階段のエスプリ 〜クリス・ロックとウィル・スミス〜

フランスの「エスプリ文化」。上手い言い回しや比喩表現で面と向かって嫌味を言う。という、いけすかない文化である。
言われた方もその場でエスプリを返せれば良いのだが、咄嗟に気の利いた言葉を思いつき絶妙なタイミングで放つのは至難の技だろう。
あぁ悔しいなぁと帰路につこうと階段を降りかけた時にフっと、気の利いた言葉を思いつく。しかし、後から思いついた「気の利いた言葉」なんてものに意味は無い。
エスプリの常套表現では、その場で上手く返せない人を「階段のエスプリを持っている人」と表現するそうだ。「トロい」とストレートに言わないエスプリでありトコトンいけすかないものだ。
 
ウィル・スミスとクリス・ロックである。
 
「ジェイダ! 愛しているよ! 新作『G.I.ジェーン2』楽しみにしているよ!」
しょうもねえなぁ。と思いつつ横を見るウィル・スミスの目に映ったのは怪訝な様子のジェイダである。
瞬間的にウィルの頭に去来したのは、恐ろしいほど不機嫌なジェイダを延々となだめ続ける自分の姿だ。
「モチロン良い意味でね!」よせばいいのにクリスがいつまでも『G.I.ジェーン』ジョークを続けている。
(どうにかしなければ! 今すぐにブン殴ってでも止めなければ!)思うと同時に立ち上がってしまう。
最前列のウィルからクリスまでの距離は3〜4メートル。(とはいえ、アイツは友達だ。中継カメラもある。やっぱりブン殴るわけにはいかない。)しかし立ち上がった手前、もう歩き出してしまっている。
(だいたいゲラゲラ笑ってるセレブどもも共犯じゃねえか!)もう、数歩でクリスに手が届く。
(殴ったらダメとはいえドウする!?)クリスの目の前に到着する。もはや手は上がっている。クリスはニヤニヤとした半笑いのままだ。
(グーはダメ! パー!)
 
バチーン!
 
(とはいえヤッベー!)
殴りつけるよりはマシな「ビンタ」ではあるが、本当の、フィジカルな暴力を、自分の肉体を使って行使した興奮でアドレナリンが身体の隅々まで駆け巡る。しかし、どよめく会場に瞬間的に頭が冷める。興奮で身体は自信タップリな挙動で動く。それでも冷めた頭でようやく自分を席へ向かわせる。
(ウーン! どうする? ってもうどうにもならねえ!)
諦め半分、自分の席にドッカリ座る。行動がジワジワと実感に変わる。そんなウィルの耳にクリスの声が届く。
「ウェヘヘ! ウィル・スミスにビンタされちゃったよ。」
抑えてつけていた自制の系が切れて、アドレナリンが優勢となる。
「その薄汚え口から二度とオレの妻の名前を言うんじゃねえ!」
(やってもうたー!)
興奮の勢いでようやくジェイダの顔を、それでも恐る恐る見る。驚きに呆れが混じっているが、ウィルが幻視した不機嫌なジェイダはいない。それをなだめる自分の姿の予感も消えている。
(セーフ!)
 
これは私が最初にこのニュース動画を見た時に思い浮かべたウィルの心象風景だ。
 
クリスのジョークはジェイダのみならず、ウィルも傷つけた。そして、ウィルは深い愛を向ける家族と自分自身の尊厳のためにも、あの場で、あの瞬間に行動しなければならなかった。
少なくともジェイダの気は晴れたようだし、ジェイデンには反面教師にするんだぞっとクギを刺す必要はあるにせよ、黙り込んで何もしない父親の姿だけは見せずに済んだ。
 
ウィルの心象が、私が妄想したものと同様であったと証明は出来ない。どこまで行っても私の憶測でしかない。しかし、私はウィルの行為や気持ちに他人事とは思えないほど共感してしまった。むろんそれが私自身が創った想像上の「ウィルの心象」だと解っていても。
 
この騒動に対し様々な毀誉褒貶が世界中のネットを飛び交ったのは知っての通り。
日本ではウィル・スミス擁護もそれなりに散見できたが、本国アメリカではウィルへの非難が多いそうだ。
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」
「元とはいえラッパーなら気の効いた言葉で返せ!」
これらが非難する声の代表的なものだろう。
しかし、ドレもコレも「階段のエスプリ」である。
後からならドウとでも、何とでも言える。むろん、後からでは全く意味が無い。加えて、それらを言っている人々はウィルがそうだと言われているのと同様に「自分自身」のための発言だ。自分の虚栄心や自己顕示欲、自己満足を満たすため。セレブを悪しげにコキ降ろす自慰じみた娯楽の一環である可能性も極めて高い。
 
その上で。百歩譲って。
それらの忠告や非難とウィルのビンタを比べても、ビンタ以上の良い手段だとは思えない。
 
「何があっても暴力はゼッタイにダメ!」なんて話は判り切ったことで、じゃあクリスの言葉の暴力は無制限に許されるのか? 『サマー・オブ・ソウル』インド系黒人プロデューサー、ジョゼフ・パテルを「あと、他の白人3人!」と雑にあしらった罪は? アジア系の子供たちを「会計係」と紹介したジョークは?
アカデミー賞」自体が、誰かの暴力を誘発させるまで悪趣味を増長させ続け、その結果があのビンタではなかったのか?
 
「ジェイダのことを思っての行動じゃない! 自分自身のためだ!」自分を守って何が悪い?
例えば、自分の好きなタレントが悪趣味なジョークのネタになって塞ぎ込んでしまうような場面で、我が事のように辛い気持ちになった経験は無いか?
それが自分の家族だったら尚更。それでも「黙って見ているのがルール」なんてのはルールの方が非人道的じゃないのか?
 
「元とはいえラッパーなら言葉で返せ!」今は俳優なんだが。それに、その理屈ならデザイナーはデザインで返さなくてはいけなくなるし豆腐屋は豆腐で返さなければならなくなる。
そもそもウィル・スミス:フレッシュ・プリンスは「ビーフの文化から生まれたラッパーじゃない。しかもカース・ワードを歌詞に織り込まないことでも有名だ。加えて、相手は悪しげに人をこき下ろすことで超セレブに上り詰めた、口だけは最強に立つコメディアンだ。リズミカルに言葉を繰り出すアゲアゲのパーティ・ラッパーに、何を言い返せと言うのか? 「セイ・ホー!」とかか?
 
最近ウィルのビンタについてジェイダのコメントが発表された。いわく「怒ってはいないが、やって欲しくはなかった。」とのことだ。
ビンタが無ければ「怒って」いた可能性はあっただろう。それこそがウィルが一番恐れていたことではなかったろうか?
いずれにせよ、ウィルはビンタによって、家で猛烈に不機嫌なパートナーがいるという事態は避けることが出来た。
また、クリスのバッド・ジョークの「バッドさ」はウィルのフィジカルな暴力の前に霞み、ウィルは一人でドッサリと2人分の泥をかぶり「友人」であるクリスを立てる格好になった。
 
加えて良かったのはクリスの対応が常識的なものだったことだ。
病気の事は知らなかったし、不本意ではあったものの、友人のジェイダを傷つけウィルを「パートナーの不機嫌」という窮地に陥しかけ、ジェイダと同じ病気に苦しむ多くの女性たちを傷つけたのを自覚したのだろう。自身のバッド・ジョークの正当性をアピールすることは無かった。
また「被害者である」という使い減りの無い「特権」を唸りをあげて振り回しウィルを責め立てることも。ベラベラと被害を吹聴してまわることも。SNSでウィルに詰問を並べ立てるような、気の狂った事もしなかった。
すり寄ってくる衆愚「ウィル批判者」に同調し、ウィルの謝罪や周囲の擁護に「二次加害だ! 犬笛だ!」と口角泡飛ばし狂乱するようなマネもなかった。
これらは「ビンタ」というビジュアル的なショックさを伴った行為だったからこそ生まれた対応であろう。
 
ウィルの「ビンタ」は不問に付されるベキだとは思わない。やはり暴力は良いものでは無い。それに「ビンタ」が問い質される行為だったからこそ、ウィルの家庭は安泰を取り戻したと言える。
とはいえ不釣り合いに過度な処罰や、知性を欠いた粘着質な罵詈雑言、ワケ知り顔だが対して何かを知っているワケでもない坂上忍めいた批判といった「外野の自慰ネタ」にするのも、もちろん間違っている。
 
アカデミー賞を主催する「映画芸術科学アカデミーはウィルをアカデミー賞や関連イベントへの出席を10年間禁止するという決定を下した。ウィルも自らアカデミーから脱会した。
この決定がどれほど重いのか(もしくは軽いのか)よく判らない。ただ、やはり。いずれにせよ。パートナーの不機嫌と天秤にかければ「軽い」と思えるのではないだろうか?
 
ここまで。
 
クリスとウィルにとっての、長ったらしい「階段のエスプリ」ではあったが「パートナーの不機嫌」はいつでもドコでも誰にでも起きうる問題だ。
コレを読んだアナタにとってはまだ「階段」まで到達していないか、問題が起こる現場への「階段」を上がっている途中かもしれないでしょ?