搾取と不遇を描いた完全無欠な娯楽作『罪人たち』

【ネタバレします】

 

『罪人たち』について事前に聞いていたのは「双子のギャングが故郷に戻ってクラブをオープンすると吸血鬼がやってくるホラー」という、そりゃほぼ『フロム・ダスク・ティル・ドーン』じゃないか? と思ったのだが、全然違った。

そもそも映画のジャンルすら違っていた。『罪人たち』が描いているのはアメリカで黒人たちが産んだ文化を白人たちが盗用してきた音楽の文化盗用の歴史である。

 

「文化盗用」というと、一番有名なのは「ロックンロールの始祖はエルビス・プレスリー」になるだろう。リトル・リチャードやチャック・ベリーが産んだ「ロックンロール」をエルビスが産んだ事にしてしまっている。

 

アメリカで黒人として産まれ作家活動をするイシュメール・リードはコラムで「文化盗用」について、いくつかの論考を発表している。

リードはコラムでロックンロールの始祖はビートルズ」という新聞評を取り上げ、呆れ怒りを隠さないが、しかし黒人“だけ”でロックが産まれ、発展したとも思っていない。つまり、文化というのはそもそもの「始祖」は存在するが、様々な他の文化と触れ、融合し、変化して、新しくなり、発展していく。とはいえ「始祖」を無視すんなよ。というのがリードの論だろう。

ロックンロールは黒人のブルースを元にカントリーなどと融合して産まれた。とよく言われている。確かにロックンロール特有の早いリズムはイギリス民謡を祖としたカントリーからの影響は少なからずあるように思う。しかし「ロックンロールの始祖」はどうひっくり返してもリトル・リチャード、チャック・ベリーファッツ・ドミノのどれにする? という所に落ち着くだろう。エルビスでもビル・ヘイリーでも無い、最初の最初はワッパラルバッパラッパンブー”だ。

 

リードの自作『マンボ・ジャンボ』に登場する「人々を熱狂させ踊り続けさせる病:ジェスグルー」は、黒人音楽であるラグタイムアメリカで急激に流行った現象を報じた新聞記事の「just grow」(ジャスト・グロウ:ただただ広まる)が語源だ。そのジェスグルーは作品の終盤でフッと消えてしまう。

それはラグタイムからジャズが産まれ、ジャズが黒人、白人、黄色人種問わずに広まり、それぞれの文化と融合し変化し新しくなって、黒人だけの文化では無くなった象徴のように思える。

 

『罪人たち』の吸血鬼は人を襲い相手を吸血鬼化すると、その知識や言語、スキルを「共有」する。最初の吸血鬼たち(3人の白人)は、バンジョーフィドルを弾き、イギリス民謡を歌う。その彼らが黒人ミュージシャンを襲い、彼らのスキルやリズム、コード進行などを「共有」した。

となれば、吸血鬼はアメリカの音楽史そのものの比喩であろう。

劇中の主な登場人物は、中国人移民の夫妻とアフリカからの奴隷の末裔である主人公たち。そして吸血鬼のアイリッシュ系の移民。アメリカは昔から移民の国である。他国から来た人々を取り込み発展していった国であり、音楽ももちろん様々な要素を取り込んで、今もなお複雑に進化している。

 

それら複雑に進化した音楽の「始祖」を突きつけるのが中盤のプリチャー・ボーイの歌うブルースだろう。

プリチャー・ボーイが歌い出すと、劇中の時代(1930年台)には無かった低いリズムが鳴り出しエレキギターの轟音と共にキラキラの衣装を着たギタリストが登場する(ブーツィかE,W&F?)。さらにスクラッチ音と共にステージにはターンテーブルとDJが現れる。ダンスフロアにはアフリカの民族ダンスを踊る一群や中国の舞踊を魅せるダンサーまで登場する。

その場にいる人々のそれぞれの発展した姿とルーツが渾然となり、その音楽の「始祖」に黒人たちが介在していたことをワンカットの中に詰め込んだ見事な場面だ。

 

そしてラストでは映画人であるライアン・クーグラー自身の「始祖」を開示する。

皆殺しにするつもりでやって来たKKKの男たちを、たった独りで銃火器を次々に取り出して返り討ちにする。この場面は70年台にアメリカ映画史に燦然と輝く傑作群を残した「ブラックスプロイテーション・ムービー」へのオマージュであろう。

 

『罪人たち』はアメリカ黒人たちの、搾取と不遇を詳らかにしつつ、完全無欠な娯楽として昇華させた傑作である。

ボディ・ホラーとしての『サブスタンス』

 

【ネタバレします】

 

この作品絡みで大小さまざまな炎上が立ち上がっている。しかし、鑑賞後なら「そりゃそうだろうよ!」と思わざるをえない。

なんというか、炎上するべくしてなってるし、炎上させてる人もしてる人も「ははーん。そうなると思ってた。」と、タバスコが意外にたくさん出てきてビシャビシャになってしまったピザを口に入れて「うん、辛い!」と言っている感じ。

 

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本作は本来「ボディ・ホラー」とジャンル付けされるべき作品だ。

「ボディ・ホラー」とは肉体が変形したり欠損したり、言ってみれば「身体が取り返しのつかない状態になる恐怖」のことだ。

有名作だと『遊星からの物体X』や『ヴィデオドローム』『ソサエティ』とか。近年だと『TITAN/チタン』や『ムカデ人間』が「ボディ・ホラー」になる。

無論『サブスタンス』の「1つの人格で2つの肉体を交互に使う」という基本設定もその所以ではあるが、特にラストのモンスター“エリザベ・スー”の存在こそ本作を「ボディ・ホラー」に相応しい作品たらしめている。

「若い美しさ」に囚われたエリザベスの悲劇や芸能業界のルッキズム、ひどい男尊女卑は“エリザベ・スー”の存在を以ってして、人々の関心を強く惹きつけている。

 

ただ「ボディ・ホラー」としての『サブスタンス』が残念なのは“エリザベ・スー”に全体像が無いことだ。

正面の崩れたスーの顔や大小さまざまな無数の乳房。唐突に自分の肉体を噛みしめている歯。身体はコブのような塊で、そこから2本の腕と2本の足が生えている。背中には、エリザベスの顔が、顔のバランスだけは美しく保ったまま、しかし絶叫した表情のまま張り付いている。

しかし、たっぷりとしたプリーツのドレスを着ていることもあり、全体像が現れるのは安定化出来ずに腕から大量の体液を撒き散らすあたりで、画面は赤く染められコントラストを失い、ディティールが見えなくなってしまう。

 

名作ボディ・ホラーには例えば『遊星からの物体X』の外れた頭にカニの足と目玉が生えて歩き回る“ノリス・シング”や『ザ・フライ』で人間とハエが融合した“ブランドル・フライ”など。非常にアイコニックな存在がある。

『サブスタンス』にはそれらのような“フィギュア映え”した“エリザベ・スー”が存在しない。

 

ただ、そんなフィギュアジェニックな“エリザベ・スー”の不在こそが、アカデミー賞ノミネートや、カンヌでの脚本賞受賞をもたらしたのかもしれない。

 

見事な造形の“エリザベ・スー”が登場すれば、人々の注視は“エリザベ・スー”へ注がれ、巧みな映像表現や極端にセリフの少ない脚本などは「ホラー演出を支える素材」へ格下げされてしまっただろう。芸能業界のルッキズムやひどい男尊女卑などの痛烈な皮肉もしかりだ。

ただ、見事な半魚人を出しながら、しかもDVモラハラ差別主義男に鉄槌を下し、さらにアカデミー作品賞をかっさらった『シェイプ・オブ・ウォーター』の例を見るに、やはり“エリザベ・スー”は少なくともロブ・ボッティンリック・ベイカー、もしくはギレルモ・デル・トロにデザインしてもらえば良かったのではないだろうか?

 

シンメトリックで美しくグロテスクな“エリザベ・スー”の姿を夢想してやまない。

プリンセスとバックと魔法のキス『アノーラ』

『アノーラ』鑑賞。

・ディズニー・プリンセス

『アノーラ』は『シンデレラ』を代表とするディズニー・プリンセス映画の現代版かつ現実版として、意図的に極めて単純な構造とキャラクター設計がされている。

アノーラを捕まえるイヴァンの世話焼き係りやロシア正教の神父が、口やかましくアノーラを攻め立てるがヒドい目に会わされて泣き言を漏らすのは、悪の女王にかしずくコミカルな手下たちそのままだ。イヴァンの母親が威厳を撒き散らし、とりつく島も無く野太い声で相手を威嚇する様子はアースラやマレフィセントなどの悪の魔女や女王であろう。

「プリンス・チャーミング」たるイヴァンは、金持ち特有のおおらかさと陽気さを持ち「プリンセス」アノーラに結婚を決意させる。

そして、最後までアノーラに寄り添い続ける“戦士”イゴールは『アナと雪の女王』に登場する労働者階級のクリストフだ。

 

また、近年のディズニー・プリンセスものに顕著だが、劇中の困難はプリンセスであるアノーラ自身に降りかかる。オールド・スタイルの『白雪姫』や『眠れる森の美女』のように、プリンセスが眠っている間にプリンス・チャーミングが困難を解決してはくれない。

プリンセス・アノーラは悪の手下と共にイヴァンを探す旅に出る。むろんその道中が“珍道中”になってしまうのは近年のディズニー・プリンセス映画のお約束だ。

アノーラが家族の話として「マイアミに行けば母と義理の父、それと姉に会える。姉にアナタを取られてしまうかもしれないけど。」と言うのは劇中でも言及されるアノーラが好きなディズニー・プリンセスの『シンデレラ』であろう。

 

そして、タイトルが『アノーラ』の名前だけなのも多くのディズニー・プリンセス映画に倣ったものだろう。

・セックス・ワーカー

一般的にセックスは「子作り」や「快感」といった目的の違いはあるにせよ、いずれにしても「好きな相手」と行うものだ。

しかし、誰でも好きな相手とセックスができる程度の関係性:パートナー・シップを築けるものでは無い。そんな人の「性の捌け口」として、仮のパートナーを務めるセックス・ワーカーは、それなりの重責を果たしている。

もちろん結婚などでパートナー・シップを築いた人物がたまさかセックス・ファンタジーを叶えるためだけに、割り切った関係を求める場合も多いだろうが、中には誰とも分かち合えない“愛”の捌け口を求める人もいるだろう。

そんな重い想いを込めてしまい「金の切れ目が縁の切れ目」が理解出来ない割り切れない側が犯す殺傷事件は枚挙にいとまが無い。また、セックス・ワーカー自身も割り切れない想いを持ってしまうこともあるだろう。私だけを贔屓にしてくれているのは私が好きなのかもしれないと。

『アノーラ』では、好きで指名し続けて太客の夢である推しとの結婚をしたイヴァンが、生活を捨てる決意が出来るほど大人ではなかったという悲劇がある。『シンデレラ』の王子様で、その語源でもあるプリンス・チャーミングだって、義理の家族の世話をさせられている、ツギハギだらけでみすぼらしい服を着ているシンデレラとの結婚に、反対する家族もいただろうに。

 

・魔法のキス

ラスト(のことを書きますよ!)。

 

アノーラは指輪を取り返してくれたイゴールの上にまたがり、彼女が持っていて与えられる最も価値のあるもの、セックスを行う。

日本がどうなのかイイ年こいて寡黙にして知らないのだが、アメリカではセックス・ワーカーとのキスは“別料金”か、人によっては行わない。この知識は、むろん映画『ガールフレンド・エクスペリエンス』から得たものだ。キスは「愛」の行為であり、まさにガールフレンド・エクスペリエンス(恋人体験)の、いわば“オプション”で、セックスとは別なのだ。

イゴールの感覚ではセックスは愛の行為であり、むろんキスも含まれている。対してアノーラはキスは別料金(もしくはしないタイプ)でセックス分のみを報酬として行為に及んだだけなのだ。

 

と思えば、イヴァンとアノーラのセックスにキスは少なく(私は2人のキスの場面が思い出せない)後背位ばかりで、向き合って事に及んだのは序盤、アノーラが「まだ45分残っているけど、どうする?」と誘った場面くらいか。この場面ではセックスが労働であるセックス・ワーカーが手早く仕事を済ませた後に、そこで終わっても良かったのに続きを促したことでアノーラ自身のイヴァンへの想いが垣間見れる。ただ、ここでもキスはしていない。

また、競争のようにバンバンと攻撃的に腰を振るイヴァンのセックスに、ゆったりとした愛情溢れるセックスを指導したアノーラだったが、結局その後の2人のセックスは後ろからバンバンやるスタイルに戻っていたのも印象的だ。

 

ラストのキスの拒絶は、むろんディズニー・プリンセス映画を意識している以上「魔法のキス」の意味もあっただろう。

白雪姫やオーロラ姫を目覚めさせ、カエルになった王子を人間に戻したキスを、アノーラはしなかった。

もう魔法は消えてしまっていたのだ。

 

・12時を過ぎたシンデレラ

おそらく反射的にキスを拒んだアノーラは、我にかえり2つの意味で慟哭する。

 

割り切ったハズのセックスで、また勘違いさせたこと。

 

魔法のキスはもう無いという現実に向き合ったこと。

 

映画『アノーラ』はディズニー・プリンセス映画の枠組みで、セックス・ワーカーの悲劇を描いた作品である。

『どうすればよかったか?』を謎解きフィクションとして考察する

『どうすればよかったか?』鑑賞。

 

日本映画学校(現:日本映画大学)を卒業した監督が約20年に渡って家族を捉えたドキュメンタリー作品。

まず、本作が優れている点は、被写体の家族にカメラを意識させない、気の遠くなるような手順である。もはや森達也の名を出さずともドキュメンタリーのフィクション性は前提として認識されているだろう。どんな人でもカメラを構えられたら「撮られている」「見られている」意識が生まれ、全く普段と同じ言動はしない。

その意識を最小限にするため、監督は家族旅行を計画し、その記録を残すという前提でカメラを回し始め、旅行が終わった後も帰省するたびにカメラを家族に向け続けた。そうすることで家族に「息子はカメラを構えている人」だと慣れさせた。

また、モンタージュによるクレショフ効果もある。本作では「姉」の治療前と治療後の様子が繋げられており、「治療中」の様子は見せない。意味不明な言動をする姉が「退院した」というクレジットの後で、すっかり改善し意思疎通が出来る様子を観せる。短い時間で大きなギャップを見せることで「病院に連れていかなかった」期間をショッキングに浮かび上がらせる。

 

(おそらく)とんでもない量の素材の中から意図にそぐう場面を選び、組み立てた執念の作品がこの『どうすればよかったか?』である。

 

とはいえ、本作は純然たるドキュメンタリーである。事前に決めた言葉を言っているワケでも、何度か同じ演技をした中から良いテイクを選んで作品に残したワケでも無い。それでも作品には明確な監督の「意図」ないし「結論」が滲み漏れ出すように現れている。

 

そこで、本作をフェイク・ドキュメンタリーないし、謎解きフィクションとして考察してみる。

●オープニング

配給や制作会社のクレジットが出て、スクリーンが黒くなるとヒステリックな叫びだけが響き、映画が始まる。

統合失調症になった「姉」の叫びを、映像作家を目指す前の、まだカメラを持たない「監督」がウォークマンで録音したものだとクレジットが出る。

 

「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」

 

統合失調症の症状に「幻覚を見る」「幻聴が聞こえる」「強い妄想」などがある。状況を鑑みれば「姉」が妄想の中で対峙した「父」か「母」統合失調症を発症したことを攻めた言葉になるだろう。ただ、この叫びは「母」の言葉をマネしたものじゃなかったろうか?

統合失調症を発症した「姉」を精神科に連れて行こうとすると「行くつもりの精神科の先生の論文が気にいらない」「父の知り合いの精神科の先生から100%正常だと診断してもらった」などの言い訳をして、都度々々阻止するのが「母」であることが語られる。「父」も同調はしているようだが「父」の意思の表明は「母」が代理で行う。表立って阻止をするのは必ず「母」なのだ。

その「母」が「姉」に向かって、というか「姉」の前で、その現状へ愚痴をこぼすように口をついて出た、返答や反応を期待しない独り言では無かったろうか?

おそらく「ゲイは病」だとか「鬱は甘え」のような旧態依然とした、現在的にアップデート出来なかった意識の現れとして。そう考えると以降に写される断片がパズルのピースのようにハマり、全体像を明確に映し出す。

●唯々諾々のスピリチュアル

「父」は医学研究者。母親も結婚するまで研究所勤めで「父」を助手のように支えていたことが語られる。「父」は「監督」が実家に戻り、家族4人が集まるとリビングに呼び寄せ、みんなで神棚に柏手を打って礼をする。

研究者なんだから実験や数式で明確に答えが出るもののみを真とするような実証主義者かと思いきや、いまどき存在そのものも珍しい神棚へ手を合わせる。彼らに神仏への信心があるのか? といえばそうでも無い。朝夕の供物の上げ下げも写っていない(もししていれば必ず撮影していただろうし、本編へも残したであろう)。

では、どうして神棚への礼を欠かさないのか?

おそらく「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」であろう。

 

携帯電話が出始めた頃「電波がペースメイカーを止める」という通説が囁かれた。新しいものに拒絶反応をする年寄りはこの通説に飛びつき、肉体的に弱い女性へ狙いをつけて暴力的に取り締まる「マナー警察」と化した。また、その通説のありなしに関わらず「人がウジャウジャいる場所で電話をするのはマナー違反であろう」と、その名も「マナーモード」へ切り替えた人もいるだろう。

これが「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」状態である。

 

これは「母」が「姉」を医者には見せず、家に閉じ込め続ける理由でもあっただろう。唯一疑問視した監督のみが被写体へカメラを向けるという、腫れ物に触るような「抗議」を始める。

 

余談だが、携帯電話がペースメイカーを止めるには条件がある。それは「ペースメイカーから3cm未満の位置に携帯電話を近づけて電話を受信する」であり、それでさえペースメイカーが止まる「可能性がある」だけだ。つまりペースメイカーのある胸へ携帯を押し付けないかぎり影響は受けづらく、そうしたとしても「可能性」があるのみ。実際、病院などではペースメイカーが止まる可能性よりも、携帯電話の利便性を取り、待合室や病室などでの携帯電話の利用は許可されていることが多い。

●スピリチュアルの才能

「姉」は研究者としての道を進む交換条件としてタロット占いの本を自費出版する。

タロット占いとはカード自体の意味とカードの置かれた位置や上下を、占う人が占われる人の現状を汲んで解釈し、予言として読むものである。占われる人によって同じ位置の同じ上下の同じカードが指し示す「予言」は変わっていく。つまり、カードの意味やルールを知ってさえいれば出来るものでは無い。出たカードの示すキーワードを取り込んで予言を紡ぎ出す、いわば小説家のような創造的才能が必要なのである。

 

両親が期待し「姉」も期待に応えようとした医療研究者の仕事とは全く種類の違う、正反対と言っても差し支えない才能が「姉」にあったことが伺える。しかし、両親共にそんな「姉」をなんとか研究者にしようと通院を拒み、家に閉じ込めて、研究者にはいつなるのか?とプレッシャーをかけ続けてしまう。

 

後半、薬により目覚ましく回復した姉がフリーマーケットのようなイベントで、迷い無くサっと手に取り流れるようにそのまま会計へ進んだ物は「パワーストーン」である。

●正気と生気

映画序盤から中盤。インタビューを試みるが何かを警戒してか口を開こうとしなかったり、話しても何か明確な意味が見つけられない「姉」。黒々とした髪はしかしザンバラで、眼光は鋭くカメラを見つめ返す。終盤、入院により統合失調症を改善させた姉。櫛で整った髪には白髪が目立ち、眼鏡をかけた目線は柔らかい。そして、ステージ4の肺がんが見つかる。

 

中盤までと終盤までにどれほどの歳月が経過しているのかは明確には判らない。年齢を重ねれば白髪は現れるものだ。抗がん剤やがんの放射線治療で白髪になる人も多い。とはいえ、あまりにも象徴的である。

映画『ポルターガイスト』であの世を通って娘を奪還した母親のこめかみあたりから一房の白髪が現れる。また『Xメン』(2000)のローグや『ゴーストバスターズ』(2016)のエリンにも大変な経験を通過した後に同じような白髪が出現する。映画的な文脈で「白髪」は厳しい戦いを終えた女性に現れる。

本作では、母と病との数十年に渡る消耗戦を経て「姉」の黒髪は白くなった。と、映画的には解釈できる。

●『どうすればよかったか?』

肺がんにより逝去した「姉」のお葬式で、老いた「父」が車椅子に乗ったまました挨拶で、「姉」との共著で研究結果をまとめた論文を準備していたと語られる。

これはおそらく「論文の準備」も含めた「だったら良いな」という父の見た夢であろう。

 

監督は「姉」の真相を知る唯一の人になった「父」へインタビューを試みる。誰が「姉」の治療を止めたのか。誰の決断だったのか。「父」はやんわりと、遠回しに、そしておそらくそう訝しんでいた「監督」の誘導により「母」の考えだと認める。

今、70歳以上の老人たちは親と先祖にはいかほど割り切れない思いがあっても感謝しろと、強烈な「家父長制」を叩き込まれてきた世代だ。「母」もモチロンそんな世代であり、女である自分には決定権は無いと思い「姉」の治療拒否は「父」の決定であると言っていた。それが「母」だけの強い希望であったとしてもだ。結局「母」の逝去後、「父」は娘の治療を承諾しているし、意味不明な事をしゃべり意思の疎通が出来ない「姉」を「100%正常」だと押し切るのは「父」には無理だったのだろう。

 

劇中繰り返されるのは「母」が「父」を盾にして、なんとか病院へは連れて行くまいとする、強い意思だ。「姉」は大丈夫だと言い張る「母」の口調は“お母さんヒス構文”めいてさえいる。おそらく「母」の反対を押し切り「姉」を病院へ連れていっても通院や入院は許可せず、協力もせず。無理を通し続ければ、むしろ「母」の心が“ポッキリ”と折れてしまうかもしれない、というのが「監督」と「父」の判断だったろう。

「ウチから分裂症を出すなんて! アナタはなんてヒドい人なの!」そう叫んだのは「母」本人だったのではなかったろうか?

 

そして「監督」はタイトルにもなった『どうすればよかったか?』を「父」に問う。

その問いは明確な回答を求めた問いでは無かっただろう。後悔先に立たず。後からなら何とでも言える。「母」を押し切ることは出来なかった。無理をしてでも「姉」を病院へ連れて行くこともしなかった。ただただ現状維持を「止めようという人もいないので、言われたままに、ただし前向きにやっている」だけだった。

後悔も出来ず、結果だけを受け止めざるを得ない「監督」の、そうとしか言葉では表せられない、疑問形ではあるが問うているワケではない、その状態そのものを表す言葉が『どうすればよかったか?』ではないだろうか?

 

いてE

月〜金での勤め人にとって土曜や祝日も出勤させられることは「ブラック」かもしれないが、デザイン会社勤めの人にとっては割と「あるある」では無いだろうか?
私もご多分に漏れず土曜祝日関係無く出社している。ただ、今の会社はその分の残業代が出るし、月の残業は60時間を上回らないよう管理もされている。越えると叱られる。
長いことデザイン事務所勤務だった私にとっては、輝くようなホワイトに見えるので、心的な苦痛は、少なくとも勤務時間には無い。
 
職場の近くに世界的にも有名な、多くのゲイ・バーで構成された繁華街がある。
なので、月曜や土曜、祝日の早朝の出勤時の道のりには、前の晩に楽しい時間を過ごした人々と多くすれ違う。
眠気を全身に漂わせた人。まだパーティーを引きずったハイテンションな人。中でもハっとするのは同性で手を繋いでしっぽりと歩く恋人たちだ
 
同性の恋人たちを街で「恋人たち」として見かける事はあまり無い。それを私の職場周辺では多く見かける。彼らにとって、この場所はそれが、少なくとも許される場所なのだ。そして、そんな場所が実在していることに安堵する。
あぁ、よかった。
 
本当はあらゆる場所が許されていなければいけないが、偏見が根強く残る旧態依然とした人々(むろん「珍しく存在する人々」として発見してしまう自分も含め)の存在や、「LGBTQ反対!」と公言してしまう自称保守など、使った痕跡の無い新品同様な脳みそのオーナーたちの存在ゆえに、この繁華街以外では単なる「恋人同士」でい続けることが出来ない。
 
しかし、いくら許される場所でも陽が高くなるころには、土曜や休日でもネクタイを締めたスーツ姿の勤め人たちも増え、反比例して恋人たちは消えていく。
実際には「消えて」いない。繋いだ手を離してしまい擬態してしまう。
12時を過ぎたシンデレラのように存在が許される「魔法」が消えてしまうのだ。
 
そんな儚さからかフィクションの中やステレオタイプな彼らのイメージはクールでオシャレか、きらびやかでカラフル(まさに英語のgayの意味)な存在として描かれるのだろう。
実際には「裸の大将」の色違いのような2人も多いし、なんだったら若い「裸の大将」が2人でいることもある。
陰鬱な様子のスーツ姿の中年もいる。
薬屋で胃腸薬を選んでいるような老人もいる。
 
新聞読んでる奴も。
牛乳飲んでる奴も。
音頭を取ってる奴も。
条件出してる奴も。
 
いつでもドコでもそこらじゅうに、いてEんじゃないだろうか?
 
E!E!E!いてE!

ネタバレ解説『ボーはおそれている』

漫画家、根本敬の代表作のひとつ『生きる 村田藤吉寡黙日記』。ただただひたすらに、寡黙で気弱で学も無く、子供がいるのに童貞で、信じられないほど不器用な男、村田藤吉と彼の家族が陰惨な目に遭い続けるだけの漫画である。
その「陰惨な目」も生半可では無い。殴られる蹴られるは比較的ぬるい方で、家族そろって別の家族に(性的な)イタズラを受けていたり、ちょくちょく殺されるし、気が狂うほど追い詰められもする。
さらにSF的な加虐にも会う。物質転送機に入った村田と彼の永遠の加虐者である吉田佐吉は当然合体してしまうのだが、村田の顔が吉田の尻にくっつき、口が吉田の肛門の役割を担ってしまう。吉田はその境遇を大して気にせず「まぁ、さすけねっぺ(しょうがない)」と、ブリブリ用を足す。
1986年に刊行された本作は大人気となり、村田はパルコのCMキャラクターにまでなった。
 
読者は村田の陰惨な状況を笑って楽しんだのだ。
 
根本の絵が「技巧的」ではなかったのも笑える要因の一つであっただろう。太くウネウネとした荒っぽい線で描かれた村田は、共感や寄り添おうという気にさせず、常に「漫画を読んでいる」という意識を読者に持たせた。
根本の漫画は手塚治虫同様「スター・システム」が採用されており、常に加虐される村田藤吉に、常に彼を虐める吉田佐吉。レイプ魔の鈴木定吉あまりにバカ故にチンポに体の主導権を奪われる「逆さの男」など。基本的には一話読切で、さまざまな状況で村田が虐めを受けるのも、笑える程度に読者を突き放すことに成功していた。
 
ありえない程の陰惨な目に遭う村田の様子は、それが虚構だと強く認識させられればさせられるほど笑えたのである。
 
『ボーはおそれている』序盤。ボーの住む街は道端に腐乱死体が転がり、目玉にまで刺青を入れた男が炊き出しのスープを貰ってスグに「アチい!」と地面に叩きつけ、レスラーのような大男が誰かの目に指を突き立てて、ニュースでは全裸で人を殺しまくる連続殺人鬼が報じられ、ボーの住む娼館のようなアパートには「アナル・ファックでハメ殺す」等カースワードだけの文章が壁を覆い、張り紙で毒グモの発生が告知されている。
さらにそれらを捉えるカメラはカンフー映画のようなズームや、ウェスタンのようなクローズ・アップ、優美なスローモーションなど、肉眼では不可能な映像表現が取り入れられている。
また、アパートに駆け込む様子は建物の中の俯瞰映像だったり、狭い廊下を歩く場面では真横からボーを捉えるなど、スタジオセットも駆使されている。
 
ウソの作り物のフィクションだと丁寧に念を押して語られるのは、ステレオタイプな「ユダヤ人」である。
 
(ここから映画の終盤についても書きます。本作はいわゆる映画的な三幕構成で作られていないので、初見を驚きをもって鑑賞したい人は今スグ劇場へ!)
 
まず、野蛮な隣人に家から締め出され、実家へ向かう。という『ボーはおそれている』そのものが、ローマ帝国に国を滅ぼされて、約束の地へ向かうというユダヤ人の境遇と重なる。
劇中で語られる「あったかもしれないボーの人生」の大洪水や、いたかもしれない子供たちは「ノアの方舟」や「ヨブ記」であろう。
実家の屋根裏部屋に隠された“父親”や、ボーが置かれた幼いままで成長を止められた状態はユダヤ人作家フィリップ・ロスの作品からの影響だと監督自身が告白している。
幽閉された家の監視カメラのチャンネル「78」はユダヤの法則。
ラストで行われる公開裁判は、悪いと判決が出れば地獄で、良いと出れば天国で、永久に過ごすと言われるユダヤ教版の「最後の審判」。
そして、ボーを溺愛し執拗に管理した母親は、英語の慣用句で、その名もまんまな「ジューイッシュ・マザー」である。
 
などと知った風に書いてはいるが聖書については『誰も教てくれない聖書の読み方』とロバート・クラムの漫画版『旧約聖書』でしか知らないし、読んだことのあるフィリップ・ロス作品はタイトルに惹かれた『乳房になった男』だけ。なので、解説のマネゴトはここまでしか出来ない。
 
それでも『ボーはおそれている』の3時間を楽しく観られたのは、根本敬メソッドであくまでフィクションだと常に突き放されたからであろう。ボーは手始めにフィジカルな痛みを与えられ、次にバツ悪い生活を強いられ、罪悪感に苛まれ、無力感に支配され、微かな希望を踏みにじられる。
アリ・アスターはそれらの苦行を意地悪なコメディ的演出で魅せていく。しかし、本当は、それらの苦行は手の届く範囲に実際にある苦行である。
理不尽な暴力や、抑圧は日常的に、ユダヤ人では無い我々も経験しているものだ。それらを突き放し、カリカチュアして笑い飛ばすという自己防衛的な快感が本作にはある。
 
『ボーはおそれている』楽しかったよ!

『ノセボ』効果の恐怖を体感!呪いと祈りが交錯するオカルトの世界

『ノセボ』鑑賞。

タイトルの「ノセボ」とは偽薬がもたらす「プラシーボ」に相反する効果で、本来悪い効果が無いものを服用したのに、不安から悪い効果をもたらしてしまう事態を指す言葉だ。

本作の劇中で繰り返し言及されるのは「祈り」や「呪い」など、日常に浸透したオカルトについてである。
悪態としての「ジーザス」やゲン担ぎのおまじない。ラッキーアイテム。これらは本来、何の(本当に全く何も)効果も無い、信心が無ければ気休めにもならない行動だ。

子供向けファスト・ファッションのデザイナー、クリスティーンは皮膚が醜く爛れた野犬から飛び散るマダニに全身を這い回られる悪夢に取り憑かれてしまい、それ以来慢性的な体の痙攣や痺れを抱えてしまう。
夫のフェリックスはそんな妻を気遣うポーズはするものの「気の病い」だと、どこか無下にするような態度を取る。
娘のロバータは、両親のひんやりとした関係を感じ取り、塞ぎ込んだ性格になり学校でも居場所が無さそうだ。
そこへ、東南アジアから来た家政婦として小柄な女性ダイアナが現れる。クリスティーンには頼んだ覚えが無いが、病気で記憶があやふやで知らないうちに依頼をしていたかもしれないと、彼女を招き入れる。

登場人物の名前「クリスティーン」はクリスチャン:キリスト教徒を語源に持つ名前だ。夫の「フェリックス」はラテン語の「芳醇」から「成功」や「富」が込められている。娘の「ロバータ」はロバートの女性名で、由来としては古いドイツ語「古高ドイツ語」のループレヒトで「光で闇を照らし、将来を予見し、進むべき道を予知する」といった意味を持っている。

そして家政婦の「ダイアナ」はワンダーウーマンの「ダイアナ・プリンス」と同じで、猟犬を携えて野山を駆ける「狩猟の女神」である。
 
名付けるという行為が「日常に浸透したオカルト」そのものであり、映画『ノセボ』のタイトルが示す本作のテーマの一つでもある。
 
クリスティーンがロバータの悪態「ジーザス!」を嗜めるのは、旧約聖書モーセ十戒にもある「主は、み名をみだりに唱なえるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20:7)に準拠している。
出エジプト記の、この直前「20:6」にはこう書かれている。「わたしを愛し、わたしの戒を守るものには、恵を施して、千代に至るであろう。」
要は脅しである。ルールを守れば良いことが起きますよ。守らなければ罰を与えますよ。と、誓いへの祝福は戒律破りの呪いもセットになって成立しているのだ。

キリスト教の信仰は「恐怖で服従を促す支配」と言い換えられる。ここにプラシーボ、ないしノセボが出現する心的なスキが生まれる。
 
ダイアナが登場する前のクリスティーンの体の不調はクリスティーンの「罪の意識」に所以した「ノセボ」効果の現れであろう。寝付きが悪いのを呼吸障害だと思い込みマスクをして寝ているが、要因はおそらくそこに無い。
罪の意識を思い出させる「人種」であるダイアナの登場と彼女への信頼と民間療法が「プラシーボ」効果になるも、終盤のダイアナの途中退出で「ノセボ」がバックラッシュとして強く現れる。
 
ただ、本作の意地の悪さはダイアナに超自然的なパワーと、明確な目的を持たせているところだ。タイトルを無視し、スクリーンに現れるものだけを映った通りに解釈すれば、単純なジャンル話に落ち着く。
しかし、この物語に『ノセボ』のタイトルを冠することで、非常に面倒臭い疑問符を観る者につきつける。