「これは映画である」と強く思わせる『ブレット・トレイン』

TOKYO発の新幹線に乗り合わせた殺し屋たちが、伝説のヤクザ「白い死神」の息子と彼の身代金が入ったブリーフケースを巡り死闘を繰り広げる。
タイトルのブレット・トレイン「弾丸列車」とは特急列車のことだが、狭義で日本の新幹線のことを特に指す。
 
さて。
グランド・イリュージョン』シリーズのフォー・ホースメンたちが人々を集めて手品を見せる理由はなんだったろうか?
ミッション:インポッシブル/フォールアウト』高高度からのスカイダイビング「HALOジャンプ」をしなければならない理由は、そしてウォーカーが気を失った理由はなんだったろうか?
『ソウ』シリーズ2作目以降で、残虐な人殺しマシーンを使う理由はなんだろうか?
 
全て「見た目が良いから」だ。
 
グランド・イリュージョン』はまだ「逃走経路確保のためギャラリーが必要」とか「陽動のため」といった言い訳があるが(そもそも目立たなければ良いだけ)、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のHALOジャンプはパリの雑多なクラブに潜入するという、100円のために1,000円かけるような作戦だし、ウォーカーが気を失った理由は全く不明だ。
『ソウ』に至っては、ジグソーの後継者が誰でもドウでもイイし、動機なんか何の足しにもならない。その感覚は観客と製作者が共有しており、なるべく痛そうで派手な機械が出ること/見れることこそが至高のシリーズ存続理由ですらある。
 
『ブレット・トレイン』とは何なのか?
 
序盤、“レディバグ”はまんまと身代金の入ったブリーフケースを盗み、品川で降りようとするも、“ウルフ”と鉢合わせしてしまい、列車に戻らざるをえなくなる。
もし、1両降りるドアが違っていたら、本作は成り立たない。
息子をビルから突き落とした犯人からのメモ(「私が突き落とした」というストレート過ぎるもの)を根拠に自身で列車に乗り込む木村雄一が、もしも自分以外の者を向かわせていたら。父親に相談していたら。警察に通報していたら。
やはり本作は成り立たない。
では、何故作品にとって都合の良いことが起こり続けるのか?
 
これが映画だからである。
 
劇中「運命」や「悪運」という言葉で偶然の連鎖が語られるが、その実、それが起こらなければ「映画」が成り立たない。だから起こる。そこまでして観せたいものがあるからだ。
 
それはブラッド・ピットの華のあるボヤきや地団駄を踏む様子だし、アーロン・テイラー・ジョンソンのスラリとした筋肉質の体躯で悪役然とした口髭を蓄えているのにコードネームが「タンジェリン(みかん)」というジョークだし、久しぶりに見るマシオカや、「カタナ」「キミコ」のあの人がいたりと、スクリーンに映える楽しさである。
 
また、テクノロジーオリエンタリズムが融合した奇妙な街「TOKYO」も良かった。律儀に鬼の面を被っていたり、鋲打ちライダースでキメた、とうのたったオッサン軍団のヤクザたち。東京五輪キャラのソメイティ似のモモもん。登場人物たちの終着駅「KYOTO」は平家だらけの中に唐突に五重塔が建っている。
などなどの異国情緒溢れる架空の都市の様子はやはり映画的な情景である。
 
極めて映画的な表現とは、映画的な表現のために他の何かを犠牲にした、純粋に映画的であろうとした映画にこそ宿るものかもしれない。