映画上映前のマナーCMについて。

 

blog.goo.ne.jp

TOHOシネマ系列で映画上映前に流れるマナーCMでは効果が疑わしいから、ドラマ仕立てにして、おしゃべりや座席を蹴ると“被害者”が出てくるというアピールをしたらどうか? というエントリー。
 
結論から言ってしまうと、ドラマも現状のCMも効果は変わらないだろう。
TOHOのニコチャン大王っぽいキャラクターがイスを蹴ったり、おしゃべりしたり、携帯を点けたりというマナー違反をして「ノー!ノイズ! ノー!キッキーン!」というあれは、正にドラマを圧縮記号化したものだ。
ニコチャン大王が蹴られてたたらを踏もうが、子供が暗い面持ちで沈んでいようが、記号としての意味は同じだし、現状の告知を見ても尚蹴るし喋る人にとって、告知の手法が変わろうと通じないものは通じない。
 
当該エントリーで指摘している「イスを蹴るのは「蹴る」という漢字が読めていないハズの小学生が多いから伝わらない。」という指摘だが、そもそも、「蹴る」はマンガでも出てくる率は高そうだし、読めない子供はマンガも読めないくらいの子供、ということになる。「蹴る」が読めないほどの子供なら隣に保護者がいるハズ。
それでも蹴られたのなら「ノー!キッキーン!」は「蹴る」が読める保護者の大人にも伝わっていないということだ。
小学生だけが来場して後ろでイスを蹴ってきたら「蹴るな!」とドヤしつければイイこと。何もいちいち東宝の劇場に「あのマナー広告では小学生に伝わらない!」というのはまわりくどすぎるし、上映中蹴られっぱなしなのもいただけない。
 
私の経験上だと、実際イスを蹴ったり携帯を見るのは小学生以上、中高生~大学生くらいの似非Bボーイなギャングスタ気取りとか、キチガイじみた奴が多い。ドラマで悲しそうな子供を見せて変わるくらいなら、世の中は善意で溢れかえっているハズだ。
 
メジャー邦画を見に行くと、高確率でマナー違反に出くわすが、そもそもメジャー邦画はめったに見ない。新宿のシネコンは土日避けている。行ったとしても座る場所は前寄り、ブロックが別れていれば外側を選んでいる。これでかなり被害は防げていると思う。
前寄りなら観客の多くは死角になる後ろにいるということになるので携帯を点灯させても見えない。うるさい奴というのは、えてして劇場の真ん中あたりを選ぶから外側なら遠い。
最近出来たシネコンは傾斜が強めで背もたれは高く作られているから、すぐ前の座席でも手元は見えないし、最前列で無い限りスクリーンが見えずらいということもあまり無い
むしろ、前寄りはスクリーンがより大きく見えて迫力があるからオススメすら出来る。
 
もっと「そもそも」遡れば。
自分以外の人間が自分の思った通りに行動するハズが無いので、期待はしていない。人間がいれば大なり小なりうっとおしいものだし、それが赤の他人なら尚更。人に何かを訴えて変えようと思うより、自分で避けた方が早い。
1800円払って、そんなうざったい経験しか出来ないと言う人もいると思うが、割引制度を活用すれば安くて1000円から、高くても1500円で見られる。
 
発券後に座席は変えられないとアナウンスされるが、私は結構移動する。だって、臭い奴とか脇腹を肘でつついてくる奴にイチイチつっかかってたら映画が楽しめないし、そういう客が隣に来るのは予測できない。
上映前に臭い奴が隣に来たとか、空いているのにピッチリ横の席とる奴がいるのが解ってれば、係の人を呼んで事情を説明して、移動する。上映が始まっていれば勝手に移る。
全く盲で座席を選ばせておいて「移動するな」という方が不条理だ。劇場だって上映中にトラブルが発生するくらいなら、事前に避けてもらった方が「発券後の移動不可」の意味不明なルールを守り通すよりイイだろう。
 
私の場合。
隣のおしゃべりが煩ければ「黙ってください」と言うし、それも普通のトーンでずーっと喋っている奴とか、よっぽどの時のみ。
携帯を見ている奴がいたら。座席が空いていれば自分が席を移動する。空いていなくて隣なら手で光が視界に入らないよう遮る(隣だと画面自体を覆う形になるが)。遠くでコッソリ見てるなら大して気にならないし、丁度視覚に入って、よっぽどうっとおしければチラシを丸めて投げつける。
マナー違反の注意喚起をしたところで、する奴はする。する奴は何を言っても絶対にするし、何をどう工夫してもする。だから、自分で解決するか避けるかしかない。
 
ただ、マナー広告が全くムダかと言えば、そんなことは無い。「ノー!セルフォン!」で「あ、スマホ切ってなかった……」と気付くこともある。
つまりは、マナー広告とはマナーの存在を知っている人にリマインドする意味しか無い。
 
雑感。
この話もそうなんだけど、世の中はあまりにシステムに依存し過ぎな気がする。マナー違反をする人がいるからと、自分でどうにかする以外の手立てから先に考えるというのは、まわりくどい。なんでその場で注意しないのか理解できない。
 
例えば、車の飲酒運転やスピードオーバーは法律違反だが、する奴はする。法的に裁かれるのは違反者だが、轢かれて痛いのはコッチだ。なので車には常に注意をするべきだし、私はそうしている。
同様に、車が全然いない閑散とした交差点の信号を守っても意味は無い。信号は目安でしかない。ケース・バイ・ケース/臨機応変/主体的に対応をしなければバカを見るのはコッチだ。
結局、自分を守るのは自分でしかない。人に任せればラクだけど自分の思い通りには絶対にならない。

【映画アプリWATCHA】で遊んでみた!

最近は月に1回、アリバイのように見た映画のことを書いているだけなのだが、アバウト10年以上は経っている「ゾンビ、カンフー、ロックンロール」の侍功夫です。

これだけ長いこと映画のことばっかり書いていると「試写見てね」とか、「こんなのどうですか?」みたいな話もいただくこともあったり。スマホの映画レビューアプリ「WATCHA」を紹介してくださいよ~ と、依頼があったワケです。
↓これ。ダータ。タダです。

https://goo.gl/AOCV3H

f:id:samurai_kung_fu:20151018103622j:plainf:id:samurai_kung_fu:20151018103624j:plain


ダウンロードしていきなり「映画」「ドラマ」「アニメ」の各ジャンルから何本か星取りしないといけない、というハードルが登場。映画はそこそこ見ているのでまぁ100本程度さらさらっと星取ってやったのだが、ドラマやアニメとなるとほとんど見ていない。洋ドラマとガンダム関連でようやくクリアして自分のホーム画面に到着。
 
各ジャンルのアクセス数が解る「ランキング」では、今だと映画は『キングスマン』が高いのね。とか、ドラマだと『相棒』佐藤可士和を襲うよう訓練された犬を飼うポイズン反町の注目度があるんだねー。とか、アニメのトップ10全部しらね~、とか楽しめるワケです。
 
「おすすめ」では、最初に星取りをして高得点を記した作品の関連作品や同傾向の映画を「こんなのどうですか?」と教えてくれる。しかし「『ジョーズ』好きなら」と『パイレーツ・オブ・リビアン』を勧めてきたり「『セッション』好きなら」と『カウボーイvsエイリアン』を勧めてきたり、イマイチ選定方法は解らない。
 
メインの作品評の欄は、作品名の下に出演者、監督以外にプロデューサーや脚本、撮影監督、衣装、音楽、字幕担当まで! かなり細かく区分されていて唸ったんだが、まだ映画の登録数が少ないのか、登録はされているけどリンクが間に合っていないのか。例えば「ヘザー・グラハム」の出演作はたった5本しか登録されていないけど、リストの外に『キリング・ミー・ソフトリー』はあって、出演者情報がカラのまま。
とか、『テッド』は『テッド』と『テッド アンレイテッド・バージョン』『テッド 大人になるまで待てないバージョン』の3種類が登録されていたり、精査が全くされていない感じ。
 
ただ、そんな中でも、このアプリの白眉と言えるのが虫メガネマークの「検索」だろう。
検索に行くと、「受賞作一覧」という項目があって世界4大映画祭、アカデミー賞の作品賞。カンヌのパルムドール。ベルリンの金熊賞ベネツィア金獅子賞の受賞作品がリストされている。
ドラマだとゴールデン・グローブエミー賞、日本のギャラクシー賞、韓国のソウル・ドラマ・アワードがリストされている。
アニメは東京国際アニメフェア東京アニメアワードの2つだけなのだが、これは門外漢なので網羅されているのかどうかは知らない。アニー賞ってあるよね?

あとは参加者がテーマに沿った「まとめ記事」を作製できるようになっていたり、クイズがあったり、楽しいコンテンツがある。

のだが!
 
このアプリ最大の難点はホームに一発で戻れないところ。
たとえば「ブギーナイツ」→ヘザー・グラハム→「キリング・ミー・ソフトリー」→『テッド』とリンクをたどってサーフしていって、「ちょっくらホームに戻るか……」と思ったら
と順を遡らないといけない。面倒臭くて一度アプリを終了して再度立ち上げても丁寧にさっきの表示のまま。やっぱり一つ一つたどって戻らないといけない。
あと、基本的にスマホ・アプリでスマホ版しか無いから長文をPCで書きたい人には全く不向き。
さらに、何がいけないのか「ヘザー・グラハム」で検索かけると何もヒットしないけど、『ブギーナイツ』の出演者に「ヘザー・グラハム」がいたりと、ピーキーな検索設定。
 
と、紹介はしたけどまだ改善の余地がある「WATCHA」試してみてはいかがでしょうか?

『スターウォーズ フォースの覚醒』初日の憶測

・日本公開が12月18日18:30分なワケ

これは時差の関係で、アメリカ西海岸(ハリウッド)の12月18日0:00が日本時間で12月18日17:00なので、アメリカ本国を差し置いて先に公開するワケに行くか! というディズニー・アメリカ本社の意向でしょう。
とはいえ。90分遅れの上映なので、ハリウッドで0:00から見始めた人でも、まだ映画が終わっていない時間。90分間延々と舌うちや歯ぎしりをするくらいでイイんじゃなかろうか?
 
・初日が1回。続く土日が各3回しか上映が無い。
……のは、「限定パンフが買える権利付きの特別上映」のことであろう。おそらく初日の18:30の上映が、日本での一番最初の上映というのは確定だろうが、以降IMAX3D、デジタル3Dなどの上映が普通にあると思われる。
限定パンフも、通常のパンフレット表紙に日時と時間が刻印される程度のものであろう。いわゆるコレクターズ・アイテム。たぶん、転売クソ野郎が湧いてチケットは高騰するだろうけど、ディズニーに買われちゃった宿命みたいなものだね。
 
・私?
初日初回18:30分を狙う。すでに策もある。教えないけど。

『キングスマン』使用楽曲について

ぼやかしてるけど、『キングスマン』見てから読むとイイと思うよ。

オープニング

『マネー・フォー・ナッシング』ダイア・ストレイツ
MTV時代を皮肉った歌詞で、この曲のMVは四角を組み合わせたCGで、当時としては最新技術だった。80年代的軽薄さの象徴。
 

教会での乱闘シーン

『フリー・バード』レーナード・スキナード
70年代のサザン・ロックを代表する曲。いわゆる、“ああいう教会”に集まるカッペが好きな曲で「俺は何にも止められねえ自由な鳥なのさ」という歌詞。『デビルズ・リジェクツ』ラストでもファイアフライ一家の象徴として使われていた。
 

終盤のスゴイとこ

『威風堂々』
イギリスの保守政党のテーマ曲だったり、「戴冠式頌歌」として歌詞がつけられたりする、イギリス「第二の国歌」として知られる曲。あの場面では「冠を頭に乗せる」皮肉になってる。

 

つれづれ2015 ~晩春~

●映画改悪がマジでブーム

『ホーンズ 容疑者と告白の角』『チャッピー』がゴアシーンカットでの日本公開。ここで、改悪された映画の中から、いくつか例を上げる。

リメイク版『キャリー』はもともとR15だったのをPG12に改悪して2013年11月8日に公開されたが、12月21日よりオリジナル版が公開。
ザ・レイド GOKUDO』はR18からR15へ改悪して2014年11月22日に公開されたが、12月13日よりR18版が公開。
『フィフティ・シェイド・オブ・グレイ』はR18からR15へ改悪して2015年2月13日に公開されたが、わずか12日後の2月25日よりR18版が公開。
近年の改悪映画は、後になってオリジナル版を公開する傾向がある。『チャッピー』もオリジナル版を観たいと思っている人は近年の傾向を鑑みて、少なくとも公開初週の週末に観賞するのは避けた方が良さそうだ。

改悪をする人に聞きたいんだけど、たとえばミケランジェロダビデ像を展示する際におちんちんをノミでキレイに削り取ろうと考えた人がいたとして。ダ・ヴィンチのモナリザを細かく切り分けて展示しようと考えついた人がいたとして。彼らと、映画を改悪して公開した自分の差をどう考えるのだろうか?

むろん私は「同じことしているって自覚は無いの?」と聞きたいのだが。

 

●映画版『寄生獣』について。

映画版での「母性」を強く推したアレンジは悪くない。むしろ良かったと思う。それなりに長い原作を2本の映画にまとめたことで見せ場だらけになった脚本も良い。が、とにかく山崎貴監督に演出力が無い。特に染谷、橋本、深津、大森が揃う場面で、それぞれ演技のトーンが合っていないのは素人目にも明らかだ。歌舞伎とオペラと新劇とブロードウェイがそれぞれ一歩も譲らず張り合ったみたいなすさまじい違和感を覚えた。

そんな中、一番評価できるのは『ターミネーター』パート1での、サラ・コナーとカイル・リースの一夜をトリビュートした場面だろう。あのひと声だけで前後2作全部ひっくるめてヨシとしたい。また、一番輝いていたのも、やはり橋本愛ちゃんであろう。恥ずかしくてゴロゴロ転がりたくなる「里美」の歯の浮く原作台詞が、ちゃんと高校生の身の丈から出た言葉のように受け止められた。

橋本愛ちゃんを愛でる映画としてはたいへん素晴らしいけど、瑕疵も看過できない程度にデカイ。

それはそれとして。終盤、焼却炉での戦いで「ダイオキシン」を「放射性物質に変更したことをとやかく言っている人がいるみたいだけど、あざとさは別として科学的にどうこう言うのは野暮天というもの。CGで修正しろとか言うのも、まさしくダビデのおちんちんを削る行為と同じだ。問題は文化的な価値では無い。作者の創意とは、外野が変更してイイものでは無い。

 

スターウォーズパイセンにカツアゲされる

六本木ヒルズで開催中の「スターウォーズ展」。もちろん見てきた。プロップや実際の衣装も良かったけど、スターウォーズをテーマにした絵画が面白かった。ミレイの「オフィーリア」と同じタッチで描かれた懐妊中のアミダラや、レンブラント風に描かれたモスアイズリー港のグリード殺害現場など、なんとも現代アート的。

もちろん「出口はギフトショップを通った先」(エグジット・スルー・ザ・ギフトショップ)形式で、スターウォーズ手ぬぐいや東京会場限定イウォークのぬいぐるみなどを購入してきた。

5月4日には同じ六本木ヒルズの円形会場「六本木ヒルズアリーナ」で、J-WAVE主催のスターウォーズイベントで、なぜかリップスライムとライムスターのミニライブが開催されてたので見てきた。が、一番盛り上がったのは、そのあとのオーケストラによるスターウォーズ・メドレー。

 

●インドから良作イヤミスがゾロゾロ上陸!

f:id:samurai_kung_fu:20150519162559j:plain

『UGLY』だらしのない前の旦那に娘を預けたら誘拐されて、刑事でもある今の夫が捜査をするのだが、事態はどんどん考えうる限り最低最悪の展開をしていく。

f:id:samurai_kung_fu:20150519162623j:plain

『NH10』都会のシャレオツ・カップルがバケーションで田舎へドライブに行ったら、現地の男たちによるリンチ殺人を目撃してしまい、追われるハメに。どこへ逃げても事情を察したとたん敵になる田舎村民たちが本気で恐ろしい。

 

f:id:samurai_kung_fu:20150519162718j:plain

『Badlapur』いきあたりばったりな2人組の銀行強盗に娘と妻を殺された旦那による15年越しの復讐劇は、疑心暗鬼と嫉妬を催させる超イヤな方法!

と、インドではオリジナル・イヤミス絶好調。「インド映画」というカテゴリーではなく、普通に「イヤミス映画」としてレベル高い。

 

●「Filmarks」が始めたウェブマガジン「FILMAGA」のライターになった

みたい。というのも、未だによくシステムが解っていない。

う~~ん、う~~ん、う~~ん。あまり多くは語らないでおこう。

 

映画ポスター、意味の変遷

前回エントリ「『バードマン』ポスターに見るデザインの意味」(http://samurai-kung-fu.hatenablog.com/entry/2015/03/07/204203)の続き。
 
 
かつて。
ネットが今ほど普及していなかった時代の映画ポスターはこんな感じ。

f:id:samurai_kung_fu:20150310174111j:plain

まず、目につくのはウソばっかりなところ。『ランボー1作目の本編にパトカーはこんなに沢山出てこないし、高層ビルが並ぶ都市部のハイウェイでカーチェイスするシーンなんて無い。実際には知っての通り、保守的な田舎町でベトナム帰りのジョン・ランボーが地元警察に追いたてられるだけの、陰惨で暗い話だ。しかし、ポスターでは派手なアクション巨編のような絵になっている。ダマしてでも客を劇場におびき寄せる。という名物配給会社「東宝東和」独自の宣伝だ。
ここで、オリジナルのアメリカ版を見てみる。

f:id:samurai_kung_fu:20150310174141j:plain

かなりシンプル。デスクトップにドラッグしてアイコン化して見るとよく解るが、人物の顔と腕の肌色と「スタローン」「First Blood」の赤い文字が青暗い背景の中で目立つように設計された、王道ながら優れたデザインと言えるだろう。
当時のスタローン出演作には『フィスト』や『パラダイス・アレイ』など、労働者階級の苦しい日々を描いたドラマ映画もあり、『ランボー』もあくまで「ベトナム帰りで強いトラウマを抱えた兵士」という構造そのものをメインにした映画で、主人公をメインにしたキャラクター映画だとは考えていなかった。そんな中で日本版の、派手なアクションを売りにした宣伝方法に影響を受けてパート2以降の路線が決まったことは有名な話だ。
 
 
さて。当時は、テレビやラジオ、マンガ雑誌などは今よりももっと映画と密接に関わりあっていた。テレビでは毎日映画が放映され、情報番組でも必ず映画特集コーナーが組まれた。『E.T.』の姿を最初にメディアに発表したのは少年マガジンだった記憶がある。それほど各種メディアと映画は密接だった。
また、駅付近の巨大な広告スペースのほとんどは映画の宣伝広告に席巻されていた。特に新宿東口は歌舞伎町にあった10館以上の映画館で上映される作品がズラリと並ぶ壮観な景色になっていた。

f:id:samurai_kung_fu:20150310174217j:plain

日常的に映画イメージに触れ、気になった映画を新聞や「ぴあ」「Tokyo Walker」などのタウン情報誌で調べて、劇場へ向かう。というのが当時の映画観賞スタイルだ。
当時の日本において、映画のポスターは駅構内の壁や劇場が独自に持っている広告スペース(といってもベニヤ板に杭をくくりつけた簡単なものだが)に貼られていた。それらは「どの劇場で上映しているか」を示すものだった。
図版はテレビや雑誌、看板などで露出した映画の総合的なイメージを、B2(もしくはB1)サイズに落とし込んだものになる。「あのテレビ番組で! ラジオで! マンガ雑誌で! 大きな看板で! アタナが気になった映画は、この劇場でやってますよ!」と誘導するのが映画ポスターの役割だった。
そのため、ポスターの上に上映する劇場名や上映のタイムテーブルが書かれた紙がべったりと貼ってあるのも、当時よく見る光景だった。
 
 

時代や人々の意識の移り変わりにより映画ポスターは、サイズを変えないまま役割が変わっていった。役割が変われば当然デザインも変わる。

 
 
例えば今日。年に数本しか映画を見ないような人が「映画でも見ようかな?」と思ったら、まずウェブに繋げる。普段仕事でも使い見なれているヤフーの映画ページへ飛ぶだろう。すると、公開中の映画ポスター画像がサムネールのサイズで並んでいる。気になる映画ポスターをクリックすると、あらすじやスタッフ、キャスト、上映館などの情報が出ている。見る気になったら上映館とタイムテーブルを確認する。チケットのネット予約で座席を押さえたら、あとは上映シネコンに行き、見ようと思っている映画のポスターが掲げられた上映スクリーンに入る。
という流れ。
 
 
パソコンやスマホ画面の、さらにサムネールサイズに縮小されてしまうのを前提としてデザインされるのが近年の映画ポスターだ。以上を踏まえてアップル社i tunesの映画予告サイトを見ると、私が言っていることがよく解るハズだ(前回エントリで佐藤可士和を例に出したのは、デザインはそれ単体で評価されるものでは無く、使われる用途や状況によって変化するものだという意図だったのだが、私が続きを書くのに飽きてしまったので宙ぶらりんになった。あの話、いま思い出して!)。
 
 
これを見れば『舞妓はレディ』写真積み上げポスターがいかに悪いデザインか解るだろう。細かく割り過ぎてサムネールサイズでは誰が出演しているかの判別など出来ない(ついでだが、事務所への気遣いなんてのは主演クラスの人に対してはそれなりにあるかもしれないが、端役出演者への気遣いなんてのは、ポスター図版に影響を与える程は無い。他の邦画ポスターを見ても、こんなにヒドい写真積み上げをしているポスターが無いのは、その証左と言える)。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203659j:plain

また、いきなり劇場へ行ってポスターをまじまじと見つめ、キャッチコピーや出演者を確認してから、ようやくその日に見る映画を決める奴なんかそうそういない。そんなニッチな層に向けてポスターを15分割して、人物のおでこが全員切れて余白の背景がバカみたいに悪目立ちするトリミングで、クドクドと切り貼りしたポスターが「良いデザイン」なワケは無い。「悪いデザイン」の、さらに大吟醸の「ゴールデン最低スーパー最悪デザイン」だとすら言える。
 
つまり。現在の映画ポスターにおいて「良いデザイン」とは、映画内容を象徴的に表している上に、サムネールサイズになっても判別でき、なおかつB2(もしくはB1)サイズでも栄えるデザインのもの、になる。
ココまで言えば、なんでもかんでも「シンプル・イズ・ベスト!」と言っているワケでは無いのは当たり前のように解るだろう。これについては書いても書ききれない愚痴や罵詈雑言があるのだが、今は止めておこう。
 
 
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版ポスターに話を移す。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203741j:plain

カラー版、モノクロ版、それぞれ良い点と悪い点があるが、上記した「サムネールサイズでの印象」は俄然モノクロ版の方に軍配が上がる。しかし、見た目に力があるのはカラー版の方で、それはサイズめいっぱい写真を使っているからという単純な理由だ
その替わりに、各要素は散漫でとっちらかって色数も増えて美しくないし、必要以上に説明的で下品だ。やはりベストはオリジナル版になってしまう。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203758j:plain

これはオリジナル至上主義とか欧米へのあこがれとかでは無い。オリジナルのポスターが、写真を版面めいっぱい使いつつ、余計な情報は極力抑えて、サムネールサイズでも栄えるようにデザインされているからだ。すなわち、現在における映画ポスターの「良いデザイン」を念頭に設計されている。
生き馬の目を抜くようなアメリカの興行産業界では、当然のように優れたデザインでなければ採用されない。
 
じゃあ、なんで日本は…… という詳しいところは、また機会があれば。
 
 
簡単に言うと「本当の意味でのクリエイティブ・プロデューサーの不在と印刷営業のクライアント=神様対応」。これは本当に仕事の愚痴になるから書かないかな?

 

『バードマン』ポスターに見るデザインの意味

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版のポスター図版が変更になった。アカデミー賞作品賞含め4部門での受賞を謳ったコピーが、以前のものより控えめに入っている。最初の「カラー版」の時点で主要9部門へのノミネートが記載されていたから、変更はある程度想定内だったのかもしれない。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203741j:plain

そもそも「カラー版」はどういう意向で作られたのか。これは紙もののデザイン業に携わる人なら痛いほどよく解るハズだ
「とにかく全ての情報を入れろ!」
理解の無いクライアントはよくこういった無理難題を押し付け「これで金もらってんだろ? クライアントの言う通り作るのがオマエの仕事だろ?」と詰め寄る。
 
『バードマン』は普通のカラー映画で、過去に「バードマン」というヒーロー物の主演を務めた男のブロードウェイ舞台出演を描いているそうだ。主演にはマイケル・キートン。他に『ハングオーバーのザック・ガリフィナーキス、『ファイト・クラブエドワード・ノートン、『アメイジング・スパイダー・マン』エマ・ストーン、『ダイアナ』のナオミ・ワッツが出演している。アカデミー賞主要9部門でノミネートされ、その前哨戦と言われるゴールデン・グローブ賞では主演男優賞と脚本賞を受賞している。
それらの情報を全てポスターに反映させると、見事に「カラー版」のポスターになる。
モノクロのベースに、まずは色がつけられる。映画本編に登場する、主人公が過去に演じた「バードマン」が何なのか、大きくコラージュされる。アカデミー賞ノミネートの情報を入れるために車は消され、可読性を保つためにパース感を無視してコピーが挿入される。さらにあらすじまでもスキマに挿入される。
 
そして、このポスターのデザイン作業をしたデザイナーは、それら一つ一つのデザイン構成要素に賛同して作業をしたワケでは無いハズだ。なぜなら、元のアメリカ版のポスターで、すでに「映画ポスター」として完成しているからだ。
 
 
ここで、少し前にウワサになった佐藤可士和がデザインしたセブンイレブンのセルフのコーヒーサーバーの何がいけなかったのかを振り返る。
濃い色のアクリル板にボタンが4つ。「HOT COFFEE」「ICE COFFEE」の文字と、それぞれのサイズ「R」の下に「REGULAR」、「L」の下に「LARGE」。と極限までシンプルになっている。
もしも、このデザインがオフィスのコーヒーサーバーであったなら、出来の良いデザインだと言える。給湯室の脇か、会議室の出入り口付近か。広いスペースの片隅に色数も情報も少なく、何も知らないまま遠目に眺めたら、空気清浄機か、せいぜいウォーターサーバーに見える。景観の邪魔をしないシンプルなデザインだ。
しかし、セブンイレブンではそうはいかない。四方八方を商品で囲まれ、チケット発行機やら銀行ATMまで、とにかく情報に溢れている。その中にポツンと可士和デザインのコーヒーサーバーが置いてあると、どうなるか?
他の情報と文脈が全く違うので、店員が何かに使う、客向けでは無い秘密の道具のような「自分にとって意味を持たない置物」に見える。だから、テプラを貼られてしまう。
あのテプラはセブンイレブンの他の情報発信物と同じ文脈にするデザイン効果があり、テプラのおかげでようやく「セブンイレブンのセルフのコーヒーサーバー」としての機能を持つに至る。
 
 
では『バードマン』ポスターに戻る。
私はまだ本作を見れていないので、監督の作風や予告編などからしか伺い知れないが、予想出来る範囲で考えてみる。
「バードマン」という字面には、何かヒーローものめいた響きがある。しかし、本作は主人公が謎のヒーローに変身し、危機を救ってみせるような映画では無いだろう。しかし、どこか浮世離れした人の、フィクショナルに突拍子もない様子が描かれているように思うのは、主人公であろうマイケル・キートンがふわりと浮かんでいる様子からうかがえる。また、1枚の写真にビルボードとして自然に多くの出演者があしらわれているのは、本作が(擬似的に)ワンカットで構成されていることの現れとして見れる。遠くにシルエットで見えるのは、おそらくタイトルの「バードマン」であろう。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203758j:plain

映画のポスターとはどうあるべきか、というと「映画本編の魅力を漠然と伝えながら、じっと見続けていたくなるカッコいいもの」だと言える。
邦画、周防監督の『舞妓はレディ』公開の際に作られた2種類のポスターを見れば、何を言っているのか解るはずだ。

f:id:samurai_kung_fu:20150307203659j:plain

 
「カッコいいな? これなんだろうな?」と思えるのはシンプルでカッコいい方だろう。逆に「なーんだ、いつものつまんない人情ものだな!」と興を削ぐのはやたらと写真を積み上げている方のハズだ。
『バードマン』カラー版のポスターは『舞妓はレディ』で言うと「写真積み上げ版」に近く、情報量は多いが底が知れてしまうタイプのデザインで、モノクロ版が「シンプルでカッコいい方」と言えるだろう。
 
続きは興が乗ったら……