正義と快感 〜『セブン』ジョン・ドーの目的〜

映画『セブン』。
 
警察に出頭したジョン・ドーは、それまでの犯行を認めることと、まだ発見されていない犯行の自白を引き換えに、ミルズ刑事とサマセット刑事を伴い、何も無い荒野の真ん中へ向かう。その道々、ジョン・ドーは饒舌に犯行の意図を語っていく。
人々は好きな物を好きなだけ喰って、楽しみのための倒錯的なセックスに溺れ、人を不幸に突き落としてでも金儲けを優先する。そんな人々へ「七つの大罪」をモチーフとした殺人を突きつけ、警鐘を鳴らす意図があったと。
揚々と犯行を語るジョン・ドーに、口ごもる瞬間が訪れる。自らの行為の崇高さをまくしたてるのを、サマセットがピシャリとたしなめた時だ。

「でも、オマエは人殺しを楽しんでいただろう?」

「……仕事を楽しむ権利もあるだろ?」
 
ここでジョン・ドーの犯行を並べてみる。
大食漢の男にスパゲティを文字通り死ぬまで食わせた「GLUTTONY(暴食)」。

あくどい弁護士にシェイクスピアベニスの商人」の「1ポンドの肉」を実践させる「GREED(強欲)」。
ジャンキーをベッドに縛りつけ間断なく、しかし死なない程度にドラッグを与え続ける「SLOTH(怠惰)」。
娼婦を買う客にナイフの付いた性具を着けさせて娼婦を犯させる「LUST(肉欲)」。
美人モデルの顔を切り裂き自殺か、救急車かを選ばせる「PRIDE(高慢)」。
美しい妻とこれから産まれる子供など幸せが待っているミルズに嫉妬し、その妻を自ら殺す「ENVY(嫉妬)」。
復讐のためミルズに自分を殺させる「WRATH(憤怒)」。

 
「嫉妬」と「憤怒」は他とは意味合いが多少異なるため別としても。個々の犯行にはジョン・ドーに直接性的な達成感(射精)を促すようなものは無い。もちろん金品を目的としたものでもない。一応「人々に罪深さを啓蒙する」という目的はあるが「啓蒙」それ自体がジョン・ドーの楽しみだったワケでも無い。
 
サマセットが指摘した、ジョン・ドーの犯行における楽しみとは「支配欲」であろう。
ジョン・ドーにとって「7つの大罪」を犯す者は「罪人」で処罰の対象である。
「処罰」を日本語で使う場合「処罰を与える」「処罰を下す」「処罰を課す」となり、どれも上から目線の行動であるのが解る。「処罰」は相手を傅かせ、屈服させ、自分が希望する通りの行動をとらせる。それらは罰を加える側:ジョン・ドーの支配欲を刺激する。
 
ちなみに、ペドフィリア犯罪で捕まった多くの犯罪者たちは、実はペドフィリア的な性癖は持っておらず、単に子供が「御し易い」「抵抗しない」「言い返さない」からだという話がある。つまり、彼らは支配欲を満たすために子供を犯すのだ。
 
そして、ジョン・ドーがサマセットに指摘され口ごもってしまったのは、ペドフィリア犯罪者と同様に、目的を達成する過程で副次産物的に産まれる物との「逆転」を見透かされてたように思えたからではないだろうか?
つまり「啓蒙」を果たす過程で支配欲が満たされるのではなく、支配欲を満たすために「啓蒙」の言い訳を作った。むろん、自分自身の欲望発散という後ろめたさを隠すために。

精神科医でカウンセラーを務める人物が診察室で出会った人々を例に、様々な「うそ」を取り上げたルポルタージュ本「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」の中で「最低最悪のうそつき」と定義づけられているのが「自分を自分のうそでダマせる人」である。
例に挙げられているのはDV母親が自分の子供に怪我をさせ、医者に対して「階段から落ちた」とうそをつく。最初こそ自分がうそをついている自覚があるのだろうが、何度も「階段から落ちた! かわいそう!」と繰り返し医者に訴えるたびに自分自身もそのうそに騙されていく。最終的に本当に自分の子供が階段から落ちたと信じてしまうというのだ。
 
「義憤」にかられ「処罰」を与える一方で、実は「処罰」がもたらす「支配欲」の充足こそが真の目的だった。
 
そんな光景を最近良く見かける。