つれづれ2015 ~晩春~

●映画改悪がマジでブーム

『ホーンズ 容疑者と告白の角』『チャッピー』がゴアシーンカットでの日本公開。ここで、改悪された映画の中から、いくつか例を上げる。

リメイク版『キャリー』はもともとR15だったのをPG12に改悪して2013年11月8日に公開されたが、12月21日よりオリジナル版が公開。
ザ・レイド GOKUDO』はR18からR15へ改悪して2014年11月22日に公開されたが、12月13日よりR18版が公開。
『フィフティ・シェイド・オブ・グレイ』はR18からR15へ改悪して2015年2月13日に公開されたが、わずか12日後の2月25日よりR18版が公開。
近年の改悪映画は、後になってオリジナル版を公開する傾向がある。『チャッピー』もオリジナル版を観たいと思っている人は近年の傾向を鑑みて、少なくとも公開初週の週末に観賞するのは避けた方が良さそうだ。

改悪をする人に聞きたいんだけど、たとえばミケランジェロダビデ像を展示する際におちんちんをノミでキレイに削り取ろうと考えた人がいたとして。ダ・ヴィンチのモナリザを細かく切り分けて展示しようと考えついた人がいたとして。彼らと、映画を改悪して公開した自分の差をどう考えるのだろうか?

むろん私は「同じことしているって自覚は無いの?」と聞きたいのだが。

 

●映画版『寄生獣』について。

映画版での「母性」を強く推したアレンジは悪くない。むしろ良かったと思う。それなりに長い原作を2本の映画にまとめたことで見せ場だらけになった脚本も良い。が、とにかく山崎貴監督に演出力が無い。特に染谷、橋本、深津、大森が揃う場面で、それぞれ演技のトーンが合っていないのは素人目にも明らかだ。歌舞伎とオペラと新劇とブロードウェイがそれぞれ一歩も譲らず張り合ったみたいなすさまじい違和感を覚えた。

そんな中、一番評価できるのは『ターミネーター』パート1での、サラ・コナーとカイル・リースの一夜をトリビュートした場面だろう。あのひと声だけで前後2作全部ひっくるめてヨシとしたい。また、一番輝いていたのも、やはり橋本愛ちゃんであろう。恥ずかしくてゴロゴロ転がりたくなる「里美」の歯の浮く原作台詞が、ちゃんと高校生の身の丈から出た言葉のように受け止められた。

橋本愛ちゃんを愛でる映画としてはたいへん素晴らしいけど、瑕疵も看過できない程度にデカイ。

それはそれとして。終盤、焼却炉での戦いで「ダイオキシン」を「放射性物質に変更したことをとやかく言っている人がいるみたいだけど、あざとさは別として科学的にどうこう言うのは野暮天というもの。CGで修正しろとか言うのも、まさしくダビデのおちんちんを削る行為と同じだ。問題は文化的な価値では無い。作者の創意とは、外野が変更してイイものでは無い。

 

スターウォーズパイセンにカツアゲされる

六本木ヒルズで開催中の「スターウォーズ展」。もちろん見てきた。プロップや実際の衣装も良かったけど、スターウォーズをテーマにした絵画が面白かった。ミレイの「オフィーリア」と同じタッチで描かれた懐妊中のアミダラや、レンブラント風に描かれたモスアイズリー港のグリード殺害現場など、なんとも現代アート的。

もちろん「出口はギフトショップを通った先」(エグジット・スルー・ザ・ギフトショップ)形式で、スターウォーズ手ぬぐいや東京会場限定イウォークのぬいぐるみなどを購入してきた。

5月4日には同じ六本木ヒルズの円形会場「六本木ヒルズアリーナ」で、J-WAVE主催のスターウォーズイベントで、なぜかリップスライムとライムスターのミニライブが開催されてたので見てきた。が、一番盛り上がったのは、そのあとのオーケストラによるスターウォーズ・メドレー。

 

●インドから良作イヤミスがゾロゾロ上陸!

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『UGLY』だらしのない前の旦那に娘を預けたら誘拐されて、刑事でもある今の夫が捜査をするのだが、事態はどんどん考えうる限り最低最悪の展開をしていく。

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『NH10』都会のシャレオツ・カップルがバケーションで田舎へドライブに行ったら、現地の男たちによるリンチ殺人を目撃してしまい、追われるハメに。どこへ逃げても事情を察したとたん敵になる田舎村民たちが本気で恐ろしい。

 

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『Badlapur』いきあたりばったりな2人組の銀行強盗に娘と妻を殺された旦那による15年越しの復讐劇は、疑心暗鬼と嫉妬を催させる超イヤな方法!

と、インドではオリジナル・イヤミス絶好調。「インド映画」というカテゴリーではなく、普通に「イヤミス映画」としてレベル高い。

 

●「Filmarks」が始めたウェブマガジン「FILMAGA」のライターになった

みたい。というのも、未だによくシステムが解っていない。

う~~ん、う~~ん、う~~ん。あまり多くは語らないでおこう。

 

映画ポスター、意味の変遷

前回エントリ「『バードマン』ポスターに見るデザインの意味」(http://samurai-kung-fu.hatenablog.com/entry/2015/03/07/204203)の続き。
 
 
かつて。
ネットが今ほど普及していなかった時代の映画ポスターはこんな感じ。

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まず、目につくのはウソばっかりなところ。『ランボー1作目の本編にパトカーはこんなに沢山出てこないし、高層ビルが並ぶ都市部のハイウェイでカーチェイスするシーンなんて無い。実際には知っての通り、保守的な田舎町でベトナム帰りのジョン・ランボーが地元警察に追いたてられるだけの、陰惨で暗い話だ。しかし、ポスターでは派手なアクション巨編のような絵になっている。ダマしてでも客を劇場におびき寄せる。という名物配給会社「東宝東和」独自の宣伝だ。
ここで、オリジナルのアメリカ版を見てみる。

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かなりシンプル。デスクトップにドラッグしてアイコン化して見るとよく解るが、人物の顔と腕の肌色と「スタローン」「First Blood」の赤い文字が青暗い背景の中で目立つように設計された、王道ながら優れたデザインと言えるだろう。
当時のスタローン出演作には『フィスト』や『パラダイス・アレイ』など、労働者階級の苦しい日々を描いたドラマ映画もあり、『ランボー』もあくまで「ベトナム帰りで強いトラウマを抱えた兵士」という構造そのものをメインにした映画で、主人公をメインにしたキャラクター映画だとは考えていなかった。そんな中で日本版の、派手なアクションを売りにした宣伝方法に影響を受けてパート2以降の路線が決まったことは有名な話だ。
 
 
さて。当時は、テレビやラジオ、マンガ雑誌などは今よりももっと映画と密接に関わりあっていた。テレビでは毎日映画が放映され、情報番組でも必ず映画特集コーナーが組まれた。『E.T.』の姿を最初にメディアに発表したのは少年マガジンだった記憶がある。それほど各種メディアと映画は密接だった。
また、駅付近の巨大な広告スペースのほとんどは映画の宣伝広告に席巻されていた。特に新宿東口は歌舞伎町にあった10館以上の映画館で上映される作品がズラリと並ぶ壮観な景色になっていた。

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日常的に映画イメージに触れ、気になった映画を新聞や「ぴあ」「Tokyo Walker」などのタウン情報誌で調べて、劇場へ向かう。というのが当時の映画観賞スタイルだ。
当時の日本において、映画のポスターは駅構内の壁や劇場が独自に持っている広告スペース(といってもベニヤ板に杭をくくりつけた簡単なものだが)に貼られていた。それらは「どの劇場で上映しているか」を示すものだった。
図版はテレビや雑誌、看板などで露出した映画の総合的なイメージを、B2(もしくはB1)サイズに落とし込んだものになる。「あのテレビ番組で! ラジオで! マンガ雑誌で! 大きな看板で! アタナが気になった映画は、この劇場でやってますよ!」と誘導するのが映画ポスターの役割だった。
そのため、ポスターの上に上映する劇場名や上映のタイムテーブルが書かれた紙がべったりと貼ってあるのも、当時よく見る光景だった。
 
 

時代や人々の意識の移り変わりにより映画ポスターは、サイズを変えないまま役割が変わっていった。役割が変われば当然デザインも変わる。

 
 
例えば今日。年に数本しか映画を見ないような人が「映画でも見ようかな?」と思ったら、まずウェブに繋げる。普段仕事でも使い見なれているヤフーの映画ページへ飛ぶだろう。すると、公開中の映画ポスター画像がサムネールのサイズで並んでいる。気になる映画ポスターをクリックすると、あらすじやスタッフ、キャスト、上映館などの情報が出ている。見る気になったら上映館とタイムテーブルを確認する。チケットのネット予約で座席を押さえたら、あとは上映シネコンに行き、見ようと思っている映画のポスターが掲げられた上映スクリーンに入る。
という流れ。
 
 
パソコンやスマホ画面の、さらにサムネールサイズに縮小されてしまうのを前提としてデザインされるのが近年の映画ポスターだ。以上を踏まえてアップル社i tunesの映画予告サイトを見ると、私が言っていることがよく解るハズだ(前回エントリで佐藤可士和を例に出したのは、デザインはそれ単体で評価されるものでは無く、使われる用途や状況によって変化するものだという意図だったのだが、私が続きを書くのに飽きてしまったので宙ぶらりんになった。あの話、いま思い出して!)。
 
 
これを見れば『舞妓はレディ』写真積み上げポスターがいかに悪いデザインか解るだろう。細かく割り過ぎてサムネールサイズでは誰が出演しているかの判別など出来ない(ついでだが、事務所への気遣いなんてのは主演クラスの人に対してはそれなりにあるかもしれないが、端役出演者への気遣いなんてのは、ポスター図版に影響を与える程は無い。他の邦画ポスターを見ても、こんなにヒドい写真積み上げをしているポスターが無いのは、その証左と言える)。

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また、いきなり劇場へ行ってポスターをまじまじと見つめ、キャッチコピーや出演者を確認してから、ようやくその日に見る映画を決める奴なんかそうそういない。そんなニッチな層に向けてポスターを15分割して、人物のおでこが全員切れて余白の背景がバカみたいに悪目立ちするトリミングで、クドクドと切り貼りしたポスターが「良いデザイン」なワケは無い。「悪いデザイン」の、さらに大吟醸の「ゴールデン最低スーパー最悪デザイン」だとすら言える。
 
つまり。現在の映画ポスターにおいて「良いデザイン」とは、映画内容を象徴的に表している上に、サムネールサイズになっても判別でき、なおかつB2(もしくはB1)サイズでも栄えるデザインのもの、になる。
ココまで言えば、なんでもかんでも「シンプル・イズ・ベスト!」と言っているワケでは無いのは当たり前のように解るだろう。これについては書いても書ききれない愚痴や罵詈雑言があるのだが、今は止めておこう。
 
 
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版ポスターに話を移す。

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カラー版、モノクロ版、それぞれ良い点と悪い点があるが、上記した「サムネールサイズでの印象」は俄然モノクロ版の方に軍配が上がる。しかし、見た目に力があるのはカラー版の方で、それはサイズめいっぱい写真を使っているからという単純な理由だ
その替わりに、各要素は散漫でとっちらかって色数も増えて美しくないし、必要以上に説明的で下品だ。やはりベストはオリジナル版になってしまう。

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これはオリジナル至上主義とか欧米へのあこがれとかでは無い。オリジナルのポスターが、写真を版面めいっぱい使いつつ、余計な情報は極力抑えて、サムネールサイズでも栄えるようにデザインされているからだ。すなわち、現在における映画ポスターの「良いデザイン」を念頭に設計されている。
生き馬の目を抜くようなアメリカの興行産業界では、当然のように優れたデザインでなければ採用されない。
 
じゃあ、なんで日本は…… という詳しいところは、また機会があれば。
 
 
簡単に言うと「本当の意味でのクリエイティブ・プロデューサーの不在と印刷営業のクライアント=神様対応」。これは本当に仕事の愚痴になるから書かないかな?

 

『バードマン』ポスターに見るデザインの意味

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版のポスター図版が変更になった。アカデミー賞作品賞含め4部門での受賞を謳ったコピーが、以前のものより控えめに入っている。最初の「カラー版」の時点で主要9部門へのノミネートが記載されていたから、変更はある程度想定内だったのかもしれない。

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そもそも「カラー版」はどういう意向で作られたのか。これは紙もののデザイン業に携わる人なら痛いほどよく解るハズだ
「とにかく全ての情報を入れろ!」
理解の無いクライアントはよくこういった無理難題を押し付け「これで金もらってんだろ? クライアントの言う通り作るのがオマエの仕事だろ?」と詰め寄る。
 
『バードマン』は普通のカラー映画で、過去に「バードマン」というヒーロー物の主演を務めた男のブロードウェイ舞台出演を描いているそうだ。主演にはマイケル・キートン。他に『ハングオーバーのザック・ガリフィナーキス、『ファイト・クラブエドワード・ノートン、『アメイジング・スパイダー・マン』エマ・ストーン、『ダイアナ』のナオミ・ワッツが出演している。アカデミー賞主要9部門でノミネートされ、その前哨戦と言われるゴールデン・グローブ賞では主演男優賞と脚本賞を受賞している。
それらの情報を全てポスターに反映させると、見事に「カラー版」のポスターになる。
モノクロのベースに、まずは色がつけられる。映画本編に登場する、主人公が過去に演じた「バードマン」が何なのか、大きくコラージュされる。アカデミー賞ノミネートの情報を入れるために車は消され、可読性を保つためにパース感を無視してコピーが挿入される。さらにあらすじまでもスキマに挿入される。
 
そして、このポスターのデザイン作業をしたデザイナーは、それら一つ一つのデザイン構成要素に賛同して作業をしたワケでは無いハズだ。なぜなら、元のアメリカ版のポスターで、すでに「映画ポスター」として完成しているからだ。
 
 
ここで、少し前にウワサになった佐藤可士和がデザインしたセブンイレブンのセルフのコーヒーサーバーの何がいけなかったのかを振り返る。
濃い色のアクリル板にボタンが4つ。「HOT COFFEE」「ICE COFFEE」の文字と、それぞれのサイズ「R」の下に「REGULAR」、「L」の下に「LARGE」。と極限までシンプルになっている。
もしも、このデザインがオフィスのコーヒーサーバーであったなら、出来の良いデザインだと言える。給湯室の脇か、会議室の出入り口付近か。広いスペースの片隅に色数も情報も少なく、何も知らないまま遠目に眺めたら、空気清浄機か、せいぜいウォーターサーバーに見える。景観の邪魔をしないシンプルなデザインだ。
しかし、セブンイレブンではそうはいかない。四方八方を商品で囲まれ、チケット発行機やら銀行ATMまで、とにかく情報に溢れている。その中にポツンと可士和デザインのコーヒーサーバーが置いてあると、どうなるか?
他の情報と文脈が全く違うので、店員が何かに使う、客向けでは無い秘密の道具のような「自分にとって意味を持たない置物」に見える。だから、テプラを貼られてしまう。
あのテプラはセブンイレブンの他の情報発信物と同じ文脈にするデザイン効果があり、テプラのおかげでようやく「セブンイレブンのセルフのコーヒーサーバー」としての機能を持つに至る。
 
 
では『バードマン』ポスターに戻る。
私はまだ本作を見れていないので、監督の作風や予告編などからしか伺い知れないが、予想出来る範囲で考えてみる。
「バードマン」という字面には、何かヒーローものめいた響きがある。しかし、本作は主人公が謎のヒーローに変身し、危機を救ってみせるような映画では無いだろう。しかし、どこか浮世離れした人の、フィクショナルに突拍子もない様子が描かれているように思うのは、主人公であろうマイケル・キートンがふわりと浮かんでいる様子からうかがえる。また、1枚の写真にビルボードとして自然に多くの出演者があしらわれているのは、本作が(擬似的に)ワンカットで構成されていることの現れとして見れる。遠くにシルエットで見えるのは、おそらくタイトルの「バードマン」であろう。

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映画のポスターとはどうあるべきか、というと「映画本編の魅力を漠然と伝えながら、じっと見続けていたくなるカッコいいもの」だと言える。
邦画、周防監督の『舞妓はレディ』公開の際に作られた2種類のポスターを見れば、何を言っているのか解るはずだ。

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「カッコいいな? これなんだろうな?」と思えるのはシンプルでカッコいい方だろう。逆に「なーんだ、いつものつまんない人情ものだな!」と興を削ぐのはやたらと写真を積み上げている方のハズだ。
『バードマン』カラー版のポスターは『舞妓はレディ』で言うと「写真積み上げ版」に近く、情報量は多いが底が知れてしまうタイプのデザインで、モノクロ版が「シンプルでカッコいい方」と言えるだろう。
 
続きは興が乗ったら……
 
 
 
 
 
 

 

ハッピー&ジョイ ~Joe Talk 3~

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慣れない言葉への弱さと常套句について。

今の今になってもまだ「映画『セブン』はハッピーエンド」説(http://k-onodera.net/?p=194について、「映っているものをどう解釈するのかは自由」「意義のある考え方」「こういう意見があっても良い」などなど。常套句を駆使した好意的な意見を見かける。いや、あのね。
あれ、完璧完全徹底的かつダイナミックに間違えてますから。納豆を指さして「彼は重さです! ハイ! サマンサ!」と言ってるのと同じくらいシッチャカメッチャカに間違えてますから。
 

ミルズは人間の善性を信じている。そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。
ジョン・ドウは、人間を野獣のようなものだと思っている。だからそれを滅ぼそうとするし、同じ欲望を備えた自分をすら殺そうとする。
ここで『セブン』という作品は、本当の姿を現すことになる。
『セブン』は、何故神学的なモチーフを扱っているのか。それは、おどろおどろしい猟奇殺人の恐怖を盛り上げるためだけではない。
この作品のテーマは、「人間は獣である」という哲学と、「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。

 

もうこれだけで突っ込みどころのデパートになってるんだけど、そもそも「神学」(キリスト教神学)ってどういう学問だか知ってますか?
私はこの「セブン・ハッピー」説を読んですぐに調べたけど、みなさん調べましたか?
 
「セブン・ハッピー」説を好意的に受け止めたのは、「神学」と言われた時点で、考えたり検証することを止めて「よく知らない「神学」とやらを踏まえると『セブン』は受けた印象とは違い、ハッピーエンドになる深い物語なのだろう。しかし「神学」が何なのかくわしく知らないのは恥ずかしいから、しったかぶっておく。たぶん神さまはいるか? とかそういうはなしであろー」と、考えた人だ。
ほんの少しでも調べれば、少しでも自分の印象を信じていれば、一度でも見返す努力(努力ってほどの努力も必要ないけど)を怠らなければ「人間は100グラムを時速50円で見る」と同じくらい意味の無い説を受け入れるハズは無かったのに。
 
しかし、多くの人が調べなかった。だから自分の印象とは大きく違う解釈でありながら、一定以上の人々が「意義がある」といった耳ざわりの良い常套句を駆使して、受け入れてしまった。こうなると、いかに論理的な反証があろうと「それは解るけど、こういう意見だってあっていい」と常套句を唱え出してしまう。
人は自分自身の決定を否定したくない。だから意地になって肯定してしまう。しかしよく解っていない。だから常套句を連呼する他なくなってしまう。みんなが使っている常套句なら正しい。だから私は正しい。そう、結論付けてしまう。用を足して、ウォシュレットを使ってからズボンとパンツを脱ぐくらい間違っているのに。
 
「解釈は自由」「意義のある意見」「考慮すべき考え」etc……
これら常套句には「よく知らない言葉に対する畏怖」がある。
 
戦後レジームからの脱却」の文字列は、なんとなく良く練られた計画や考え方のように見えるかもしれない。しかし、実際には「戦後に日本が築いたアジア各国との関係や信用を積極的に裏切って壊していく」という意味だ。そう言われたら「ちょっとまて!」となるだろう。
 
言葉は記号で、それ自体には実態が無い。たとえば「リンゴ」と書かれた文字を食べることは出来ない。ただ、「リンゴ」という文字列が指す物は食べることが出来る。「リンゴはおいしい」と言った場合、実際に食べられる果実の「リンゴ」を食べると「おいしい」と感じることを表している。あたりまえ~♪
 
「映画『セブン』ラストは神学的な勝利を描いている」と言った場合、それが何を指しているのか理解しないままでは何の判断も出来ない判断出来ないままで何か評価めいたことや文字列の存在意義を語っても意味は無い。
「リンゴよりズンドコベロンチョの方がおいしい」と聞いて、「ズンドコベロンチョ」が何なのか調べもしないで「その意見には意義がある」と言ってる人は滑稽だろう。
ズンドコベロンチョ」なら「大方の人が知らないハズだ」と、人に聞いたり、端から「そんな物は無い!」と言えるだろう。『セブン』の件でも「映画『セブン』ラストはズンドコベロンチョ的な勝利を描いている」と書いてあれば、多くの人が無視をするか「ズンドコベロンチョ的」が何を指すのか調べたハズだ。
 
しかし……
 
「イノベーターたりえんと新規コンテンツ・ビジネスのアライアンスにインベストしたけどラガードのキャズムに思ったシナジーは得られなくて。パテントはエクスクルーシブにガバナンスが効くんだけどUDになってなくてCSは担保できないんだよね。」
 
こう言われた時は「ズンドコベロンチョ」と違い、「……それは意義のある考え方だね!」と言ってしまうんじゃないだろうか? 「神学的勝利」と聞かされた時と同じように。
 
横文字や専門用語、哲学用語や論理学用語など衒学的な表現はロマンチックだ。そんな言葉を使うと自分がとてもエラくて特別な人間のように思え他人を見下して征服したような錯覚を感じる。
 
そして、聞かされた方も見下されるのを恐れるあまり、つい「解釈は自由」「意義のある意見」「考慮すべき考え」といった常套句を連呼して肯定してしまう。理解してないのに。
 
まずは相手が何を言っているのか理解する。不明点を無くす。
横文字や画数の多い漢字を多様した文章には眉につばして読む。
この2点を念頭に、もう一度セブン・ハッピー説や、多くの似非シネフィルの文章を読んでみてはどうだろうか?
おそらく「コイツなんにも言ってねー!」という結論にたどりつくのではないだろうか?

求めすぎてる? 僕。 ~Joe Talk 2~

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ふたたび常套句について。
 
小学生の頃。友人らとバスに乗って駅前まで遊びに行った時の話。最後部の長椅子の端に普通のオバサンが座っていた。身なりや態度も別にとりたてて特別なワケでなく、最大公約数的な少し太めな「オバサン」。その横に我々がガヤガヤと座った。そのオバサンの隣には友人の青木くん:アオちゃんが座った。移動中もとりたててトラブルめいたことも無かった。駅前に到着してバスから降りるとアオちゃんが「あのババア、安っぽい香水の匂いをプンプンさせやがって!」と声を荒げた。
温厚なアオちゃんが声を荒げたことと、香水の匂いで価格を嗅ぎ分けたことに感心し、強く記憶している。アオちゃんは、熱狂的なジャイアンツ:長島ファンで少年野球チームのコーチも務める父親の元で白球を追っていた、最大公約数的な「小学生」だ。むろん、そんな小学生が香水を嗅ぎ分けるワケも無く、おそらくお父さんが吐いた愚痴をマネしたのだろう。
 
私は香水の匂いが好きだ。
 
映画館でキャバクラの同伴と思わしき派手めな女性がいると、ついクンクンと鼻をならしてしまう。また、太り気味のおばさんの甘い脂のような体臭とまざった香水の香りも好きだ。女性に限らず、相撲取り特優のびんつけ油の匂いも好きだし、新宿の呼び込みホストがつけている獣じみた強い香りも好きだし、六本木にうろつく身ぎれいな黒人男性がつけているバニラ味の焼き菓子みたいな香りも好きだ。
なので、「香水がくせえ!」という言葉にまるで共感できない。
好きな匂いと嫌いな臭いがあるのは理解できるが、特に男が言う「香水がくせえ!」には小学生のアオちゃんめいた、聞きかじった常套句のように思ってしまう。
なんとなくの偏見なのだが、「香水がくせえ!」という男はスッピンとナチュラル・メイクの差も解っていなさそうだし、香水と石鹸やシャンプーの匂いも嗅ぎ分けてはいなさそうなイメージがある。
 
 
これと似た思いは「電車の中で化粧をしている女が見苦しい」と揶揄する常套句にも抱く。私にはその状況を揶揄できないし、揶揄する意味が全く理解できない。
 
例えば私が会社に行く朝は7:45に起きて、15分は何をするでもなくテレビをつけて目が覚めるのを待っているだけ。8:00を回ると服を着始め、催せばトイレを済ませ、ボーっとしていると、そろそろ出ないと遅刻をするからと8:20頃に家を出る。顔も洗わないしヒゲを剃る習慣も根付かず、寝ぐせもつき放題。これで穴の開いた服でも着ようものなら、見た目から垢じみた臭いが漂いそうな体たらくだ。たまに着ているけど。
女性はそうはいかない。お化粧をして、髪をまとめ、常に身ぎれいにしている。夏は日焼け止め、冬は保湿と、肌の調子も考えているようだ。当然その準備のための時間も必要だ。私のように出掛ける直前に起きて、昨日脱いだままの服を着て出掛けるのとはワケが違う。女性たちは、準備の分早く起きているワケだ。
 
私の職場だと仕事に男女の差は無い。しかし、来客時にお茶を出すのは、少し前まで女性社員の役割として分担されていた(もう止めさせたけど)。他にも、やらなくてはいけない仕事の絶対量が多い女性に、朝出かける前に、さらに身ぎれいにしておく時間の分早く起きろとは言えない。
 
そして、これもまた個人の好みの話だが、私は化粧をしている女性を見るのが好きだ。手品のタネを明かしているようなワクワク感があるし、出来あがった顔を「ハイ!完成!」とばかりにコンパクトをくるくる動かして確認する様子も心地よい。完成したばかりの顔は、戦場に赴くインディアンのウォーペイント同様に見ているこちらをも鼓舞してくる。
「準備をしている様子を人様に見せるんじゃない!」というのが、電車の中で化粧をする女性への揶揄の理由であろう。しかし、言っている当人は、例えば男なら及川ミッチーのように美しいのだろうか?
 
 
と、ここまで書いて気付いたのだが、電車で化粧をする女性たちは電車内にミッチー級の身ぎれいな男が確実にいないと判断しているのではないだろうか?
もしくは、電車内の中途半端な男どもに対し「オマエらはミッチー級では無い」というメッセージを発しているのではないだろうか?
 
もしも、翌日及川ミッチーと打ち合わせがあると女性に知らせた場合、朝早くに起き、完璧な身支度を整えてから家を出てくるのではないだろうか?
携帯用の小さなコンパクトでは無く、家の三面鏡なり姿見で、化粧の完成具合や全身のコーディネート、漂わせる香りなど、完璧な状態で仕上げ、直前にはパウダールームで最終確認をして、それから打ち合わせに臨むのではないだろうか?
電車内で化粧をする女性たちにとって、それを見ている私のようなだらしのない男どもなど、石ころ同然に気にならない存在だという証左であろう。自分自身のねぐせ頭やハンパに伸びたヒゲを自戒しつつ、女性たちの気合の入ったウォーペイントに見惚れる他ない。
 
 
ついでになるが、もしも「電車で化粧をしている女なんてのはブスばかりだ!」と言う人がいるのなら、自分の写真を、そのメッセージと共にウェブ上にアップするといい。もしもミッチーのように美しければ、世界中の電車から化粧をする女性はいなくなるかもしれない。
 
まぁ、笑いのネタになるのがせいぜいだろう。
 
 

 

本当は怖い江戸しぐさ

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「傘かしげ」「こぶし腰うかせ」など、江戸の街で暮らす人々が互いを思いやるしぐさ「江戸しぐさ」が、道徳の授業に取り入れられるそうだ。しかし、非常に恣意的な取捨により、紹介されていない“しぐさ”も多い。それらも他のしぐさ同様に現在の社会生活へ取り入れられるべきだと考える。
これから、道徳の授業から切り捨てられている、重要な「江戸しぐさ」を紹介する。
 
●冷死す人 (れいしすと)
「えた」「ひにん」らにいわれのない罵詈雑言を浴びせた者や、隔離政策を進めようと言う学者は、粘度が出るまで煮た油を全身に塗られ、その上から鶏の羽を付けた。その状態で猿ぐつわを噛ませ、鹿やイノシシの猟場に放置した。獣に間違われて矢を射られたり罠にはまったり、また野生の熊に襲われるなど、生還できた者はいないとされる。
 
 
●簀非璃豚 (すぴりぶた)
四谷怪談や番町皿屋敷など、幽霊譚は江戸の町でも娯楽として語り継がれていた。しかし、先祖の霊や守護霊を持ち出して脅し、不安につけこみ法外な金銭を要求した者は、藁で簀巻きにして浅草から隅田川へ流した。その際、河口まで生きていられることを彼ら自身の守護霊に誓わせ存在を実証させた。しかし、そういった者の多くはよく肥えていたため、両国までもたなかった。
 
 
●輪荼毘 (わだび)
奉公の小僧や手代を、劣悪な環境下で長時間重労働させた番頭は、火の見やぐらの上に軟禁され、半紙100枚に書けるかぎり小さな字でなるべく多く「ありがとう」と書かされる。しぐさをさせられる者は1日24時間3交代で監視される。その際、監視者が「ここから飛び降りろ」と怒鳴りつけ続ける。それが「輪荼毘」の「有難い蒐集」である。
 
 
●傲慢釜市中 (ごーまんかましちゅう)
郷土への過剰な愛を他人に強要する者は、剃毛した上で全裸で磔され、江戸市中を10日間以上かけてくまなく引きまわして局部をさらされた。このしぐさをさせられる者の多くが、なぜか極端に小さな陰茎の持ち主だったことから別名「御坊釜」(おぼうかま)がなまった「おぼうちゃま」と呼ばれた。また、しぐさ途中に同じしぐさをする者とすれちがった場合、その尻と尻を合わせ、互いの陰茎を握り合わせた。その光景は「友だ珍交」と呼ばれ、多くの子供がマネをしたことで問題になった。
 
 
●百田と慎太 (ひゃくでんとちんた)
「戦国時代は良かった」「若者は一度は戦(いくさ)に出るべきだ」など、自分自身ですら体験したことの無い戦国時代や戦へのあこがれを語る者は、「関ヶ原軍団」と呼ばれた暴力集団による矢の一斉射撃や花火火薬を使った爆撃にさらされた。生き残った者は遊郭の下働きとして引き取られる。彼らは「百田と慎太」の恐怖で常に蒼ざめていたことから「屋敷低人の従藍」(やしきてかじんのじゅうあい)と呼ばれた。
 
これら「江戸しぐさ」は道徳の授業に使われるという「江戸しぐさ」と全く同様の信ぴょう性と歴史を持った由緒正しいものだ。是非これらも同等に授業で使用されることを願う。
 
また、上記した江戸しぐさについては空飛ぶスパゲティモンスター教の精神的な協力によって発見できたことを特別に記しておく。
 
ラーメン

 

Joe Talk

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世に蔓延る常套句について。
新作『スター・ウォーズ フォースの覚醒』の公開が迫り、ティーザー予告も公開され、制作についての裏話も少しづつメディアに報じられだした。中でも「クリエイティブ・コンサルタント」のジョージ・ルーカスのストーリー案がJ・J・エイブラムスに却下されたニュースは多くの賛同をもって迎えられている。
 
監督業からはほぼ引退していたルーカスが再びメガホンを取ったSWプリクウェルシリーズ三部作は多くのSWファンさえも落胆させたし、インディ・ジョーンズもルーカスの選んだ脚本で作られた最新作は酷いものだった。それらのことが今回の「ルーカス案却下」賛同の要因であろう。
 
しかし、ルーカスの残したSWオリジナル三部作や『THX1138』『アメリカン・グラフィティは単にヒット作というだけでなく、映画史に残るエポック・メイキングな作品だ。
対してJ・J・エイブラムスのフィルモグラフィといえば、トム・クルーズの『ミッション:インポッシブルやSWに双肩する人気を誇る『スタートレック』のリブートなど、最初から立派な看板ありきのスタジオ主導のシリーズだ。唯一のオリジナル作『スーパー8』もエンドクレジットのオマケ8ミリ映画ほどは本編に興奮できなかった。どれをとってもルーカスの残した傑作を越える映画など1本も無い
 
J・J・エイブラムスは、複雑で大きなプロジェクトの現場をそつなく回せる「優れた進行管理係」として重宝されているだけだろう。誰も思いつかなかった表現を編み出すとか、今まで映画では描かれたことの無い情景を見せてやろうという心意気は無く、期間内にあらかじめ想定した様式で仕事を終わらせるだけ。そんな「最近ヒット作に関わってイキっている進行管理係」風情がルーカスの案を却下したことに、賛同の声が出ること自体、(たとえ近年の業績が振るわなかったとしても)理解に苦しむ。
 
また、プリクウェル三部作でことあるごとに取り沙汰されるジャージャービンクス/グンガン族だが、ルーカスが彼らに込めたオマージュの一つも知らない輩がピーピーと下した腹のようなことをぬかすのも腹立たしい。
別にプリクウェル3作が傑作だとは言っていない。ジャージャーはあれはあれで見慣れてくれば可愛い奴だが嫌われているのも解る。ただ、評判の悪いプリクウェルシリーズやジャージャーなら無条件で貶して良い! と記号的にその名前を出し、何か気の効いたジョークでも飛ばしたとばかりに鼻の穴おっぴろげているブレイン・レスな輩にはあきれ果てる他ない。
 
 
インド映画に対する「3時間以上あって長い」だの「唐突に始まるミュージカルがバカバカしい」だのという常套句も同じだ。
実際にはインド映画には「3時間以上ある作品」と、「そこまで長くない作品」が当たり前のようにあり、その割合は圧倒的に「3時間以下」の方が多い。近年では2時間弱が主流になっている。
加えて、「インド映画といえば」といった話題で必ず取りあげられる古典的名作、サタジット・レイのオプー三部作からして『大地のうた』(2時間5分)、『大河のうた』(1時間42分)、『大樹のうた』(1時間38分)と、どれも3時間以下どころか、2本については2時間を切ってさえいる。
たとえば黒澤明の映画を考えてみればいい。「世界の黒澤」と言われるほどの巨匠で、日本を代表する映画監督と言ってさしつかえ無いだろう。その黒澤の『七人の侍』(3時間27分)、『赤ひげ』(3時間5分)、『影武者』(2時間59分)を取り上げて「日本映画は長い!」と言う奴がいたとすれば真のマヌケだ。
 
「唐突に始まるミュージカル」となると、もはや意味すらわからない。はたして「徐々に始まるミュージカル」があるのだろうか? 一人づつ少しづつ唄い始めるミュージカルはあるかもしれないが、唄い出した時点で「唐突」だろう。もしくは歌い出す直前に「さぁ!これからミュージカル・ナンバーを披露します!」とアナウンスするミュージカル映画は興ざめもいいところだ。広い世の中、そんなミュージカル映画もあるのかもしれない。しかし、それがいつからメインストリームになったのか、私は寡黙にして知らない。
 
 
常套句はたいがい、門外漢がよく知らない世界のことを語っているだけだ。よく知らないから他の言葉で言い表せず、繰り返して同じ言葉が人々の口を転々と伝っていく。だから「常套句」なのだろう。
 
映画を趣味以上の範囲で見ている人の多くはJ・J・エイブラムスがルーカスを越える名監督だなんて、少なくとも今のところは思っていないだろう。インド映画をよく見ている人は「インド映画は3時間以上あって、唐突に始まるミュージカルがバカバカしい」と言ってる人が、1本もインド映画を見ていないだろうし、ミュージカル映画さえ大して見ていないと知っている。
 
「人」という字は、右側の「人」が左側の「人」を支えているから「人」たりえる。決して互いに支え合っているワケではない事は、見れば解る。世の中で流通する常套句は、だいたいそんな程度なんじゃないだろうか?
 
少なくとも、常套句は疑ってかかるべきであろう。