2022年私的ベスト映画

1)RRR

文句無く完璧な超娯楽大作映画。優れた映画表現テクニックに、動く絵画のような画面創り。泣いた子もニッコニコになるような楽しいミュージカル・シーン。血が沸騰するようなアクション。娯楽の頂点。

 

2)マッド・ゴッド

表現力と技術力がハリウッドレベルの狂人が自身の頭の中を地獄巡り映画として創り上げた。非常に贅沢なもの。

 

3)フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

雑誌を映画で表現しているので頭とお尻とセンターにカラーページがあって、後半にはマンガがあるという。

 

4)哭悲/THE SADNESS

私自身の暴力衝動を見透かされたような恐ろしさ。しかも、それが解き放たれた世界を甘美な地獄として魅せる意地の悪さに脱帽。

 

5)ノープ

海には『ジョーズ』、陸には『トレマーズ』。そして空には『ノープ』がいる。スノッブなイヤラシさが強めに出たジョーダン・ピール過去作に比べ、なんとも燃えること燃えること。

 

6)ワカンダ・フォーエバ

アフロ・フューチャリズムが実現した世界としてのワカンダと、アステカ・フューチャリズムと言える海底王国タロカンの戦争。テシチャラのみでは無く。演じたチャドウィック・ボーズマンも含めた「ブラックパンサー」への追悼。

 

7)ガンパウダー・ミルクシェイク

シューテム・アップ』の後継作品。

 

8)HiGH&LOW THE WORST X

トンネル内や学校の廊下など閉塞感のある中で大人数がケンカを繰り広げる様子をドローンで追っていく様子はステゴロスターウォーズ、デススター攻略のようである。

 

9)クライ・マッチョ

優れていれば良いというワケでは無い証拠。過去の栄光も色褪せる年寄りの寂寥感と世間とのズレは、この歪さのみで表される。

 

10)女神の継承

描かれるのは悪霊の悪質さよりも、神様の陰険さ。

 

 

●2022年ベスト配信映画

1)私ときどきレッサーパンダ

2)グラスオニオン

3)プレデター:ザ・プレイ

4)呪詛

5)ジャッカス4.5

 

 

 

●2022年ベスト配信ドラマ

1)ピースメイカ

2)ブック・オブ・ボバフェット

3)ザ・ボーイズ s3

4)シー・ハルク

5)ウェンズデイ

オコエのこと 〜「ねこホーダイ」はネコを助けるか?〜

昨晩。深夜遅く。寝室で寝ているとドアが開いてリビングの光のまぶしさで目を覚ましてしまった。ドアを開けたのは愛猫オコエ。寝室には入らず入口あたりで私をジッと見つめていた。「なあに?」と聞くとニャー!とひと鳴きして去っていった。 ……なんなのよ?

オコエが我が家に来て4年。
 
もともと特定の誰かに飼われていない地域猫で、外をフラフラしているところを保護されたので明確な誕生日などは解らない。里親さんによると約1歳ということだった。
譲渡会後のトライアウトが済んで、正式に我が家に住むことになったのが12月。覚えやすいので24日のクリスマス・イブを誕生日にして保険に加入した。
なので、毎年クリスマス・イブに保険会社からバースデーカードが届く、我が家にしてはメルヘンな待遇の子になってしまった。
 
トライアウト中は里親さんから借りた2階建てケージの2階の寝床からあまり出ず。トイレとごはんで1階へ降りてくるだけの臆病ネコだった
なんとか一緒に遊ぼうとごはんを文字通りエサに誘い出すなどした結果、寝る以外の間は部屋の中をウロウロする程度に慣れてくれた。
 
正式に我が家の子となってからも、なかなか「懐く」と表現できるような関係にはなれなかった。
撫でようと手を伸ばすと耳を伏せ、肩をすぼませ、警戒するような目つきになった。
多くのネコがするような、箱に入ったり、狭い場所に忍び込むといった逃げ場の無くなることは今でもしない
携帯やコップをテーブルに置く時の「コツン」という音に敏感に反応し、咳き込む音にはどれだけダラダラ寝ていても飛び起きて様子を伺う。
臆病なオコエとのコミュニケーションは、用心深く機嫌を伺って、時にゴロゴロと喉を鳴らさせ、時にハードかつディープに噛みつかれる。チョイチョイ割れる薄氷を歩くようなものだ。
 
2年半ほど経過した頃、ようやくかいたあぐらの上に乗ってひっくり返って寝てみたり、スマホを見ていると頭突きで主張し甘えてくるようになった。
私の周りをグルグルまわり目の前で止まったかと思うと、そのまま真横にドスンと横たわり、伸びをしてゴロゴロ転がる。私のそばでリラックスしたようで嬉しい瞬間だ。

それでもまだ抱っこには強固な警戒心を剥き出しにする。
私も不要な抱っこはしない。爪を切る準備をしていると部屋の隅やテーブルの下に隠れてしまうので、強制的に引っ張り出す時くらいだ。まぁ、それもあって抱っこのハードルは高止まりしているのかもしれない
 
話によると、まだ小さな子ネコのうちに人間に抱かれて安心して寝るような経験が無いまま成猫になってしまうと抱っこは難しいそうだ。
子ネコの時期に地域ネコとしてワイルドかつハングリーに過ごした(可能性がある)オコエにとって人間に抱っこされるのは、極端に環境が変わる時だけだったかもしれない。
 
誰かに抱かれ「この子飼いたい!」と知らぬ家に連れられたかもしれない時。
「ウチはペット禁止なのよ!」と再び捨てられたかもしれない時。
里親さんに保護された時。
去勢手術を受けるためにキャリーに入れられた時。
手術を受ける時。
譲渡会へ向かうため再びキャリーに入れられた時。
 
そして、我が家へ来た時。
 
我が家に来てからも爪を切る時と、年に一度の定期検診の時には抱き抱えられる。オコエは爪切りを察知すると隠れてしまうが、行き先がテーブル前なら観念して懇願するような切ない鳴き声を上げる。
行き先にキャリーが置いてあると大暴れで抵抗し、入れられてしまうと今度は大いに鳴き叫び、出してくれと懇願する。移動の道々でも時折悲嘆にくれたように「泣く」。
病院に着いてキャリーから引っ張り出されると見知らぬ診察室に目をまん丸く見開いて固まってしまう。しかも決まってワクチン注射をされる。血液検査の採血もされる。
先生にはいつも「静かにしていてエラい子ですね。」と褒められるが恐怖で固まっているだけだ。
 
もう抱っこをされても環境は変わらないよ、と伝えてあげたいが、なにせネコなので話して納得してもらうワケにもいかず。あぐらの上に登ってきた時に、そっと下から手で支え持って足を抜いてみて、アリバイ的に抱っこ状態にしてみるなどのチャレンジをする。
バレるとパっと飛び降りてナーン!と不満を訴える。
 
ここまで臆病なのはオコエだけかもしれないが、とかくネコというものは一般的に環境の変化が苦手だそうだ。慣れるのだって1〜2週間では無理だろう。
また、小さな子供がいる家でカワイイカワイイと忙しなく愛玩されるのもネコにとっては迷惑だろう。
それを見極めるのが譲渡会とトライアウトだ。里親さんは引き取り手にネコを飼う程度の経済力があるのか。また犬のようには懐きづらいネコを飼う覚悟や忍耐力があるのか。ネコとの相性は良いか。などなどを審査する。
また、ネコを虐殺して楽しむような精神異常者では無いのかもクドいほど確認される。
 
しかし、譲渡会と里親さんとの関係は面倒臭いだけではない。ネコを飼ったことの無い人にとって、里親さんは良い相談相手になる。私もエサの相談や爪切りを里親さんに教わった。
 
譲渡会や審査、トライアウトの無い「ねこホーダイ」はネコを飼うハードルを下げるかもしれない。そのかわり、ネコが死ぬ確率は爆アゲしてしまう。
ネコの殺処分を少なくするために、ネコの引き取り機会を増やせば良いというのは真っ当な手段だと思えるかもしれない。しかし、飼う「資格」の無い人々への譲渡をしてしまいもする。
死んでしまうか、死にはしなくとも体を壊し入院してしまう確率の高い高齢者は残念ながら良い「飼い主」にはなれないだろう。
一人暮らしの人も、急な残業や事故、病気になった場合に、家に上がってトイレの掃除をしたりエサをあげたり出来る人がいなければ、やはり良い「飼い主」にはなれない。
加えて「ねこホーダイ」は精神異常者への譲渡を安易と許してしまう。
 
「ねこホーダイ」を利用してネコを飼ってはみたものの、性格的および生活的にネコが飼えないことを知った人は、制度を利用しネコを返せる。しかし、その環境の変化がネコに与えるストレスは、ネコそれぞれの性格にもよるだろうが、ネコの本質的な性格を鑑みれば小さなものではないハズだ。
 
それでも「ねこホーダイ」をきっかけにネコを飼い、ネコの幸せを叶える飼い主が現れるかもしれない。ただ、おそらく。そんな飼い主候補は「ねこホーダイ」を利用しないだろう。
そんな飼い主候補がほんの少しでも「ねこホーダイ」のシステムを考えれば、これほど危険かつザルでいい加減で無責任なものに加担しようとは思わないからだ。
 
以上のことから見ても「ねこホーダイ」がネコの殺処分数を下げたり、幸せなネコを増やすのに、トイレに落ちている陰毛ほどの価値すら無いことが解る。
代わりにネコの虐待死やストレスによる死亡、病死、外に逃がしてしまうなどなどのマイナス要素が上がる。
 
「ねこホーダイ」はたった1匹のネコも幸せにはしない。

人間皆殺し!『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』

アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』IMAXレーザー、HFR、3Dで鑑賞
 
2009年のヒット作『アバター』の続編。
 
13年の月日の経過は映像技術を格段に飛躍させ、当時ですでにハイエンドな映像美を魅せていたが、新作ではその解像度が更に上がっている。クリアな空気や海の中を行き交う異星の動植物の様子は、さながらハイビジョンの世界遺産めぐり番組のようである。
また、3D表現についてもメガネにサングラスのような色がついているために画面が暗くなるという欠点を、パキパキに晴れた空や海の中を舞台にしたり、暗い場所では発光する生物を浮遊させるなどで克服している。
加えてHFR(ハイ・フレーム・レート、通常の映画が1秒24コマ、テレビが1秒30コマのところ、1秒48コマで撮影・上映)は、裸眼で動くものを見ている感覚に近づき、IMAXの高解像度と3Dの奥行き表現との相乗効果で、結果「なんかゴミが浮いているなあ。」と思ったら劇中のバクテリアや火の粉だったり、スクリーンの前を無神経に通る客かと思ったら登場人物だったりと、今までの「映画鑑賞」とは全く違った「体験」になる。
そのフォーマットで異星の奇怪な動物や宇宙人の生活を覗き見るのは、なかなか興味深いものがある。
 
キャメロンが想定したフルスペックでの鑑賞は総額3,000円(鑑賞料金1,900円+IMAX代600円+HFR代400円+3Dメガネ100円)で、「映画鑑賞」としては高めだが上映時間は3時間12分あり、1時間約1,000円になる。53分の「ひつじのショーン」新作が1,600円なのを鑑みれば、妥当な値段と言えるだろう。
 
で、その「体験」で描かれた中身である。
 
話としては、前作同様の白人酋長アクション劇で至極単純なものだ。ただ、13年前の映画のことなど誰も覚えてはいないだろうと踏んだキャメロンは、改めて長い時間をかけ、もう一度観客に2つのことを印象付けていく。パンドラの自然の豊かさと開拓側の人間の非道さだ。
 
ただ、前作と同じ森を紹介していくのは芸が無いので舞台のメインは海へ移されている。
地球で行われた様な大規模開拓をしなかった原住民「ナヴィ」たちが住むパンドラは、手付かずの自然を多く残している。海には数えきれない種類の魚が泳ぎまわっている。その大自然の中で登場人物たちが生活する様子を、長〜〜い時間をかけて見せることで、観客に「パンドラの平凡な日常」を体験させていく。
この場面が「退屈」だと言う人がいるのは、それが「見慣れた光景」になるまで刷り込まれた結果で、意図的なものだ。とはいえ、全く知らない世界を隈なく「体験」するのは楽しいものでもある。
そして、その豊かさの対比として人間による原住民の蹂躙や非道な開拓を差し込み、観客にストレスを加えていく。これが後半に俄然効いてくる。
 
自らもアバターに意識をダウンロードした敵役クオリッチと巨大捕鯨船乗組員 対 子供4人を捕らわれたジェイクと海の部族メトカイナの戦士たちの決戦は、地の利を生かしたナヴィたちの攻撃により、一方的にジャカスカ人間たちが殺されていく。
加えて、かつて人間に群れを殺された生き残りで、その責任を被り「殺し屋」の異名をつけられたクジラ状の巨大海洋生物「トゥルクン」は、動物らしい容赦無い体当たりで人間を圧死させ、ワイヤーをからめ取り人間を切断していく。
これら近年稀に見る景気の良いボディカウントを、キャメロンらしい見事なアクション設計で魅せていく。
 
前置き無しにこの大量虐殺を見せられたらドン引き間違い無しだが、上映時間の大半をかけて「豊かな自然」と「人間の非道さ」を刷り込まれた観客にとって、虐殺さえ気分の良いものにしている。
「自然はイイもんですね! ナヴィたちは自然と融合した豊かな暮らしですね! それに比べて人間はヒッドイよね! ホント酷いよね!」と刷り込まれて刷り込まれて、刷り込みまくられた観客はもはや楽しむ他なく「イヤッホーイ! 人間しねー!」と歓声を上げる。
 
そして、映画館を出ると、湿気た冷たい空気の中で青くもヒョロ長くもない自身の姿に愕然とする他なくなるのだ。
 

知恵の実を食い損ねた人たち『MEN 同じ顔の男たち』

『MEN 同じ顔の男たち』鑑賞。

 

●創世記

 
パートナーの自殺を目の当たりにしたハーパーは気晴らしに2週間の期間限定で田舎暮らしを始める。
 
ハーパーは到着するなり庭に生える木からリンゴをもいで、そのまま食べる。
これは旧約聖書 創世記、アダムとイブの「知恵の実」のことであろう。
大家にリンゴを食べたというと「放っておくと落ちて腐ってハチが寄ってくる。食べてしまって良い。チャツネにしてもイイ。」と自分では食べることに前向きでは無いように見える。
後に出てくる同じ顔の全裸狂人が陰茎では無く、ひたいにイチジクの葉をつけるのは、案の定「知恵」をつけ損ねた証拠だ。
 
瀟酒な邸宅。大家に小さなグランドピアノのある部屋を紹介される。「ピアノは弾くかい?」と聞かれるハーパーは咄嗟に「いいえ」と答えるが、後の場面でショパンノクターンを弾いている。
ピアノが弾けるとバレると「弾いてみせろ」と迫りだし、弾くまで動かん!と言い出し始めるような面倒臭い目に何度も会ったのだろう。
それが「知恵」の無いヤツ相手なら、突然激昂して「黙って弾け!」と拳を振り上げ怒鳴りだしたり、弾いてやったらやったで「今夜もあのピアノが聴きたいな!」と毎晩日参するような、そんな困った展開も易々と見えてくる。
とかく肉体的な優位性が持てない相手では、なだめすかし、ウソをついてやりすごし、コッソリ逃げるのが常套手段にならざるをえない。ピアノにまつわる場面は、特にその手のイヤな記憶を喚起させられる。
 
ハーパーは滞在中に、この手の出来事に何度も見舞われ続ける。
 
手伝いを断ったクセに荷物の多さに「もう一人助けが必要だった。」と後になってグチる大家。
陰茎をブラブラさせてコチラを覗いてくる狂人。
その狂人を「特に害も無さそうだ。」と釈放してしまう警察。
パブで何を言うでもなく睨みつけてくるだけの奴。
遊ぼうという誘いを断ると「ビッチ!」と捨て台詞を吐いて去るガキ。
パートナーの自殺に「どうしてそこまで追い詰めたのか?」と責める牧師はそっとボディタッチまでしてくる。
 
劇中、ハーパーが「同じ顔」に対し言及はしないし訝しむことも無いので「同じ顔」が意味するのは見た目では無く、性根の部分で同じ「知恵」の欠落があるという映像表現だ。
 
このように、本作の一見意味不明に思える表現は、案外そのまんまな表現であることが解る。
となれば本作の「衝撃のラスト」も「そのまんま表現」と受け取るべきであろう。
 

●以降、本作オチについて言及してます。

 
※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※
 
「同じ顔」に追い立てられる中、ハーパーは反撃をしていく。左手を切り裂き、右足を折る。これは、かつてのパートナーが自殺した時に負った損傷だ。
「同じ顔」はそれでも追うのを止めない。
追いかけながら、陰茎の奥にある女性器から自分自身を産み、何度も生まれ変わっていく。
「生まれ変わってやり直します!」とは、言い訳の常套句だ。本心では無いので何度生まれ変わっても「同じ顔」のまま。つまり相変わらず「知恵」は無い。
 
そして、最後にはかつてのパートナーの姿になる。時に声を荒げ、時に泣き言を言い、暴力までふるう、「知恵」を欠落させた村の人々の大吟醸のような存在だ。ソファに座る満身創痍のパートナーは「何か言うことあるんじゃないのか?」と、謝罪を迫りハーパーを再び辟易させる。
さて。この時のパートナーの姿と、自殺して死んだパートナーの姿には違いがある。死んだパートナーは頭蓋骨を開放骨折していた。
ハーパーは微かな笑みを浮かべ斧の刃を指ではじく。
 
ここで何度も繰り返されるパートナーの自殺の様子を振り返ってみると違和感に気づく。
飛び降り自殺を図る人は建物の縁に外を向いて立ち、踏み出して落ちていく。つまり建物に対して背を向けて落ちていくものだ。
しかし、ハーパーが目撃した落下中のパートナーは建物側を向き、手は何かを掴むように中途半端に開いている。そして、その顔は「ヤバッ!」という表情そのものである。
劇中ハーパーによって憶測されているように、上の階から忍び込もうとして誤って落ちてしまった事故死であろう。
 
ハーパーは「別れるなんて言うなら死んでやる!」と自殺を仄めかされた相手を家から追い出して、後悔にまみれた日々の中から、ようやく思いをぶつけることが出来た。その刹那、勝手に死なれてしまったのである。
 
そのやりきれなさを、改めて自分の手で同じ傷を負わせて殺し直し、スッキリと友人を迎えたのが本作のラストではないだろうか。
 

グリーンマンとシーラ・ナ・ギク。綿毛と恍惚。こだまと増殖。

 
起こった出来事を整理していけば、かなりすんなりと咀嚼できる物語になるが、細かなディティール部分には、まだまだモヤっとした不明瞭さがある。
 
劇中何度も印象的に登場する教会にある悶絶する男と性器を露わにする女のレリーフ。それぞれグリーンマンとシーラ・ナ・ギグと呼ばれ、双方とも紀元前から存在するものらしい。
このレリーフを男女の「表裏」の関係とするか、背中合わせに「一体化」とするかで、解釈は180°違ったものになりそうだ。
 
また、クライマックスで突然「同じ顔」がハーパーにタンポポの綿毛を吹きかける。むろん男性の精液とみるのが正しいのだろうが、この場面でハーパーは宙に浮き恍惚とした表情で、綿毛をひとつ吸い込む。
好きでも無い相手の体液は排泄物的な印象を持つと思うが(違うと言われたら返す言葉は無い)その排泄物をかけられて恍惚とするのは相反する心情であろう。
 
これらの解釈の糸口になりそうなのは、序盤のトンネルの場面ではなかろうか?
 
邸宅周囲の森を探索するハーパーは通りがかったトンネルで響くこだまを楽しむ。
「ハー! パー!」と自分の名前に節をつけて叫び、そのこだまにタイミングよく別の節で「ハー! パー!」と合わせていく。輪唱のように「ハーパー」が重なり和音になり、楽しい音楽が生まれる。
こだまの「ハーパー」の増殖は、「同じ顔」の増殖の対比であろう。
 
ただ、「表裏」や「対比」のような相反すると思われる物事は、実は単一の存在で、どちらか一方では無い。「表裏」は主観的な判断で生まれるもので、どちらを「表」ないし「裏」とするかは判断する人のものである。むろん「良い/悪い」や「好き/嫌い」の判断も、その対象は当たり前だが単一のものである。
 
本作タイトルの「MEN」も一見MAN(男)の複数形に思えるが、同時に「MEN」はセクシャリティを問わない「人々」の意味も持っている。
私がこの一連の文章で、不可避な場合を除き「男女」を明確化していないのは、それが生物的な「男女」なのか、法律的な「男女」なのか、性自認に基づく「男女」なのか、そもそも「男女」どちらかなのか、劇中では明確にされていないからである。
 
むろん本作は、その表層にミソジニーやトキシック・マスキュリニティといった考えがあるのは間違い無いだろう。ただ、その奥の、次の階層には、男女やセクシュアリティを越えた、もう少し何にでも当てはまるような、面倒くさい何かがあるような気がしてならない。
 
おそらく、そう思わせるように作られているのだろう。あぁめんどうくさい。
 

「これは映画である」と強く思わせる『ブレット・トレイン』

TOKYO発の新幹線に乗り合わせた殺し屋たちが、伝説のヤクザ「白い死神」の息子と彼の身代金が入ったブリーフケースを巡り死闘を繰り広げる。
タイトルのブレット・トレイン「弾丸列車」とは特急列車のことだが、狭義で日本の新幹線のことを特に指す。
 
さて。
グランド・イリュージョン』シリーズのフォー・ホースメンたちが人々を集めて手品を見せる理由はなんだったろうか?
ミッション:インポッシブル/フォールアウト』高高度からのスカイダイビング「HALOジャンプ」をしなければならない理由は、そしてウォーカーが気を失った理由はなんだったろうか?
『ソウ』シリーズ2作目以降で、残虐な人殺しマシーンを使う理由はなんだろうか?
 
全て「見た目が良いから」だ。
 
グランド・イリュージョン』はまだ「逃走経路確保のためギャラリーが必要」とか「陽動のため」といった言い訳があるが(そもそも目立たなければ良いだけ)、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のHALOジャンプはパリの雑多なクラブに潜入するという、100円のために1,000円かけるような作戦だし、ウォーカーが気を失った理由は全く不明だ。
『ソウ』に至っては、ジグソーの後継者が誰でもドウでもイイし、動機なんか何の足しにもならない。その感覚は観客と製作者が共有しており、なるべく痛そうで派手な機械が出ること/見れることこそが至高のシリーズ存続理由ですらある。
 
『ブレット・トレイン』とは何なのか?
 
序盤、“レディバグ”はまんまと身代金の入ったブリーフケースを盗み、品川で降りようとするも、“ウルフ”と鉢合わせしてしまい、列車に戻らざるをえなくなる。
もし、1両降りるドアが違っていたら、本作は成り立たない。
息子をビルから突き落とした犯人からのメモ(「私が突き落とした」というストレート過ぎるもの)を根拠に自身で列車に乗り込む木村雄一が、もしも自分以外の者を向かわせていたら。父親に相談していたら。警察に通報していたら。
やはり本作は成り立たない。
では、何故作品にとって都合の良いことが起こり続けるのか?
 
これが映画だからである。
 
劇中「運命」や「悪運」という言葉で偶然の連鎖が語られるが、その実、それが起こらなければ「映画」が成り立たない。だから起こる。そこまでして観せたいものがあるからだ。
 
それはブラッド・ピットの華のあるボヤきや地団駄を踏む様子だし、アーロン・テイラー・ジョンソンのスラリとした筋肉質の体躯で悪役然とした口髭を蓄えているのにコードネームが「タンジェリン(みかん)」というジョークだし、久しぶりに見るマシオカや、「カタナ」「キミコ」のあの人がいたりと、スクリーンに映える楽しさである。
 
また、テクノロジーオリエンタリズムが融合した奇妙な街「TOKYO」も良かった。律儀に鬼の面を被っていたり、鋲打ちライダースでキメた、とうのたったオッサン軍団のヤクザたち。東京五輪キャラのソメイティ似のモモもん。登場人物たちの終着駅「KYOTO」は平家だらけの中に唐突に五重塔が建っている。
などなどの異国情緒溢れる架空の都市の様子はやはり映画的な情景である。
 
極めて映画的な表現とは、映画的な表現のために他の何かを犠牲にした、純粋に映画的であろうとした映画にこそ宿るものかもしれない。

『女神の継承』がよく解る解説

※オチまで含めた話を書いているので、鑑賞済みの人向け。解説的なやつです。
 
そもそも、プロデュースを勤めたナ・ホンジン監督は自身の『哭声/コクソン』の続編として本作を着想したそうだ。となれば、本作の軸にあるのは「神の沈黙」を含んだ「信心」というテーマが浮かび上がってくる。
 
また『哭声/コクソン』を踏まえると、一般的に多くの人々が考えるような「神様」や「神の使い」が、清廉潔白で、平等で、正しくて、気分の良い存在では無いかもしれない。という前提も見えてくる。
 

●女神バヤンが割とイヤなやつ

『女神の継承』の“女神”バヤンだが、なかなかイヤな性格である。先代の巫女から今の巫女ニムへ代替わりをする際、先に通例の継承者である姉のノイへ狙いをつけ、半年もの間体調不良と生理を止めないという嫌がらせで「代替わり」の要求を知らせる。
ノイはそんなイヤな女神の巫女を継ぐのを嫌がり(そりゃそうだ)改宗してキリスト教信者となり(また、密かに正式な身代わりの儀式まで行い)、妹のニムへ「嫌がらせ」の矛先を変えさせる。
 
また、ミンの憑き物をめぐる騒動の中、ニムのバヤンへの信心が揺らいだ瞬間(映画ラストで紹介される彼女の「最後のインタビュー」直後)に彼女を見放し、死なせて(おそらく殺して)しまう。
 

●この車は赤い

ニムはミンの儀式の数日前に撮影隊に自身の信心の揺らぎを告白する。しかし、彼女はそれ以前から。おそらく巫女になってからズーっと、信心が揺らぎ続けていたのであろう。その証拠のようなものがある。
ミンの儀式を執り行う神官が「ニムの車には「この車は赤い」というステッカーが貼ってあるんだ。」と言う。その意味を問われ神官はニヤケ笑いをするだけだ。
その後すぐに登場するニムの車は、ツヤの無い黒である。
つまり彼女は「私はウソをつく」と告白をしているのだ。
オープニングすぐ。インタビューに答えるニム。おどろおどろしい声を出したり痙攣したりといった霊媒師ぜんとした儀式はしないよと笑う。しかし、ニムはインチキ宗教儀式を瞬時に見破り、観客には理解不能な儀式で超常現象にも思える事象(中が黒い卵)を起こし行方不明のミンを見つける。
女神バヤンの霊的なパワーでそれらを成し得ているように思えるが、本人はそれでもバヤンがいると心から思っていない。
インチキ儀式はフォーマットやフォーミュラに沿っていないだけかもしれない。知識として自分が知っている「正式」な儀式と違うからインチキだと判断しているだけかもしれない。
ミンを見つけたのも、タロットカードを読むような、占い的儀式に則って居場所を読んだら偶然いただけかもしれない。
ニムは女神バヤンに会うなんてのはもっての外。その存在すら実感したことが無い。それでも巫女を務める欺瞞を告白するように、真っ黒な車に「この車は赤い」とステッカーを、自嘲するように貼っているのだ。
 

●『女神の継承』とは?

マーベル作品『ソー:ラブ&サンダー』は、やせ細った男が小さな子供を連れて砂漠を彷徨う風景から始まる。男は祈りを捧げるが、砂嵐は止まず、娘は死んでしまい、生きる意味を失ってしまう。
そこへ、オアシスが現れる。男は祈りが通じたと神を実感するのだが、そこにいた神は、単に自分の狩りの成果を祝う宴のためにオアシスを作っただけだと、にべも無い。
男が現存する最後の信者なのに失っても良いのか? と聞いても、また最初からやり直すだけだと邪険にあしらう。その態度に絶望した男はネクロソードで自分が信心した神を殺し、ゴッド・ブッチャーとなり全世界の全ての神を殺す旅に出る。
 
この手の「不遜な神様」というのはあらゆる神話にさまざまな形で出てくる「定番」といって良い類の話だ。
ギリシャ神話のゼウスは女神を何人も孕ませ、人間とも子供作りまくりの大絶倫神で、神話にはゼウスの浮気エピソードが連なっている。
インド神話ガネーシャ神の誕生エピソードはシヴァ神が家にいた子供が自分の子供と知らずに首を刎ねて放り投げて、奥さんに叱られて慌てて近くにいたゾウの首を刎ねてくっつけたというものだ。
日本神話ではスサノオがイタズラで神殿にウンコしたり皮を剥いだ馬を家に放り込んだり大暴れである。
キリスト教ユダヤ教)の神様「ザ・ワン」も、信者の一人(ヨブさん)を身ぐるみ剥いだ上に家族を皆殺しにして身体中にイボまで作って、それでもまだ自分の信者でい続けるか悪魔と賭けをする。
 
神様ってどの神様もおおむねイヤなやつだしおっかないものだよね。と、リマインドする、眠い朝にキンキンと鳴る耳障りの悪い目覚ましベルの様な不快さが通奏低音的に『女神の継承』の底にあると見て良いだろう。
 
つまり『女神の継承』は、とある豪族に強い恨みのある多くの人の霊がその辺にいた悪霊や動物の霊までも取込んで強大化して、豪族の最後の血を受け継いだ娘に取り憑いてウサ晴らしを画策。対抗できるのは地元のイヤな女神だけだったが、その性格の悪さから強い依代を失い、家族まとめて死んでしまう。という話である。
 

●鍛錬された「ほん呪」システム

私自身が『女神の継承』で、最も感銘を受けたのは「本当にあった呪いのビデオ」、略称「ほん呪」システムの活用方法である。
家族を映したビデオや監視カメラなどの映像に“偶然”映った霊現象に「おわかりいただけただろうか? この悲痛な表情の顔はここで死んだ者の怨念だ、とでも、言うのだろうか?」中村義洋監督の声でナレーションが入る、人気シリーズだ。
 
『女神の継承』で使われる、定点隠しカメラにフレームインする禍々しい異形の者の見事な段取り。暗視カメラに向かってくる狂人の恐怖演出。隙間が一瞬フレームから外れ、すぐに戻ったとたん被写体が目の前にいるといったショック演出など。だいたい「ほん呪」で使われている手法である。
道路の右にいたミンが、車を切り返して左へ向いてもいる! といったショックシーン。カメラが倒れあらぬ方向に向いた先に呪物が転がっている。などなども、実に「ほん呪」している。
そもそも「モキュメンタリー」自体「ほん呪」が20年以上に渡り、今もなおブラッシュアップし続けている手法だ。
送られてきた心霊映像の裏を取る取材の中で浮かび上がる怨念や、悲しい過去をスタッフを通して描いていくもので『女神の継承』で描かれる「豪族の蛮行」や「彷徨う悪霊」「土着性の高い信仰」といった展開も「ほん呪」の常套展開だ。
 
ということで「ほん呪」オススメです。
初期は合成技術がまだ拙くて、ゾクっとくる恐ろしさが弱いけど、30番代以降は演出や技術に磨きがかかりテンポ良く楽しめる。
ただ、初期にも名作はあり、特に坂本一雪監督時代の「頭のおかしな老人」はレトリックも含めた見事な作品である。
 
……もちろん全部フィクションだよ!
 
 
 

正義の暴力 〜『ダウト〜あるカトリック学校で〜』シスター・アロイシスの暴走〜

 
カトリック学校の校長シスター・アロイシスは校則を破った生徒には容赦無い罰を与えるほど厳格な信仰者であり、温和で進歩的な考えの教会の司祭フリン神父のことはもちろん疎ましく思っている
そんな中、フリン神父と生徒の少年の性的な関係を匂わせる出来事の報告を、若い教師のシスター・ジェイムズから受ける。アロイシスはフリン神父を追求し「以前いた教会のシスターに当校への転任の理由を聞いた!」とカマをかけ、遂にフリン神父を学校から追い出してしまう。
 
さて。劇中フリン神父が本当に少年と関係を持ったのか、以前の学校からの転任理由が子供に対するレイプだったのかは明確には描かれていない。ただ、実話を元にした映画『スポットライト 世紀のスクープ』でも描かれている通り、カトリック教会聖職者による子供のレイプと、教会の隠蔽体質はよく知られており、フリン神父は「濃いグレー」に印象付けられている。
その上で、作品はアロイシスに焦点を合わせていく。
 
アロイシスは厳格にすぎる容赦ない人物として、観客に愛されないような人物設定が施されている。
少年の母親がフリン神父には感謝しており告発する気も無いし、大ごとにもして欲しくないと懇願しても、アロイシスはそれを無視する。加えて以前の転任の理由を聞いたというのもウソだ。敬虔なアロイシスは根拠なく信じた疑念のために「十戒」を破ったのである。
しかも「不正を追求するのは神から遠ざかる行為だが、その価値がある。」と詭弁まで弄する。
 
しかし、結局教会側はアロイシスの話を信用せず、フリン神父は新しい赴任先で主任司祭に昇進している。訓戒を破りウソをついてまで追放したのに、結局誰にも信用されなかったのだ。
アロイシスは、正義を為すためにフリン神父を追放をしたのか、フリン神父がただただ嫌いで追放したのか、自分に対する疑い(ダウト)が、自分で拭えないと泣き崩れる。
 
アロイシスは非常に強い信仰心があったからこそ、自分自身を疑いの目で見ることが出来た。そして、泣き崩れてしまう。
もしもアロイシスに信仰が無かったら。信仰の対象が自分自身(ナルシスト)だったら。さらに邪な目的があったら。
現在の日本では、そんな醜い光景を安易と目撃できる。