映画的素養についての話

古澤健監督作『青夏 きみに恋した30日』は高校生の一夏の恋愛模様を描いた作品だ。
40代のおっさんは間違いなくマーケティングのメインターゲットの外側に追い出されているのだが、それでも楽しく観れるのはひとえに監督の映画的な素養であろう。

f:id:samurai_kung_fu:20180817183009j:plain

自然に溢れる田舎町の情景や渓谷の美しさが、儚げに写っているのは『君の名前で僕を呼んで』を彷彿とさせるし、この2本の映画の源泉には『オルエットの方へ』を代表とするジャック・ロジェの避暑地映画があるだろう。
それが意図的であろうと、意図は無かろうと、「避暑地で展開する一夏の若者の感情」をテーマにした時点で、製作者が優れていればいるほどジャック・ロジェ的な、花火のような儚さを孕んでしまう。
 

その古澤監督が脚本とプロデュースを担当し、映画版『ゲゲゲの女房』の鈴木卓爾監督の新作となる『ゾンからのメッセージ』もやはり映画的としか言い様の無い素養に溢れた作品だ。

f:id:samurai_kung_fu:20180817183057j:plain

どうやら二十年ほど前に謎の空間「ゾン」に囲われ、孤立した町に住む人々の群像劇である。
謎の空間「ゾン」はタルコフスキーの『ストーカー』における「入ったら生きては帰れない空間“ゾーン”」のことであろう。その「ゾン」の境目は、フィルムに傷をつけたり直接着色するなどした「シネカリグラフィ」やテレビノイズなどで現されており、それらは前衛映画とか実験映画と言われるスタン・ブラッケージ監督作を代表とした作品群で重用される手法である。
また『ゾンからのメッセージ』世界で描かれる情景は「写すこと」「創作的な虚構性」にまつわる境界や対話、一方的な意思疎通などで、それらはどうしても「映画」にまつわるものである。
 
「コワすぎ!」シリーズや『貞子vs伽倻子』の白石晃士監督の新作『恋のクレイジーロード』は低予算の短編である。

f:id:samurai_kung_fu:20180817183209j:plain

田舎の一本道をひた走る路線バスが狂気の女装男によりジャックされる。乗り合わせたのはネトウヨ男、裏切り女、田舎のヤンキーに謎のゴスカップル。トラブルにトラブルをぶつけて状況的にも感情的にもしっちゃかめっちゃかなカオスになるのが楽しい白石監督らしい作品だ。
「狂人によるバスジャック」と言えば中島貞夫監督の『狂った野獣』や、イーストウッドの代表作『ダーティハリー』が思い起こされる。また、ラスト近くで美しい夕日を背景に血まみれのスコップを振る女装男はそのアングルも含め『悪魔のいけにえ』を連想させる。
 
さて。現在、低予算ながら単館系劇場でヒットを飛ばし、その面白さにウワサがウワサを呼び、ついには全国のシネコンで拡大公開が決まった映画がある。『カメラを止めるな!』である。
もしも、まだ未見なら私が書く文章などはソッと閉じて、今すぐ劇場へ向かうのをオススメする。
なので、以降はすでに『カメラを止めるな!』を鑑賞した人のみに読み進めてほしい。
※大事なことなので繰り返しになるが、以降は『カメラを止めるな!』鑑賞済みの方のみ、お読みください。
 

f:id:samurai_kung_fu:20180817183316j:plain

例えば「映画制作を題材にした映画」で言えばPTAの傑作『ブギーナイツ』や、ティム・バートンの『エドウッド』、ミシェル・ゴンドリー『ボクらの未来へ逆回転』。邦画には『蒲田行進曲』があり、また上記の古澤監督や白石監督共に映画制作を題材にした作品がある。それぞれ各監督の代表作とも呼べる傑作ぞろいだ。
さて、37分ワンカットで展開するゾンビ映画と、その制作裏話という構成の『カメラを止めるな!』も、そんな映画制作を舞台にした作品で、おそらくこの先、上田慎一郎監督の代表作に成り得る完成度を持った作品だ。
 
ただ『カメラを止めるな!』からは上記した古澤監督、鈴木監督、白石監督の作品のような「映画的素養」は、ほとんど感じられない。
 
カメラを止めるな!』劇中、監督の娘「真央」が『スカーフェイス』『タクシードライバー』『シャイニング』のTシャツを着ている。これは彼女が「映画好き」である、という記号的な意味を持っている。しかし「真央」の心象を象徴しているワケでは無い。登場する映画Tシャツが「わかりやすく」映画Tシャツなだけだ。一般的な認識としての「映画が好きな人が着ていそうなTシャツ」として、あくまで「一般的」に理解される範疇なのが『タクシードライバー』であったり『シャイニング』なだけだ。
 
これはシネフィリーの強い映画作家(放っておいても、意識していなくても、過去の作品の影響が「出すんじゃなく出る」作家)にはなかなか出来ない選択かもしれない。
 
「真央」がADとして子役に本気で泣くように詰め寄る場面がある。そのことから彼女がメソッドアクティングを重要視している、ある種「めんどうくさい映画好き」であることが解る。ここで、たとえばシネフィル的なヌーベルバーグ作品などのTシャツ(あるのか知らないけど)を着せて、彼女の趣向を表そうという「映画的素養」はココには無い。
タクシードライバー』は実にシネフィリーの強い映画ではあるが、それよりもビジュアル面のポップさ(ポピュラーさ)が強くあるため、そのポップさを嫌い、素養があればあるほど選択肢には上がらないか、選択するとしても相当の覚悟を持って着せる類のものだ。
よしんば覚悟をして着せたのならば、別のカットで『スカーフェイス』や『シャイニング』は着せない。それぞれ、映画的に、あまりに強い「意味」を持っているため、その「意味」に囚われてしまうからだ。
しかし、上田監督は『タクシードライバー』『スカーフェイス』『シャイニング』から「ポップさ」のみを抽出して着せてみせる。このTシャツをめぐる演出に顕著なように『カメラを止めるな!』全体から「映画的素養」の臭いはしない。
 
本作を最初に観た時に思い起こしたのは(上田監督自身もファンを公言している)三谷幸喜作品に代表される舞台劇を元にした作品だ。
特に三谷の『ラヂオの時間』は『カメラを止めるな!』の直接的な源泉と言ってもイイだろう。また、三谷戯曲の映画で言えば『12人の優しい日本人』や『笑の大学』など。フリを周到に回収していくタイプの舞台劇のような感触である。
それはつまり、ワザワザ映画化しなくても成立する物語構造を持っているということだ。「映画」や「映画的」に固執する必要が無いのだ。
 
では「映画的」とはどういうことなのか?
 
例えば銃声とともに木から鳥の群れが飛び立つカットは、誰かが射殺されたという記号である。特定の人物が登場するたびにハエの羽音が鳴ったら、その人物は死をもたらすか、死ぬ運命を持っているか、いずれにせよ「ハエのたかるような禍々しい死」の記号だ。
音と映像の複合的な意味の積み重ねで映像は「映画的」になりうる。
しかし、たとえば銃声と鳥の群れ、それぞれの関係性が見出せず、その記号を受け取り損なえば、その鑑賞者にとって「飛び立つ鳥」は全く意味の無いカットになるし、ハエの羽音に死を連想しなければ「ハエのたかるような臭い人」という印象になってしまうかもしれない。
映画好きが「優れている」と評価した作品が、多くの人々にとって「面白い」と感じられないのは、この「記号性」の受け取り方の違いが要因の一つであろう。
 
また、そもそも『カメラを止めるな!』劇中作『ワンカット・オブ・ザ・デッド』はホラー専門CSチャンネル立ち上げを記念したテレビ作品で、映画では無い(という私の発想自体が非常に「めんどうくさい映画好き」だという自覚はある)。
映画とは映画館で上映されることを前提として設計がなされた映像作品であり、テレビにはテレビ用の設計があるし、ソフトスルーの作品やスマホ動画もしかり。サイズや鑑賞する環境に応じた設計がされるものである(逆に言えば、それらを考慮しない作品は出来が悪いものだ)。
例えば『ゼロ・グラビティ』はIMAXで観られることを前提とし、観客が宇宙空間に放り出された感覚をより強く味わえるような設計で映像が作られている。
サイレント映画の終焉とトーキー時代の到来を作品背景に持った『アーティスト』は舞台となる1920〜30年代当時の画面の比率(1.33:1)のスタンダードサイズで作られており、その比率にも意味が込められている。
それら製作者の意図的な作為の中に意味が見出せなければ、作品の魅力の一つを見過ごしていると言える。
 
では『カメラを止めるな!』に話を戻す。
 
繰り返しになるが『カメラを止めるな!』からは「映画的素養」が感じられる演出や作為はあまり無い。すべてが解りやすい。奥行きは視界に入る深度しかない。
状況の「複雑」さは懇切丁寧に「複雑」であることが説明される。説明の無いものに意味は無い。ロケーションの高低差は、雰囲気の良い高低差のあるロケ地があったからであり、高さ低さに意味は無い。ゾンビ映画で度々問題になる「走るか歩くか」も本作では問題視されない。
現在、多くの人が年に1本か2本程度しか映画館で映画を観ないと言われている。そういった人々にとって、説明されない複雑さは、すなわち「つまらない」に直結してしまう。ロケーションの高低差に意味を見出し感嘆する人も(それが解りやすく説明されていない限り)多くは無いだろう。ゾンビが走るか歩くかの、ある種、論理学的とも言える違いについてもしかり。
 
しかし、だからと言って本作が優れていないワケでは無い。
カメラを止めるな!』は老若男女、世の東西を問わず受け入れられる野放図なポピュラリティーと揺るぎない強度を持った絶対性の高い作品だ。これは断言できる。その野放図なポピュラリティーと引き換えに、視界に入る以上の深みは潔く手放されている。鑑賞者には解釈の快楽は無い。表面的に起こることが全てである。全てが準備された落とし所にストンと収まる。その収まり具合はテトリスで長い棒が、ミッチリ組まれたブロックの谷間にキッチリ収まり消え去る快感と同様のものだろう。
 
では、優れた映画にとって、作者の「映画的素養」は関係無いのだろうか?
 
その答えはスピルバーグの存在で証明されている。