
 
アロイシスは非常に強い信仰心があったからこそ、自分自身を疑いの目で見ることが出来た。そして、泣き崩れてしまう。
もしもアロイシスに信仰が無かったら。信仰の対象が自分自身(ナルシスト)だったら。さらに邪な目的があったら。
現在の日本では、そんな醜い光景を安易と目撃できる。

成就しない愛 〜『セーラー服と機関銃』政の幸せ〜

いきがかり上、組員が4人しかいない弱小ヤクザの組長に収まった女子高生の星泉。しかし就任早々ドラッグをめぐるトラブルに巻き込まれ、組員2人が殺されてしまう。復讐の殴り込みに向かう相手事務所のエレベーターの中。おしっこしたいと言う政に帰ってもイイぞと佐久間が気遣う。「イヤや!生きるも死ぬもアニキと一緒や!」泉は佐久間を見つめる政のただならぬ熱く艶っぽい目線に気づく。
 
「おたく、ひょっとしてクルージング?」
 
1980年公開のアル・パチーノ主演作でゲイばかりを狙った連続殺人鬼を追うためにハード・ゲイのクルージング・バー(ハッテン場)に潜入した刑事が、思いのほか性に合って苦悩する。という映画『クルージング』から「ゲイ」と言う代わりに使ったのであろう。
当時の言語感覚でストレートに表現すると「ホモ」になるのだろうが、現在でもゲイと直接意味を共有しない「クルージング」を使い、かえって普遍性を持たせてしまうあたり、相米監督らしい天才的な偶然と言えるだろう。
 
また、本作以前にもブロマンス的な意味で、たとえば「『昭和残俠伝』は高倉健池部良のBLだ!」といった、名言されていない故に存在する「バッファ」から生まれた妄想遊びのような解釈はあったが、奇妙で滑稽な女装をさせず、コミカルな意味も持たせず、自然にゲイ男性ヤクザを登場させているのも見事な先見性である。
 
さて。ここで気になるのは政の心境である。
 
泉の指摘を受けて、佐久間が政との刑務所での出会いを回想していることから、当時から好意を持たれていた事を佐久間自身も知っていたのだろう。しかしセクシャリティの違いから愛し合う仲にはなれず、しかしヤクザの「兄弟の契り」を結んだ。
つまり、政は最愛の佐久間の隣に居ながら、自分が望んだ形での愛の成就は絶対に叶わないという契約がされたようなものだ。
 
しかし、それでも政はそれなりの満足をしていたのではないだろうか?
最愛の人が視界の中にいて。何かの拍子にフと触れ合い。向こうは何も思っていないが、自分は勝手に昂っている。そんな日々。
 
私自身が思ったようには懐いてくれない愛猫オコエの世話をしながら、政の報われず、成就しない、しかし充実した愛の日々を重ねる。
 

キングになったジョーカー 〜『ジョーカー』マレー・フランクリンの人生〜

映画『ジョーカー』。

 
ピエロのバイトで食い繋ぐ、売れないコメディアンのアーサー。人気コメディアンであるマレー・フランクリンの番組で、ダダ滑りする舞台での様子がビデオ放映されバカにされる。その上、さらにバカにし倒すため番組に呼ばれる。しかし「ジョーカー」となったアーサーは生放送中に社会の不条理をまくしたて、その象徴としてマレーを射殺する。
 
マレー・フランクリン役へのロバート・デ・ニーロの起用は、かつてマーティン・スコセッシ監督作『キング・オブ・コメディ』でデ・ニーロ自身が演じたコメディアン「ルパート」を連想させるためであろう。
『キング・オブ・コメディ』は誇大妄想狂の売れないコメディアンのルパートが人気コメディアンを誘拐してテレビ番組に出演を果たす、という『ジョーカー』を強く思わせる作品だ。
 
つまり『ジョーカー』のマレーには『キング・オブ・コメディ』での「売れない過去」も含ませている。では「キング」となったルパート:マレーはいかに「キング」であり続けたのだろうか?
『ジョーカー』本編でのアーサーへの仕打ちから推測するに次々と「弱い者」を見つけ、視聴者(つまりは別の弱い者)ルサンチマンの吐け口を作り続けるという手段ではなかったろうか。
 
そもそも。宮廷道化師(クラウン/ピエロ/つまりはジョーカー)は、貴族や王族(キング)に仕え、時に批判も辞さずに彼らを楽しませる、という役割を持っていた。なので自分を雇うパトロンと、せいぜいパトロンの家族を楽しませれば良かった。しかし現在の道化師:コメディアンは多くの大衆を相手にしなければならない。
ただ、幸い現在のパトロンである「多くの大衆」はコメディアンを「雇っている」という意識は無く、逆に有名人として偶像視している。また「多くの大衆」の嗜好や趣味は多種多様だが総じて陽動されやすい。そこで、偶像性を駆使し多くの大衆の旗手として先頭に立ち、ブッ叩いていい奴を名指しして回り「キング」であり続けた。
 
偶像視されたマレーは自分の弱さを忘れ、やがて批判する者がいない「キング」となり、弱者を晒しあげ続けた。
 
最近、そんな人の活躍を見かける。

正義と快感 〜『セブン』ジョン・ドーの目的〜

映画『セブン』。
 
警察に出頭したジョン・ドーは、それまでの犯行を認めることと、まだ発見されていない犯行の自白を引き換えに、ミルズ刑事とサマセット刑事を伴い、何も無い荒野の真ん中へ向かう。その道々、ジョン・ドーは饒舌に犯行の意図を語っていく。
人々は好きな物を好きなだけ喰って、楽しみのための倒錯的なセックスに溺れ、人を不幸に突き落としてでも金儲けを優先する。そんな人々へ「七つの大罪」をモチーフとした殺人を突きつけ、警鐘を鳴らす意図があったと。
揚々と犯行を語るジョン・ドーに、口ごもる瞬間が訪れる。自らの行為の崇高さをまくしたてるのを、サマセットがピシャリとたしなめた時だ。

「でも、オマエは人殺しを楽しんでいただろう?」

「……仕事を楽しむ権利もあるだろ?」
 
ここでジョン・ドーの犯行を並べてみる。
大食漢の男にスパゲティを文字通り死ぬまで食わせた「GLUTTONY(暴食)」。

あくどい弁護士にシェイクスピアベニスの商人」の「1ポンドの肉」を実践させる「GREED(強欲)」。
ジャンキーをベッドに縛りつけ間断なく、しかし死なない程度にドラッグを与え続ける「SLOTH(怠惰)」。
娼婦を買う客にナイフの付いた性具を着けさせて娼婦を犯させる「LUST(肉欲)」。
美人モデルの顔を切り裂き自殺か、救急車かを選ばせる「PRIDE(高慢)」。
美しい妻とこれから産まれる子供など幸せが待っているミルズに嫉妬し、その妻を自ら殺す「ENVY(嫉妬)」。
復讐のためミルズに自分を殺させる「WRATH(憤怒)」。

 
「嫉妬」と「憤怒」は他とは意味合いが多少異なるため別としても。個々の犯行にはジョン・ドーに直接性的な達成感(射精)を促すようなものは無い。もちろん金品を目的としたものでもない。一応「人々に罪深さを啓蒙する」という目的はあるが「啓蒙」それ自体がジョン・ドーの楽しみだったワケでも無い。
 
サマセットが指摘した、ジョン・ドーの犯行における楽しみとは「支配欲」であろう。
ジョン・ドーにとって「7つの大罪」を犯す者は「罪人」で処罰の対象である。
「処罰」を日本語で使う場合「処罰を与える」「処罰を下す」「処罰を課す」となり、どれも上から目線の行動であるのが解る。「処罰」は相手を傅かせ、屈服させ、自分が希望する通りの行動をとらせる。それらは罰を加える側:ジョン・ドーの支配欲を刺激する。
 
ちなみに、ペドフィリア犯罪で捕まった多くの犯罪者たちは、実はペドフィリア的な性癖は持っておらず、単に子供が「御し易い」「抵抗しない」「言い返さない」からだという話がある。つまり、彼らは支配欲を満たすために子供を犯すのだ。
 
そして、ジョン・ドーがサマセットに指摘され口ごもってしまったのは、ペドフィリア犯罪者と同様に、目的を達成する過程で副次産物的に産まれる物との「逆転」を見透かされてたように思えたからではないだろうか?
つまり「啓蒙」を果たす過程で支配欲が満たされるのではなく、支配欲を満たすために「啓蒙」の言い訳を作った。むろん、自分自身の欲望発散という後ろめたさを隠すために。

精神科医でカウンセラーを務める人物が診察室で出会った人々を例に、様々な「うそ」を取り上げたルポルタージュ本「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」の中で「最低最悪のうそつき」と定義づけられているのが「自分を自分のうそでダマせる人」である。
例に挙げられているのはDV母親が自分の子供に怪我をさせ、医者に対して「階段から落ちた」とうそをつく。最初こそ自分がうそをついている自覚があるのだろうが、何度も「階段から落ちた! かわいそう!」と繰り返し医者に訴えるたびに自分自身もそのうそに騙されていく。最終的に本当に自分の子供が階段から落ちたと信じてしまうというのだ。
 
「義憤」にかられ「処罰」を与える一方で、実は「処罰」がもたらす「支配欲」の充足こそが真の目的だった。
 
そんな光景を最近良く見かける。

階段のエスプリ 〜クリス・ロックとウィル・スミス〜

フランスの「エスプリ文化」。上手い言い回しや比喩表現で面と向かって嫌味を言う。という、いけすかない文化である。
言われた方もその場でエスプリを返せれば良いのだが、咄嗟に気の利いた言葉を思いつき絶妙なタイミングで放つのは至難の技だろう。
あぁ悔しいなぁと帰路につこうと階段を降りかけた時にフっと、気の利いた言葉を思いつく。しかし、後から思いついた「気の利いた言葉」なんてものに意味は無い。
エスプリの常套表現では、その場で上手く返せない人を「階段のエスプリを持っている人」と表現するそうだ。「トロい」とストレートに言わないエスプリでありトコトンいけすかないものだ。
 
ウィル・スミスとクリス・ロックである。
 
「ジェイダ! 愛しているよ! 新作『G.I.ジェーン2』楽しみにしているよ!」
しょうもねえなぁ。と思いつつ横を見るウィル・スミスの目に映ったのは怪訝な様子のジェイダである。
瞬間的にウィルの頭に去来したのは、恐ろしいほど不機嫌なジェイダを延々となだめ続ける自分の姿だ。
「モチロン良い意味でね!」よせばいいのにクリスがいつまでも『G.I.ジェーン』ジョークを続けている。
(どうにかしなければ! 今すぐにブン殴ってでも止めなければ!)思うと同時に立ち上がってしまう。
最前列のウィルからクリスまでの距離は3〜4メートル。(とはいえ、アイツは友達だ。中継カメラもある。やっぱりブン殴るわけにはいかない。)しかし立ち上がった手前、もう歩き出してしまっている。
(だいたいゲラゲラ笑ってるセレブどもも共犯じゃねえか!)もう、数歩でクリスに手が届く。
(殴ったらダメとはいえドウする!?)クリスの目の前に到着する。もはや手は上がっている。クリスはニヤニヤとした半笑いのままだ。
(グーはダメ! パー!)
 
バチーン!
 
(とはいえヤッベー!)
殴りつけるよりはマシな「ビンタ」ではあるが、本当の、フィジカルな暴力を、自分の肉体を使って行使した興奮でアドレナリンが身体の隅々まで駆け巡る。しかし、どよめく会場に瞬間的に頭が冷める。興奮で身体は自信タップリな挙動で動く。それでも冷めた頭でようやく自分を席へ向かわせる。
(ウーン! どうする? ってもうどうにもならねえ!)
諦め半分、自分の席にドッカリ座る。行動がジワジワと実感に変わる。そんなウィルの耳にクリスの声が届く。
「ウェヘヘ! ウィル・スミスにビンタされちゃったよ。」
抑えてつけていた自制の系が切れて、アドレナリンが優勢となる。
「その薄汚え口から二度とオレの妻の名前を言うんじゃねえ!」
(やってもうたー!)
興奮の勢いでようやくジェイダの顔を、それでも恐る恐る見る。驚きに呆れが混じっているが、ウィルが幻視した不機嫌なジェイダはいない。それをなだめる自分の姿の予感も消えている。
(セーフ!)
 
これは私が最初にこのニュース動画を見た時に思い浮かべたウィルの心象風景だ。
 
クリスのジョークはジェイダのみならず、ウィルも傷つけた。そして、ウィルは深い愛を向ける家族と自分自身の尊厳のためにも、あの場で、あの瞬間に行動しなければならなかった。
少なくともジェイダの気は晴れたようだし、ジェイデンには反面教師にするんだぞっとクギを刺す必要はあるにせよ、黙り込んで何もしない父親の姿だけは見せずに済んだ。
 
ウィルの心象が、私が妄想したものと同様であったと証明は出来ない。どこまで行っても私の憶測でしかない。しかし、私はウィルの行為や気持ちに他人事とは思えないほど共感してしまった。むろんそれが私自身が創った想像上の「ウィルの心象」だと解っていても。
 
この騒動に対し様々な毀誉褒貶が世界中のネットを飛び交ったのは知っての通り。
日本ではウィル・スミス擁護もそれなりに散見できたが、本国アメリカではウィルへの非難が多いそうだ。
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」
「元とはいえラッパーなら気の効いた言葉で返せ!」
これらが非難する声の代表的なものだろう。
しかし、ドレもコレも「階段のエスプリ」である。
後からならドウとでも、何とでも言える。むろん、後からでは全く意味が無い。加えて、それらを言っている人々はウィルがそうだと言われているのと同様に「自分自身」のための発言だ。自分の虚栄心や自己顕示欲、自己満足を満たすため。セレブを悪しげにコキ降ろす自慰じみた娯楽の一環である可能性も極めて高い。
 
その上で。百歩譲って。
それらの忠告や非難とウィルのビンタを比べても、ビンタ以上の良い手段だとは思えない。
 
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」なんて話は判り切ったことで、じゃあクリスの言葉の暴力は無制限に許されるのか? 『サマー・オブ・ソウル』インド系黒人プロデューサー、ジョゼフ・パテルを「あと、他の白人3人!」と雑にあしらった罪は? アジア系の子供たちを「会計係」と紹介したジョークは?
アカデミー賞」自体が、誰かの暴力を誘発させるまで悪趣味を増長させ続け、その結果があのビンタではなかったのか?
 
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」自分を守って何が悪い?
例えば、自分の好きなタレントが悪趣味なジョークのネタになって塞ぎ込んでしまうような場面で、我が事のように辛い気持ちになった経験は無いか?
それが自分の家族だったら尚更。それでも「黙って見ているのがルール」なんてのはルールの方が非人道的じゃないのか?
 
「元とはいえラッパーなら言葉で返せ!」今は俳優なんだが。それに、その理屈ならデザイナーはデザインで返さなくてはいけなくなるし豆腐屋は豆腐で返さなければならなくなる。
そもそもウィル・スミス:フレッシュ・プリンスは「ビーフの文化から生まれたラッパーじゃない。しかもカース・ワードを歌詞に織り込まないことでも有名だ。加えて、相手は悪しげに人をこき下ろすことで超セレブに上り詰めた、口だけは最強に立つコメディアンだ。リズミカルに言葉を繰り出すアゲアゲのパーティ・ラッパーに、何を言い返せと言うのか? 「セイ・ホー!」とかか?
 
最近ウィルのビンタについてジェイダのコメントが発表された。いわく「怒ってはいないが、やって欲しくはなかった。」とのことだ。
ビンタが無ければ「怒って」いた可能性はあっただろう。それこそがウィルが一番恐れていたことではなかったろうか?
いずれにせよ、ウィルはビンタによって、家で猛烈に不機嫌なパートナーがいるという事態は避けることが出来た。
また、クリスのバッド・ジョークの「バッドさ」はウィルのフィジカルな暴力の前に霞み、ウィルは一人でドッサリと2人分の泥をかぶり「友人」であるクリスを立てる格好になった。
 
加えて良かったのはクリスの対応が常識的なものだったことだ。
病気の事は知らなかったし、不本意ではあったものの、友人のジェイダを傷つけウィルを「パートナーの不機嫌」という窮地に陥しかけ、ジェイダと同じ病気に苦しむ多くの女性たちを傷つけたのを自覚したのだろう。自身のバッド・ジョークの正当性をアピールすることは無かった。
また「被害者である」という使い減りの無い「特権」を唸りをあげて振り回しウィルを責め立てることも。ベラベラと被害を吹聴してまわることも。SNSでウィルに詰問を並べ立てるような、気の狂った事もしなかった。
すり寄ってくる衆愚「ウィル批判者」に同調し、ウィルの謝罪や周囲の擁護に「二次加害だ! 犬笛だ!」と口角泡飛ばし狂乱するようなマネもなかった。
これらは「ビンタ」というビジュアル的なショックさを伴った行為だったからこそ生まれた対応であろう。
 
ウィルの「ビンタ」は不問に付されるベキだとは思わない。やはり暴力は良いものでは無い。それに「ビンタ」が問い質される行為だったからこそ、ウィルの家庭は安泰を取り戻したと言える。
とはいえ不釣り合いに過度な処罰や、知性を欠いた粘着質な罵詈雑言、ワケ知り顔だが対して何かを知っているワケでもない坂上忍めいた批判といった「外野の自慰ネタ」にするのも、もちろん間違っている。
 
アカデミー賞を主催する「映画芸術科学アカデミーはウィルをアカデミー賞や関連イベントへの出席を10年間禁止するという決定を下した。ウィルも自らアカデミーから脱会した。
この決定がどれほど重いのか(もしくは軽いのか)よく判らない。ただ、やはり。いずれにせよ。パートナーの不機嫌と天秤にかければ「軽い」と思えるのではないだろうか?
 
ここまで。
 
クリスとウィルにとっての、長ったらしい「階段のエスプリ」ではあったが「パートナーの不機嫌」はいつでもドコでも誰にでも起きうる問題だ。
コレを読んだアナタにとってはまだ「階段」まで到達していないか、問題が起こる現場への「階段」を上がっている途中かもしれないでしょ?
 

「よくわからない」という明確さ『MEMORIA メモリア』

パブロ・ピカソによる反戦をテーマにした「ゲルニカを何の前情報も無く鑑賞したら、多くの人はそのテーマ性には気づかないであろう。
とはいえ。圧倒的な存在感(デカイ!)と、特異な筆致の魅力は強く、何某かの強い印象を観る者に持たせるだろう。
「なんか、よくわからなかったけどスゲー!」といった。
 

MEMORIA メモリア』鑑賞。

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作。南米コロンビアの都市メデジンを舞台に、自分だけに聞こえる奇妙な爆発音に苛まれるジェシカの日々を描く

 
アピチャッポンの作品について書かれた評文は、だいたいムズかしい。「深淵」とか「境界線」といった抽象的、概念的な言葉が使われ、明確では無い結論が断定的な文章で綴られている。
また、アピチャッポンがゲイであることや出身のタイでの事件を引用した、サブテクスト必須な作品(スパイダーマンの新作を観るためにはMCUのドレソレを観ていないと理解出来ないといった)であるように語られもする。
 
それらは、ゴダール作品について語られた評文に似ている。そして、そういった評文は私がつい最近までゴダール作品に触れようと思わなかった原因でもある。
確かに、ゴダール作品やアピチャッポン作品にはそーいった側面があるのだろう。とはいえ「深淵」だったり「境界線」なんかを気にせず、作品背景を知らないままでも彼らの映画は楽しめる。
 
MEMORIA メモリア』で、ティルダ・スウィントン演じるジェシカが公園を通りがかる。すると野良犬が公園の真ん中を、特に目的も無いような風にゆったりと横断する。ジェシカは犬を遠巻きに、警戒するようにソロリソロリと移動し木の影に隠れ、犬の通過を確認しベンチに座る。
その行動は犬を恐怖しているのか、うやうやしく畏まっているのか、いずれにせよ多くの人が犬に対して、特にボンヤリした犬に対してとる行動では無い。そこには、やはりどうしても滑稽さが生まれる。
 
「爆発音」を再現してもらったサウンドエンジニアのエルナンを訪ねてスタジオに来たが見当たらず、近くの人に声をかける。ところが「エルナン」という存在自体知らないと言われ、納得がいかず背格好を説明するも、やはり知らないと言われてしまう。
特におぼろげな存在であったワケでも謎めいていたワケでもない、普通の青年の突然の消失は、超自然的な恐れを抱かせる。
 
川のほとりで出会った中年男性「エルナン」は、見たもの全てを記憶してしまうので、ラジオやテレビは持たず、外を出歩くこともあまり無いと言う。ジェシカは「見逃したら悔しい思いをするものもあるかもよ? サッカーとか。」とエルナンに聞く。
ラン交配農家のジェシカが「サッカー」を「見逃したら悔しいもの」と認識している驚きと「サッカーは…… 別にイイや。」というエルナンの腑に落ちる返答への共感が湧き上がる。
 
他にも、友人との会話に唐突に披露される手品と終了した手品の後片付けの間の悪さ。
話していた相手が目を開いたまま寝てしまい、死んではいないようだが起こして良いものか不安になるバツの悪さ
カギが無いからベンチで塞いでいるという効率の悪さと、その奥にあるのが古代の遺体という時空を超えた空間。
通りがかった部屋で行われる3ピースのジャズバンドが演奏するノリの良いセッションの高揚感。
元々は何かがあったのか、それとも最初からそういう設計なのか、自然光がほのかに入るガラス張りだが中には何も無い空間のスットンキョウな美しさ。
 
そして、子供が語るホラ話のようにバカバカしくも壮大な「爆発音」の正体。
 
多くの映画では、シーン毎にいだかせる感情を連続させて収束するように一つの結末に落ち着かせるものだが、アピチャッポンの作品では解りやすい因果関係には落とし込まれていない。
 
しかし、映画の中に出現した偶然の奇跡的な瞬間や、ニヤニヤとさせられるユーモラスさ。ひんやりとする理不尽さ。などなど。散漫にあるそれらを見つけては「あぁ、楽しいなぁ」と過ごす、というのも映画を鑑賞することで出来る体験であろう。
アピチャッポン作品では、多くの商業映画では感じることの少ない体験に溢れている。
 
「なんか、よくわからなかったけどスゲー!」といった。

パーソナルな物語『マトリックス レザレクションズ』

※以下、大オチについての話を書いています。未見の人はまずは鑑賞するのをオススメ。大きく毀誉褒貶がありはするものの観たところで死ぬワケじゃなし。2時間半あるので尻が痛くなる可能性はあるが、最近の映画館の椅子はよく出来ているよ。
 

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ニック・ジョナスと結婚したインド映画のスーパースタープリヤンカー・チョープラー・ジョナスも出ているよ。
 
旧『マトリックス』三部作は「ゲーム」として創作されたもので、しかも開発者はネオだったハズのトーマス・アンダーソンである。という衝撃的な幕開けで映画が始まる。
劇中。アンダーソンは『バイナリー』(二進法のことだが、つまりは「二者択一」の意味だ)というプロジェクトを進めている(しかし開発は遅れ気味)が、急遽『マトリックス』の続編を作るように命じられる。しかも、作ることはもはや決定済みでアンダーソンが参加するか否かは関係が無い。一応、前の三部作を成功させている手前、声をかけた。と告白される。つまり「ノルかそるか」の「二者択一」を迫られる。
 
これは、おそらくラナ・ウォシャウスキー自身の経験談であろう。
マトリックス』1作目はアンダーソンがネオ、そして救世主として覚醒するという終わり方で、要は全知全能の「神様」が誕生しちゃったという話だ。普通に考えれば、もはや神様になったネオに対抗できる敵は無い。もしも続きを作ったとしても、無敵のキャラクターが向かってくる敵を薙ぎ倒すだけの、スティーブン・セガール作品のような映画になるのが必然的だ。
しかし、ワーナーから続編作成を打診され、やらなければ他の監督に任せてでも新作を作ると言われたのだろう。これは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』続編でパラマウントがゼメキスらに突きつけた要求と全く一緒だ。
 
かくして。続編「リローデッド」と「レボリューションズ」が作られる。ネオの誕生は予め予測されており、マトリックス世界の中では何度も同じ「救世主」が誕生しては排斥されていた。
ただ、今回はネオに内側から破壊されたエージェント:スミスに変化が現れ、自己増殖を繰り返す「バグ」になってしまった。そこで、ネオはスミスを倒す替わりにザイオンへの攻撃をしないという約束を取り付ける。そして、スミスを倒しはしたがネオも死んでしまう。
この、劇的な革命を諦めて間をとって手打ちにするという展開は、革命を目指したウォシャウスキーたちが『マトリックス』の成功により権力側になり、そっちはそっちで色々面倒で様々な事情があることに気づいてしまった展開を投影したものともとれる。
 
さて。ともあれこれで映画『マトリックス』三部作は幕を閉じる(スピンオフのアニメやゲームも生まれたが)。
そして、作品を牽引していた「ラリー・ウォシャウスキー」に変化が訪れる。
男として生まれたラリーは女性へ。「ラナ・ウォシャウスキー」になるのである。
弟アンディも後を追うように女性「リリー・ウォシャウスキー」となり、ウォシャウスキー兄弟はウォシャウスキー姉妹になる。
その後『マッハGO!GO!GO!』の実写版やトム・ティクバとの共同監督作。NetflixのドラマシリーズなどのSF作品を発表するが、どれも『マトリックス』ほどの衝撃を観客に与えることは無かった。
 
そんな中で、マトリックスの前日譚の脚本執筆依頼が『レディ・プレイヤー1』や『フリー・ガイ』の脚本家ザック・ペンにあったそうだ。
 
となれば、この『マトリックス レザレクションズ』は、過去の続編2作がそうだったように、ラナ・ウォシャウスキー自身の物語だと捉えることが出来る。
 
新しい肉体を得たネオ:トーマス・アンダーソンは自分自身ではキアヌ・リーブスの見た目であるが、他の人からは(過去の三部作を作っていた頃のウォシャウスキーがそうだったように)冴えないオッサンの見た目をしている。そして、救世主という立場から引退し、その座をトリニティ(女性、つまりは自分だ)へ譲る。
 
元の三部作が間を取った手打ちで終わったにしても、世界規模の大革命を目指していたのに比べ、この新作が極めてパーソナルな印象に落ち着いてしまうのも、こう考えると理解しやすいだろう。