映画的素養についての話
その古澤監督が脚本とプロデュースを担当し、映画版『ゲゲゲの女房』の鈴木卓爾監督の新作となる『ゾンからのメッセージ』もやはり映画的としか言い様の無い素養に溢れた作品だ。
ロックTシャツとズーランダーとアホ
「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」
少し前の話。メタリカのアルバム「キル・エム・オール」(全員ぶ
そうインタビューに答えたのは、長年トップモデルに君臨し続けた
これは映画『ズーランダー』のワンシーンだが、モデルやファッシ
つまり「アホ」だ。
ベン・スティラーによって作られたステレオ・タイプ的にアホな男
ついには続編『ズーランダーNo.2』が公開(日本ではソフト・
デレク・ズーランダーが象徴しているのは80年代のアッパーでバ
反射的にこんなレスをつけようかと思い浮かんだ。
「トレンチコートを着た人は全員、塹壕(トレンチ)
ガンでした
その次が「5 分 粥(1/2量)」。最後は量が倍になった「5 分 粥(全量)」。
小野寺系は今日も意味が無い 〜『沈黙 -サイレンス-』篇〜
http://realsound.jp/movie/2017/01/post-3876_2.html
遠藤周作は、キリストや神が、真に尊敬するべき存在であるとすれば、そういう者をこそ救ってくれるべきだと考えた。だから絵を踏む瞬間にだけキリストが沈黙を破り、「踏むがいい」と語りかけるのである。 そして、場合によっては、神の存在を声高に叫ぶことなく「沈黙」する行為にこそ、神と人が真につながることができるという結論へと、物語はたどり着く。
そして、タイトルの「沈黙」を信者側の「沈黙」だと思い込んじゃっているwww
相変わらず、ルターや親鸞まで持ち出し、意味が有り気なことは書いているが、その実、まったく意味がない。しかも間違っている。勘違いしている。
小野寺系は今日も意味が無い 〜『カンフー・ヨガ』篇〜
長年の危険な撮影における蓄積した負傷や肉体の酷使によって、ジャッキーは満身創痍の状態にあるという。慢性的な身体の痛み、 加齢。限界を悟ったジャッキーは、ロバート・デ・ ニーロのような演技派への転向を目指しているというが、 やはり観客の多くが期待してしまうのはアクションである。
〜中略〜
そんななか、中国・インド合作映画である本作『カンフー・ヨガ』は、近年のジャッキー作品のなかでも肩の力を抜き、絶妙な軽さの ストーリーとともに見事に娯楽表現を結実させている。おとそ気分 で正月に観るにはもってこいのおおらかさを持った、しかし侮れな い深さもある作品となった。
本作の物語は、アクションシーンの撮影中にジャッキーの頭蓋骨が
陥没するという大事故が起きた『サンダーアーム/龍兄虎弟』を含 めた「アジアの鷹」シリーズを彷彿とさせる、「宝探し映画」だ。
私は数年前、上海など中国のいくつかの都市を見てきたが、どこも好景気に沸いていて、古い建物を壊し、新しい建造物の工事が至る ところで行われているのを目にしている。ひとつ気になったのは、 高級貴金属店やブランド品店など、いかにも金が集まりそうな最先 端の場所では、中国独自の文化ではなく、西洋的な価値観に支配さ れていると感じた点だ。ジャ・ジャンクー監督が『山河ノスタルジ ア』で問題として描いていたように、古来からの文化を伝える「古 い中国」と、西洋的な文化に浸食された「新しい中国」は、かなり の部分で分断されているように思われる。
そんな西洋と東洋の価値観を結び付けるのが、ジャッキー・チェンという存在ではないだろうか。
彼の内にある「カンフー」、そしてその魅力を世界に発信する映画という表現方法のなかで、画面に映えるよう美しく、ユーモアを多 分に含みながら見せるという技術の蓄積は、まさに西洋と東洋との 出会いであり、無形の世界的財産である。 本作は宝を探す映画だが、「本当の宝」として描かれているのは、ジャッキーの技術そのものだったのだ。そしてそれは、ブルース・ リーなどの先人からもたらされたものでもある。その宝はまた、多 くの後進に引き継がれ、後世に伝えられていく…。
★今日の小野寺系
今回は「ジャッキーは西洋と東洋の橋渡しをしている」
小野寺系は今日も意味が無い 〜『バーフバリ 王の凱旋』篇〜
http://realsound.jp/movie/2018
音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、
映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレン ドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」を かたちづくる。
ハイ! 出ました! インド映画における9つのナバラサ! これ、日本だけで流通している「インド映画論」で、日本のインド
驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。
最近は短くなってきているインド映画だが、インターミッションを
「バーフバリ」は、そのインド映画的なサスペンス構造をなぞって
母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの 歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な 「美」であるといえよう。
小野寺は果たしてインド娯楽映画をいかほど観ているのだろうか?
近年のサンジャイ・リーラー・バンサーリー作品や古典的名作『偉
おそらくこれらの作品は観ていないだろう。