「これは映画である」と強く思わせる『ブレット・トレイン』

TOKYO発の新幹線に乗り合わせた殺し屋たちが、伝説のヤクザ「白い死神」の息子と彼の身代金が入ったブリーフケースを巡り死闘を繰り広げる。
タイトルのブレット・トレイン「弾丸列車」とは特急列車のことだが、狭義で日本の新幹線のことを特に指す。
 
さて。
グランド・イリュージョン』シリーズのフォー・ホースメンたちが人々を集めて手品を見せる理由はなんだったろうか?
ミッション:インポッシブル/フォールアウト』高高度からのスカイダイビング「HALOジャンプ」をしなければならない理由は、そしてウォーカーが気を失った理由はなんだったろうか?
『ソウ』シリーズ2作目以降で、残虐な人殺しマシーンを使う理由はなんだろうか?
 
全て「見た目が良いから」だ。
 
グランド・イリュージョン』はまだ「逃走経路確保のためギャラリーが必要」とか「陽動のため」といった言い訳があるが(そもそも目立たなければ良いだけ)、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のHALOジャンプはパリの雑多なクラブに潜入するという、100円のために1,000円かけるような作戦だし、ウォーカーが気を失った理由は全く不明だ。
『ソウ』に至っては、ジグソーの後継者が誰でもドウでもイイし、動機なんか何の足しにもならない。その感覚は観客と製作者が共有しており、なるべく痛そうで派手な機械が出ること/見れることこそが至高のシリーズ存続理由ですらある。
 
『ブレット・トレイン』とは何なのか?
 
序盤、“レディバグ”はまんまと身代金の入ったブリーフケースを盗み、品川で降りようとするも、“ウルフ”と鉢合わせしてしまい、列車に戻らざるをえなくなる。
もし、1両降りるドアが違っていたら、本作は成り立たない。
息子をビルから突き落とした犯人からのメモ(「私が突き落とした」というストレート過ぎるもの)を根拠に自身で列車に乗り込む木村雄一が、もしも自分以外の者を向かわせていたら。父親に相談していたら。警察に通報していたら。
やはり本作は成り立たない。
では、何故作品にとって都合の良いことが起こり続けるのか?
 
これが映画だからである。
 
劇中「運命」や「悪運」という言葉で偶然の連鎖が語られるが、その実、それが起こらなければ「映画」が成り立たない。だから起こる。そこまでして観せたいものがあるからだ。
 
それはブラッド・ピットの華のあるボヤきや地団駄を踏む様子だし、アーロン・テイラー・ジョンソンのスラリとした筋肉質の体躯で悪役然とした口髭を蓄えているのにコードネームが「タンジェリン(みかん)」というジョークだし、久しぶりに見るマシオカや、「カタナ」「キミコ」のあの人がいたりと、スクリーンに映える楽しさである。
 
また、テクノロジーオリエンタリズムが融合した奇妙な街「TOKYO」も良かった。律儀に鬼の面を被っていたり、鋲打ちライダースでキメた、とうのたったオッサン軍団のヤクザたち。東京五輪キャラのソメイティ似のモモもん。登場人物たちの終着駅「KYOTO」は平家だらけの中に唐突に五重塔が建っている。
などなどの異国情緒溢れる架空の都市の様子はやはり映画的な情景である。
 
極めて映画的な表現とは、映画的な表現のために他の何かを犠牲にした、純粋に映画的であろうとした映画にこそ宿るものかもしれない。

『女神の継承』がよく解る解説

※オチまで含めた話を書いているので、鑑賞済みの人向け。解説的なやつです。
 
そもそも、プロデュースを勤めたナ・ホンジン監督は自身の『哭声/コクソン』の続編として本作を着想したそうだ。となれば、本作の軸にあるのは「神の沈黙」を含んだ「信心」というテーマが浮かび上がってくる。
 
また『哭声/コクソン』を踏まえると、一般的に多くの人々が考えるような「神様」や「神の使い」が、清廉潔白で、平等で、正しくて、気分の良い存在では無いかもしれない。という前提も見えてくる。
 

●女神バヤンが割とイヤなやつ

『女神の継承』の“女神”バヤンだが、なかなかイヤな性格である。先代の巫女から今の巫女ニムへ代替わりをする際、先に通例の継承者である姉のノイへ狙いをつけ、半年もの間体調不良と生理を止めないという嫌がらせで「代替わり」の要求を知らせる。
ノイはそんなイヤな女神の巫女を継ぐのを嫌がり(そりゃそうだ)改宗してキリスト教信者となり(また、密かに正式な身代わりの儀式まで行い)、妹のニムへ「嫌がらせ」の矛先を変えさせる。
 
また、ミンの憑き物をめぐる騒動の中、ニムのバヤンへの信心が揺らいだ瞬間(映画ラストで紹介される彼女の「最後のインタビュー」直後)に彼女を見放し、死なせて(おそらく殺して)しまう。
 

●この車は赤い

ニムはミンの儀式の数日前に撮影隊に自身の信心の揺らぎを告白する。しかし、彼女はそれ以前から。おそらく巫女になってからズーっと、信心が揺らぎ続けていたのであろう。その証拠のようなものがある。
ミンの儀式を執り行う神官が「ニムの車には「この車は赤い」というステッカーが貼ってあるんだ。」と言う。その意味を問われ神官はニヤケ笑いをするだけだ。
その後すぐに登場するニムの車は、ツヤの無い黒である。
つまり彼女は「私はウソをつく」と告白をしているのだ。
オープニングすぐ。インタビューに答えるニム。おどろおどろしい声を出したり痙攣したりといった霊媒師ぜんとした儀式はしないよと笑う。しかし、ニムはインチキ宗教儀式を瞬時に見破り、観客には理解不能な儀式で超常現象にも思える事象(中が黒い卵)を起こし行方不明のミンを見つける。
女神バヤンの霊的なパワーでそれらを成し得ているように思えるが、本人はそれでもバヤンがいると心から思っていない。
インチキ儀式はフォーマットやフォーミュラに沿っていないだけかもしれない。知識として自分が知っている「正式」な儀式と違うからインチキだと判断しているだけかもしれない。
ミンを見つけたのも、タロットカードを読むような、占い的儀式に則って居場所を読んだら偶然いただけかもしれない。
ニムは女神バヤンに会うなんてのはもっての外。その存在すら実感したことが無い。それでも巫女を務める欺瞞を告白するように、真っ黒な車に「この車は赤い」とステッカーを、自嘲するように貼っているのだ。
 

●『女神の継承』とは?

マーベル作品『ソー:ラブ&サンダー』は、やせ細った男が小さな子供を連れて砂漠を彷徨う風景から始まる。男は祈りを捧げるが、砂嵐は止まず、娘は死んでしまい、生きる意味を失ってしまう。
そこへ、オアシスが現れる。男は祈りが通じたと神を実感するのだが、そこにいた神は、単に自分の狩りの成果を祝う宴のためにオアシスを作っただけだと、にべも無い。
男が現存する最後の信者なのに失っても良いのか? と聞いても、また最初からやり直すだけだと邪険にあしらう。その態度に絶望した男はネクロソードで自分が信心した神を殺し、ゴッド・ブッチャーとなり全世界の全ての神を殺す旅に出る。
 
この手の「不遜な神様」というのはあらゆる神話にさまざまな形で出てくる「定番」といって良い類の話だ。
ギリシャ神話のゼウスは女神を何人も孕ませ、人間とも子供作りまくりの大絶倫神で、神話にはゼウスの浮気エピソードが連なっている。
インド神話ガネーシャ神の誕生エピソードはシヴァ神が家にいた子供が自分の子供と知らずに首を刎ねて放り投げて、奥さんに叱られて慌てて近くにいたゾウの首を刎ねてくっつけたというものだ。
日本神話ではスサノオがイタズラで神殿にウンコしたり皮を剥いだ馬を家に放り込んだり大暴れである。
キリスト教ユダヤ教)の神様「ザ・ワン」も、信者の一人(ヨブさん)を身ぐるみ剥いだ上に家族を皆殺しにして身体中にイボまで作って、それでもまだ自分の信者でい続けるか悪魔と賭けをする。
 
神様ってどの神様もおおむねイヤなやつだしおっかないものだよね。と、リマインドする、眠い朝にキンキンと鳴る耳障りの悪い目覚ましベルの様な不快さが通奏低音的に『女神の継承』の底にあると見て良いだろう。
 
つまり『女神の継承』は、とある豪族に強い恨みのある多くの人の霊がその辺にいた悪霊や動物の霊までも取込んで強大化して、豪族の最後の血を受け継いだ娘に取り憑いてウサ晴らしを画策。対抗できるのは地元のイヤな女神だけだったが、その性格の悪さから強い依代を失い、家族まとめて死んでしまう。という話である。
 

●鍛錬された「ほん呪」システム

私自身が『女神の継承』で、最も感銘を受けたのは「本当にあった呪いのビデオ」、略称「ほん呪」システムの活用方法である。
家族を映したビデオや監視カメラなどの映像に“偶然”映った霊現象に「おわかりいただけただろうか? この悲痛な表情の顔はここで死んだ者の怨念だ、とでも、言うのだろうか?」中村義洋監督の声でナレーションが入る、人気シリーズだ。
 
『女神の継承』で使われる、定点隠しカメラにフレームインする禍々しい異形の者の見事な段取り。暗視カメラに向かってくる狂人の恐怖演出。隙間が一瞬フレームから外れ、すぐに戻ったとたん被写体が目の前にいるといったショック演出など。だいたい「ほん呪」で使われている手法である。
道路の右にいたミンが、車を切り返して左へ向いてもいる! といったショックシーン。カメラが倒れあらぬ方向に向いた先に呪物が転がっている。などなども、実に「ほん呪」している。
そもそも「モキュメンタリー」自体「ほん呪」が20年以上に渡り、今もなおブラッシュアップし続けている手法だ。
送られてきた心霊映像の裏を取る取材の中で浮かび上がる怨念や、悲しい過去をスタッフを通して描いていくもので『女神の継承』で描かれる「豪族の蛮行」や「彷徨う悪霊」「土着性の高い信仰」といった展開も「ほん呪」の常套展開だ。
 
ということで「ほん呪」オススメです。
初期は合成技術がまだ拙くて、ゾクっとくる恐ろしさが弱いけど、30番代以降は演出や技術に磨きがかかりテンポ良く楽しめる。
ただ、初期にも名作はあり、特に坂本一雪監督時代の「頭のおかしな老人」はレトリックも含めた見事な作品である。
 
……もちろん全部フィクションだよ!
 
 
 

正義の暴力 〜『ダウト〜あるカトリック学校で〜』シスター・アロイシスの暴走〜

 
カトリック学校の校長シスター・アロイシスは校則を破った生徒には容赦無い罰を与えるほど厳格な信仰者であり、温和で進歩的な考えの教会の司祭フリン神父のことはもちろん疎ましく思っている
そんな中、フリン神父と生徒の少年の性的な関係を匂わせる出来事の報告を、若い教師のシスター・ジェイムズから受ける。アロイシスはフリン神父を追求し「以前いた教会のシスターに当校への転任の理由を聞いた!」とカマをかけ、遂にフリン神父を学校から追い出してしまう。
 
さて。劇中フリン神父が本当に少年と関係を持ったのか、以前の学校からの転任理由が子供に対するレイプだったのかは明確には描かれていない。ただ、実話を元にした映画『スポットライト 世紀のスクープ』でも描かれている通り、カトリック教会聖職者による子供のレイプと、教会の隠蔽体質はよく知られており、フリン神父は「濃いグレー」に印象付けられている。
その上で、作品はアロイシスに焦点を合わせていく。
 
アロイシスは厳格にすぎる容赦ない人物として、観客に愛されないような人物設定が施されている。
少年の母親がフリン神父には感謝しており告発する気も無いし、大ごとにもして欲しくないと懇願しても、アロイシスはそれを無視する。加えて以前の転任の理由を聞いたというのもウソだ。敬虔なアロイシスは根拠なく信じた疑念のために「十戒」を破ったのである。
しかも「不正を追求するのは神から遠ざかる行為だが、その価値がある。」と詭弁まで弄する。
 
しかし、結局教会側はアロイシスの話を信用せず、フリン神父は新しい赴任先で主任司祭に昇進している。訓戒を破りウソをついてまで追放したのに、結局誰にも信用されなかったのだ。
アロイシスは、正義を為すためにフリン神父を追放をしたのか、フリン神父がただただ嫌いで追放したのか、自分に対する疑い(ダウト)が、自分で拭えないと泣き崩れる。
 
アロイシスは非常に強い信仰心があったからこそ、自分自身を疑いの目で見ることが出来た。そして、泣き崩れてしまう。
もしもアロイシスに信仰が無かったら。信仰の対象が自分自身(ナルシスト)だったら。さらに邪な目的があったら。
現在の日本では、そんな醜い光景を安易と目撃できる。

成就しない愛 〜『セーラー服と機関銃』政の幸せ〜

いきがかり上、組員が4人しかいない弱小ヤクザの組長に収まった女子高生の星泉。しかし就任早々ドラッグをめぐるトラブルに巻き込まれ、組員2人が殺されてしまう。復讐の殴り込みに向かう相手事務所のエレベーターの中。おしっこしたいと言う政に帰ってもイイぞと佐久間が気遣う。「イヤや!生きるも死ぬもアニキと一緒や!」泉は佐久間を見つめる政のただならぬ熱く艶っぽい目線に気づく。
 
「おたく、ひょっとしてクルージング?」
 
1980年公開のアル・パチーノ主演作でゲイばかりを狙った連続殺人鬼を追うためにハード・ゲイのクルージング・バー(ハッテン場)に潜入した刑事が、思いのほか性に合って苦悩する。という映画『クルージング』から「ゲイ」と言う代わりに使ったのであろう。
当時の言語感覚でストレートに表現すると「ホモ」になるのだろうが、現在でもゲイと直接意味を共有しない「クルージング」を使い、かえって普遍性を持たせてしまうあたり、相米監督らしい天才的な偶然と言えるだろう。
 
また、本作以前にもブロマンス的な意味で、たとえば「『昭和残俠伝』は高倉健池部良のBLだ!」といった、名言されていない故に存在する「バッファ」から生まれた妄想遊びのような解釈はあったが、奇妙で滑稽な女装をさせず、コミカルな意味も持たせず、自然にゲイ男性ヤクザを登場させているのも見事な先見性である。
 
さて。ここで気になるのは政の心境である。
 
泉の指摘を受けて、佐久間が政との刑務所での出会いを回想していることから、当時から好意を持たれていた事を佐久間自身も知っていたのだろう。しかしセクシャリティの違いから愛し合う仲にはなれず、しかしヤクザの「兄弟の契り」を結んだ。
つまり、政は最愛の佐久間の隣に居ながら、自分が望んだ形での愛の成就は絶対に叶わないという契約がされたようなものだ。
 
しかし、それでも政はそれなりの満足をしていたのではないだろうか?
最愛の人が視界の中にいて。何かの拍子にフと触れ合い。向こうは何も思っていないが、自分は勝手に昂っている。そんな日々。
 
私自身が思ったようには懐いてくれない愛猫オコエの世話をしながら、政の報われず、成就しない、しかし充実した愛の日々を重ねる。
 

キングになったジョーカー 〜『ジョーカー』マレー・フランクリンの人生〜

映画『ジョーカー』。

 
ピエロのバイトで食い繋ぐ、売れないコメディアンのアーサー。人気コメディアンであるマレー・フランクリンの番組で、ダダ滑りする舞台での様子がビデオ放映されバカにされる。その上、さらにバカにし倒すため番組に呼ばれる。しかし「ジョーカー」となったアーサーは生放送中に社会の不条理をまくしたて、その象徴としてマレーを射殺する。
 
マレー・フランクリン役へのロバート・デ・ニーロの起用は、かつてマーティン・スコセッシ監督作『キング・オブ・コメディ』でデ・ニーロ自身が演じたコメディアン「ルパート」を連想させるためであろう。
『キング・オブ・コメディ』は誇大妄想狂の売れないコメディアンのルパートが人気コメディアンを誘拐してテレビ番組に出演を果たす、という『ジョーカー』を強く思わせる作品だ。
 
つまり『ジョーカー』のマレーには『キング・オブ・コメディ』での「売れない過去」も含ませている。では「キング」となったルパート:マレーはいかに「キング」であり続けたのだろうか?
『ジョーカー』本編でのアーサーへの仕打ちから推測するに次々と「弱い者」を見つけ、視聴者(つまりは別の弱い者)ルサンチマンの吐け口を作り続けるという手段ではなかったろうか。
 
そもそも。宮廷道化師(クラウン/ピエロ/つまりはジョーカー)は、貴族や王族(キング)に仕え、時に批判も辞さずに彼らを楽しませる、という役割を持っていた。なので自分を雇うパトロンと、せいぜいパトロンの家族を楽しませれば良かった。しかし現在の道化師:コメディアンは多くの大衆を相手にしなければならない。
ただ、幸い現在のパトロンである「多くの大衆」はコメディアンを「雇っている」という意識は無く、逆に有名人として偶像視している。また「多くの大衆」の嗜好や趣味は多種多様だが総じて陽動されやすい。そこで、偶像性を駆使し多くの大衆の旗手として先頭に立ち、ブッ叩いていい奴を名指しして回り「キング」であり続けた。
 
偶像視されたマレーは自分の弱さを忘れ、やがて批判する者がいない「キング」となり、弱者を晒しあげ続けた。
 
最近、そんな人の活躍を見かける。

正義と快感 〜『セブン』ジョン・ドーの目的〜

映画『セブン』。
 
警察に出頭したジョン・ドーは、それまでの犯行を認めることと、まだ発見されていない犯行の自白を引き換えに、ミルズ刑事とサマセット刑事を伴い、何も無い荒野の真ん中へ向かう。その道々、ジョン・ドーは饒舌に犯行の意図を語っていく。
人々は好きな物を好きなだけ喰って、楽しみのための倒錯的なセックスに溺れ、人を不幸に突き落としてでも金儲けを優先する。そんな人々へ「七つの大罪」をモチーフとした殺人を突きつけ、警鐘を鳴らす意図があったと。
揚々と犯行を語るジョン・ドーに、口ごもる瞬間が訪れる。自らの行為の崇高さをまくしたてるのを、サマセットがピシャリとたしなめた時だ。

「でも、オマエは人殺しを楽しんでいただろう?」

「……仕事を楽しむ権利もあるだろ?」
 
ここでジョン・ドーの犯行を並べてみる。
大食漢の男にスパゲティを文字通り死ぬまで食わせた「GLUTTONY(暴食)」。

あくどい弁護士にシェイクスピアベニスの商人」の「1ポンドの肉」を実践させる「GREED(強欲)」。
ジャンキーをベッドに縛りつけ間断なく、しかし死なない程度にドラッグを与え続ける「SLOTH(怠惰)」。
娼婦を買う客にナイフの付いた性具を着けさせて娼婦を犯させる「LUST(肉欲)」。
美人モデルの顔を切り裂き自殺か、救急車かを選ばせる「PRIDE(高慢)」。
美しい妻とこれから産まれる子供など幸せが待っているミルズに嫉妬し、その妻を自ら殺す「ENVY(嫉妬)」。
復讐のためミルズに自分を殺させる「WRATH(憤怒)」。

 
「嫉妬」と「憤怒」は他とは意味合いが多少異なるため別としても。個々の犯行にはジョン・ドーに直接性的な達成感(射精)を促すようなものは無い。もちろん金品を目的としたものでもない。一応「人々に罪深さを啓蒙する」という目的はあるが「啓蒙」それ自体がジョン・ドーの楽しみだったワケでも無い。
 
サマセットが指摘した、ジョン・ドーの犯行における楽しみとは「支配欲」であろう。
ジョン・ドーにとって「7つの大罪」を犯す者は「罪人」で処罰の対象である。
「処罰」を日本語で使う場合「処罰を与える」「処罰を下す」「処罰を課す」となり、どれも上から目線の行動であるのが解る。「処罰」は相手を傅かせ、屈服させ、自分が希望する通りの行動をとらせる。それらは罰を加える側:ジョン・ドーの支配欲を刺激する。
 
ちなみに、ペドフィリア犯罪で捕まった多くの犯罪者たちは、実はペドフィリア的な性癖は持っておらず、単に子供が「御し易い」「抵抗しない」「言い返さない」からだという話がある。つまり、彼らは支配欲を満たすために子供を犯すのだ。
 
そして、ジョン・ドーがサマセットに指摘され口ごもってしまったのは、ペドフィリア犯罪者と同様に、目的を達成する過程で副次産物的に産まれる物との「逆転」を見透かされてたように思えたからではないだろうか?
つまり「啓蒙」を果たす過程で支配欲が満たされるのではなく、支配欲を満たすために「啓蒙」の言い訳を作った。むろん、自分自身の欲望発散という後ろめたさを隠すために。

精神科医でカウンセラーを務める人物が診察室で出会った人々を例に、様々な「うそ」を取り上げたルポルタージュ本「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」の中で「最低最悪のうそつき」と定義づけられているのが「自分を自分のうそでダマせる人」である。
例に挙げられているのはDV母親が自分の子供に怪我をさせ、医者に対して「階段から落ちた」とうそをつく。最初こそ自分がうそをついている自覚があるのだろうが、何度も「階段から落ちた! かわいそう!」と繰り返し医者に訴えるたびに自分自身もそのうそに騙されていく。最終的に本当に自分の子供が階段から落ちたと信じてしまうというのだ。
 
「義憤」にかられ「処罰」を与える一方で、実は「処罰」がもたらす「支配欲」の充足こそが真の目的だった。
 
そんな光景を最近良く見かける。

階段のエスプリ 〜クリス・ロックとウィル・スミス〜

フランスの「エスプリ文化」。上手い言い回しや比喩表現で面と向かって嫌味を言う。という、いけすかない文化である。
言われた方もその場でエスプリを返せれば良いのだが、咄嗟に気の利いた言葉を思いつき絶妙なタイミングで放つのは至難の技だろう。
あぁ悔しいなぁと帰路につこうと階段を降りかけた時にフっと、気の利いた言葉を思いつく。しかし、後から思いついた「気の利いた言葉」なんてものに意味は無い。
エスプリの常套表現では、その場で上手く返せない人を「階段のエスプリを持っている人」と表現するそうだ。「トロい」とストレートに言わないエスプリでありトコトンいけすかないものだ。
 
ウィル・スミスとクリス・ロックである。
 
「ジェイダ! 愛しているよ! 新作『G.I.ジェーン2』楽しみにしているよ!」
しょうもねえなぁ。と思いつつ横を見るウィル・スミスの目に映ったのは怪訝な様子のジェイダである。
瞬間的にウィルの頭に去来したのは、恐ろしいほど不機嫌なジェイダを延々となだめ続ける自分の姿だ。
「モチロン良い意味でね!」よせばいいのにクリスがいつまでも『G.I.ジェーン』ジョークを続けている。
(どうにかしなければ! 今すぐにブン殴ってでも止めなければ!)思うと同時に立ち上がってしまう。
最前列のウィルからクリスまでの距離は3〜4メートル。(とはいえ、アイツは友達だ。中継カメラもある。やっぱりブン殴るわけにはいかない。)しかし立ち上がった手前、もう歩き出してしまっている。
(だいたいゲラゲラ笑ってるセレブどもも共犯じゃねえか!)もう、数歩でクリスに手が届く。
(殴ったらダメとはいえドウする!?)クリスの目の前に到着する。もはや手は上がっている。クリスはニヤニヤとした半笑いのままだ。
(グーはダメ! パー!)
 
バチーン!
 
(とはいえヤッベー!)
殴りつけるよりはマシな「ビンタ」ではあるが、本当の、フィジカルな暴力を、自分の肉体を使って行使した興奮でアドレナリンが身体の隅々まで駆け巡る。しかし、どよめく会場に瞬間的に頭が冷める。興奮で身体は自信タップリな挙動で動く。それでも冷めた頭でようやく自分を席へ向かわせる。
(ウーン! どうする? ってもうどうにもならねえ!)
諦め半分、自分の席にドッカリ座る。行動がジワジワと実感に変わる。そんなウィルの耳にクリスの声が届く。
「ウェヘヘ! ウィル・スミスにビンタされちゃったよ。」
抑えてつけていた自制の系が切れて、アドレナリンが優勢となる。
「その薄汚え口から二度とオレの妻の名前を言うんじゃねえ!」
(やってもうたー!)
興奮の勢いでようやくジェイダの顔を、それでも恐る恐る見る。驚きに呆れが混じっているが、ウィルが幻視した不機嫌なジェイダはいない。それをなだめる自分の姿の予感も消えている。
(セーフ!)
 
これは私が最初にこのニュース動画を見た時に思い浮かべたウィルの心象風景だ。
 
クリスのジョークはジェイダのみならず、ウィルも傷つけた。そして、ウィルは深い愛を向ける家族と自分自身の尊厳のためにも、あの場で、あの瞬間に行動しなければならなかった。
少なくともジェイダの気は晴れたようだし、ジェイデンには反面教師にするんだぞっとクギを刺す必要はあるにせよ、黙り込んで何もしない父親の姿だけは見せずに済んだ。
 
ウィルの心象が、私が妄想したものと同様であったと証明は出来ない。どこまで行っても私の憶測でしかない。しかし、私はウィルの行為や気持ちに他人事とは思えないほど共感してしまった。むろんそれが私自身が創った想像上の「ウィルの心象」だと解っていても。
 
この騒動に対し様々な毀誉褒貶が世界中のネットを飛び交ったのは知っての通り。
日本ではウィル・スミス擁護もそれなりに散見できたが、本国アメリカではウィルへの非難が多いそうだ。
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」
「元とはいえラッパーなら気の効いた言葉で返せ!」
これらが非難する声の代表的なものだろう。
しかし、ドレもコレも「階段のエスプリ」である。
後からならドウとでも、何とでも言える。むろん、後からでは全く意味が無い。加えて、それらを言っている人々はウィルがそうだと言われているのと同様に「自分自身」のための発言だ。自分の虚栄心や自己顕示欲、自己満足を満たすため。セレブを悪しげにコキ降ろす自慰じみた娯楽の一環である可能性も極めて高い。
 
その上で。百歩譲って。
それらの忠告や非難とウィルのビンタを比べても、ビンタ以上の良い手段だとは思えない。
 
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」なんて話は判り切ったことで、じゃあクリスの言葉の暴力は無制限に許されるのか? 『サマー・オブ・ソウル』インド系黒人プロデューサー、ジョゼフ・パテルを「あと、他の白人3人!」と雑にあしらった罪は? アジア系の子供たちを「会計係」と紹介したジョークは?
アカデミー賞」自体が、誰かの暴力を誘発させるまで悪趣味を増長させ続け、その結果があのビンタではなかったのか?
 
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」自分を守って何が悪い?
例えば、自分の好きなタレントが悪趣味なジョークのネタになって塞ぎ込んでしまうような場面で、我が事のように辛い気持ちになった経験は無いか?
それが自分の家族だったら尚更。それでも「黙って見ているのがルール」なんてのはルールの方が非人道的じゃないのか?
 
「元とはいえラッパーなら言葉で返せ!」今は俳優なんだが。それに、その理屈ならデザイナーはデザインで返さなくてはいけなくなるし豆腐屋は豆腐で返さなければならなくなる。
そもそもウィル・スミス:フレッシュ・プリンスは「ビーフの文化から生まれたラッパーじゃない。しかもカース・ワードを歌詞に織り込まないことでも有名だ。加えて、相手は悪しげに人をこき下ろすことで超セレブに上り詰めた、口だけは最強に立つコメディアンだ。リズミカルに言葉を繰り出すアゲアゲのパーティ・ラッパーに、何を言い返せと言うのか? 「セイ・ホー!」とかか?
 
最近ウィルのビンタについてジェイダのコメントが発表された。いわく「怒ってはいないが、やって欲しくはなかった。」とのことだ。
ビンタが無ければ「怒って」いた可能性はあっただろう。それこそがウィルが一番恐れていたことではなかったろうか?
いずれにせよ、ウィルはビンタによって、家で猛烈に不機嫌なパートナーがいるという事態は避けることが出来た。
また、クリスのバッド・ジョークの「バッドさ」はウィルのフィジカルな暴力の前に霞み、ウィルは一人でドッサリと2人分の泥をかぶり「友人」であるクリスを立てる格好になった。
 
加えて良かったのはクリスの対応が常識的なものだったことだ。
病気の事は知らなかったし、不本意ではあったものの、友人のジェイダを傷つけウィルを「パートナーの不機嫌」という窮地に陥しかけ、ジェイダと同じ病気に苦しむ多くの女性たちを傷つけたのを自覚したのだろう。自身のバッド・ジョークの正当性をアピールすることは無かった。
また「被害者である」という使い減りの無い「特権」を唸りをあげて振り回しウィルを責め立てることも。ベラベラと被害を吹聴してまわることも。SNSでウィルに詰問を並べ立てるような、気の狂った事もしなかった。
すり寄ってくる衆愚「ウィル批判者」に同調し、ウィルの謝罪や周囲の擁護に「二次加害だ! 犬笛だ!」と口角泡飛ばし狂乱するようなマネもなかった。
これらは「ビンタ」というビジュアル的なショックさを伴った行為だったからこそ生まれた対応であろう。
 
ウィルの「ビンタ」は不問に付されるベキだとは思わない。やはり暴力は良いものでは無い。それに「ビンタ」が問い質される行為だったからこそ、ウィルの家庭は安泰を取り戻したと言える。
とはいえ不釣り合いに過度な処罰や、知性を欠いた粘着質な罵詈雑言、ワケ知り顔だが対して何かを知っているワケでもない坂上忍めいた批判といった「外野の自慰ネタ」にするのも、もちろん間違っている。
 
アカデミー賞を主催する「映画芸術科学アカデミーはウィルをアカデミー賞や関連イベントへの出席を10年間禁止するという決定を下した。ウィルも自らアカデミーから脱会した。
この決定がどれほど重いのか(もしくは軽いのか)よく判らない。ただ、やはり。いずれにせよ。パートナーの不機嫌と天秤にかければ「軽い」と思えるのではないだろうか?
 
ここまで。
 
クリスとウィルにとっての、長ったらしい「階段のエスプリ」ではあったが「パートナーの不機嫌」はいつでもドコでも誰にでも起きうる問題だ。
コレを読んだアナタにとってはまだ「階段」まで到達していないか、問題が起こる現場への「階段」を上がっている途中かもしれないでしょ?