知恵の実を食い損ねた人たち『MEN 同じ顔の男たち』

『MEN 同じ顔の男たち』鑑賞。

 

●創世記

 
パートナーの自殺を目の当たりにしたハーパーは気晴らしに2週間の期間限定で田舎暮らしを始める。
 
ハーパーは到着するなり庭に生える木からリンゴをもいで、そのまま食べる。
これは旧約聖書 創世記、アダムとイブの「知恵の実」のことであろう。
大家にリンゴを食べたというと「放っておくと落ちて腐ってハチが寄ってくる。食べてしまって良い。チャツネにしてもイイ。」と自分では食べることに前向きでは無いように見える。
後に出てくる同じ顔の全裸狂人が陰茎では無く、ひたいにイチジクの葉をつけるのは、案の定「知恵」をつけ損ねた証拠だ。
 
瀟酒な邸宅。大家に小さなグランドピアノのある部屋を紹介される。「ピアノは弾くかい?」と聞かれるハーパーは咄嗟に「いいえ」と答えるが、後の場面でショパンノクターンを弾いている。
ピアノが弾けるとバレると「弾いてみせろ」と迫りだし、弾くまで動かん!と言い出し始めるような面倒臭い目に何度も会ったのだろう。
それが「知恵」の無いヤツ相手なら、突然激昂して「黙って弾け!」と拳を振り上げ怒鳴りだしたり、弾いてやったらやったで「今夜もあのピアノが聴きたいな!」と毎晩日参するような、そんな困った展開も易々と見えてくる。
とかく肉体的な優位性が持てない相手では、なだめすかし、ウソをついてやりすごし、コッソリ逃げるのが常套手段にならざるをえない。ピアノにまつわる場面は、特にその手のイヤな記憶を喚起させられる。
 
ハーパーは滞在中に、この手の出来事に何度も見舞われ続ける。
 
手伝いを断ったクセに荷物の多さに「もう一人助けが必要だった。」と後になってグチる大家。
陰茎をブラブラさせてコチラを覗いてくる狂人。
その狂人を「特に害も無さそうだ。」と釈放してしまう警察。
パブで何を言うでもなく睨みつけてくるだけの奴。
遊ぼうという誘いを断ると「ビッチ!」と捨て台詞を吐いて去るガキ。
パートナーの自殺に「どうしてそこまで追い詰めたのか?」と責める牧師はそっとボディタッチまでしてくる。
 
劇中、ハーパーが「同じ顔」に対し言及はしないし訝しむことも無いので「同じ顔」が意味するのは見た目では無く、性根の部分で同じ「知恵」の欠落があるという映像表現だ。
 
このように、本作の一見意味不明に思える表現は、案外そのまんまな表現であることが解る。
となれば本作の「衝撃のラスト」も「そのまんま表現」と受け取るべきであろう。
 

●以降、本作オチについて言及してます。

 
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「同じ顔」に追い立てられる中、ハーパーは反撃をしていく。左手を切り裂き、右足を折る。これは、かつてのパートナーが自殺した時に負った損傷だ。
「同じ顔」はそれでも追うのを止めない。
追いかけながら、陰茎の奥にある女性器から自分自身を産み、何度も生まれ変わっていく。
「生まれ変わってやり直します!」とは、言い訳の常套句だ。本心では無いので何度生まれ変わっても「同じ顔」のまま。つまり相変わらず「知恵」は無い。
 
そして、最後にはかつてのパートナーの姿になる。時に声を荒げ、時に泣き言を言い、暴力までふるう、「知恵」を欠落させた村の人々の大吟醸のような存在だ。ソファに座る満身創痍のパートナーは「何か言うことあるんじゃないのか?」と、謝罪を迫りハーパーを再び辟易させる。
さて。この時のパートナーの姿と、自殺して死んだパートナーの姿には違いがある。死んだパートナーは頭蓋骨を開放骨折していた。
ハーパーは微かな笑みを浮かべ斧の刃を指ではじく。
 
ここで何度も繰り返されるパートナーの自殺の様子を振り返ってみると違和感に気づく。
飛び降り自殺を図る人は建物の縁に外を向いて立ち、踏み出して落ちていく。つまり建物に対して背を向けて落ちていくものだ。
しかし、ハーパーが目撃した落下中のパートナーは建物側を向き、手は何かを掴むように中途半端に開いている。そして、その顔は「ヤバッ!」という表情そのものである。
劇中ハーパーによって憶測されているように、上の階から忍び込もうとして誤って落ちてしまった事故死であろう。
 
ハーパーは「別れるなんて言うなら死んでやる!」と自殺を仄めかされた相手を家から追い出して、後悔にまみれた日々の中から、ようやく思いをぶつけることが出来た。その刹那、勝手に死なれてしまったのである。
 
そのやりきれなさを、改めて自分の手で同じ傷を負わせて殺し直し、スッキリと友人を迎えたのが本作のラストではないだろうか。
 

グリーンマンとシーラ・ナ・ギク。綿毛と恍惚。こだまと増殖。

 
起こった出来事を整理していけば、かなりすんなりと咀嚼できる物語になるが、細かなディティール部分には、まだまだモヤっとした不明瞭さがある。
 
劇中何度も印象的に登場する教会にある悶絶する男と性器を露わにする女のレリーフ。それぞれグリーンマンとシーラ・ナ・ギグと呼ばれ、双方とも紀元前から存在するものらしい。
このレリーフを男女の「表裏」の関係とするか、背中合わせに「一体化」とするかで、解釈は180°違ったものになりそうだ。
 
また、クライマックスで突然「同じ顔」がハーパーにタンポポの綿毛を吹きかける。むろん男性の精液とみるのが正しいのだろうが、この場面でハーパーは宙に浮き恍惚とした表情で、綿毛をひとつ吸い込む。
好きでも無い相手の体液は排泄物的な印象を持つと思うが(違うと言われたら返す言葉は無い)その排泄物をかけられて恍惚とするのは相反する心情であろう。
 
これらの解釈の糸口になりそうなのは、序盤のトンネルの場面ではなかろうか?
 
邸宅周囲の森を探索するハーパーは通りがかったトンネルで響くこだまを楽しむ。
「ハー! パー!」と自分の名前に節をつけて叫び、そのこだまにタイミングよく別の節で「ハー! パー!」と合わせていく。輪唱のように「ハーパー」が重なり和音になり、楽しい音楽が生まれる。
こだまの「ハーパー」の増殖は、「同じ顔」の増殖の対比であろう。
 
ただ、「表裏」や「対比」のような相反すると思われる物事は、実は単一の存在で、どちらか一方では無い。「表裏」は主観的な判断で生まれるもので、どちらを「表」ないし「裏」とするかは判断する人のものである。むろん「良い/悪い」や「好き/嫌い」の判断も、その対象は当たり前だが単一のものである。
 
本作タイトルの「MEN」も一見MAN(男)の複数形に思えるが、同時に「MEN」はセクシャリティを問わない「人々」の意味も持っている。
私がこの一連の文章で、不可避な場合を除き「男女」を明確化していないのは、それが生物的な「男女」なのか、法律的な「男女」なのか、性自認に基づく「男女」なのか、そもそも「男女」どちらかなのか、劇中では明確にされていないからである。
 
むろん本作は、その表層にミソジニーやトキシック・マスキュリニティといった考えがあるのは間違い無いだろう。ただ、その奥の、次の階層には、男女やセクシュアリティを越えた、もう少し何にでも当てはまるような、面倒くさい何かがあるような気がしてならない。
 
おそらく、そう思わせるように作られているのだろう。あぁめんどうくさい。