「よくわからない」という明確さ『MEMORIA メモリア』

パブロ・ピカソによる反戦をテーマにした「ゲルニカを何の前情報も無く鑑賞したら、多くの人はそのテーマ性には気づかないであろう。
とはいえ。圧倒的な存在感(デカイ!)と、特異な筆致の魅力は強く、何某かの強い印象を観る者に持たせるだろう。
「なんか、よくわからなかったけどスゲー!」といった。
 

MEMORIA メモリア』鑑賞。

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作。南米コロンビアの都市メデジンを舞台に、自分だけに聞こえる奇妙な爆発音に苛まれるジェシカの日々を描く

 
アピチャッポンの作品について書かれた評文は、だいたいムズかしい。「深淵」とか「境界線」といった抽象的、概念的な言葉が使われ、明確では無い結論が断定的な文章で綴られている。
また、アピチャッポンがゲイであることや出身のタイでの事件を引用した、サブテクスト必須な作品(スパイダーマンの新作を観るためにはMCUのドレソレを観ていないと理解出来ないといった)であるように語られもする。
 
それらは、ゴダール作品について語られた評文に似ている。そして、そういった評文は私がつい最近までゴダール作品に触れようと思わなかった原因でもある。
確かに、ゴダール作品やアピチャッポン作品にはそーいった側面があるのだろう。とはいえ「深淵」だったり「境界線」なんかを気にせず、作品背景を知らないままでも彼らの映画は楽しめる。
 
MEMORIA メモリア』で、ティルダ・スウィントン演じるジェシカが公園を通りがかる。すると野良犬が公園の真ん中を、特に目的も無いような風にゆったりと横断する。ジェシカは犬を遠巻きに、警戒するようにソロリソロリと移動し木の影に隠れ、犬の通過を確認しベンチに座る。
その行動は犬を恐怖しているのか、うやうやしく畏まっているのか、いずれにせよ多くの人が犬に対して、特にボンヤリした犬に対してとる行動では無い。そこには、やはりどうしても滑稽さが生まれる。
 
「爆発音」を再現してもらったサウンドエンジニアのエルナンを訪ねてスタジオに来たが見当たらず、近くの人に声をかける。ところが「エルナン」という存在自体知らないと言われ、納得がいかず背格好を説明するも、やはり知らないと言われてしまう。
特におぼろげな存在であったワケでも謎めいていたワケでもない、普通の青年の突然の消失は、超自然的な恐れを抱かせる。
 
川のほとりで出会った中年男性「エルナン」は、見たもの全てを記憶してしまうので、ラジオやテレビは持たず、外を出歩くこともあまり無いと言う。ジェシカは「見逃したら悔しい思いをするものもあるかもよ? サッカーとか。」とエルナンに聞く。
ラン交配農家のジェシカが「サッカー」を「見逃したら悔しいもの」と認識している驚きと「サッカーは…… 別にイイや。」というエルナンの腑に落ちる返答への共感が湧き上がる。
 
他にも、友人との会話に唐突に披露される手品と終了した手品の後片付けの間の悪さ。
話していた相手が目を開いたまま寝てしまい、死んではいないようだが起こして良いものか不安になるバツの悪さ
カギが無いからベンチで塞いでいるという効率の悪さと、その奥にあるのが古代の遺体という時空を超えた空間。
通りがかった部屋で行われる3ピースのジャズバンドが演奏するノリの良いセッションの高揚感。
元々は何かがあったのか、それとも最初からそういう設計なのか、自然光がほのかに入るガラス張りだが中には何も無い空間のスットンキョウな美しさ。
 
そして、子供が語るホラ話のようにバカバカしくも壮大な「爆発音」の正体。
 
多くの映画では、シーン毎にいだかせる感情を連続させて収束するように一つの結末に落ち着かせるものだが、アピチャッポンの作品では解りやすい因果関係には落とし込まれていない。
 
しかし、映画の中に出現した偶然の奇跡的な瞬間や、ニヤニヤとさせられるユーモラスさ。ひんやりとする理不尽さ。などなど。散漫にあるそれらを見つけては「あぁ、楽しいなぁ」と過ごす、というのも映画を鑑賞することで出来る体験であろう。
アピチャッポン作品では、多くの商業映画では感じることの少ない体験に溢れている。
 
「なんか、よくわからなかったけどスゲー!」といった。