ドリフト的横滑り映画『ZERO』

『ZERO』鑑賞。

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「キング・オブ・ボリウッド」シャー・ルク・カーン最新作。本国でも12月21日に公開されたばかりで、日本では日本在住インド人向けの上映会を開催しているスペース・ボックスさんによる、英語字幕の上映。
ちなみに、スペース・ボックスさんは、月に1度ほどのペースでインド本国とほぼ時差無く新作上映をしているので、興味のある方は上映会参加をおすすめ。日本の上映と違い、インターミッションでは休憩が入り、ロビーではサモサや甘いおやつ、チャイなどが販売され、インド人たちの気楽な上映スタイル、鑑賞態度、スター登場の盛り上がりなどが、ややソフィスティケイトされた形で体感できる。
 
さて。シャー・ルク・カーン:SRKの新作は当然のように「メロドラマ」だ。
日本ではお昼の連続ドラマが「メロドラマ」と称されていたことで「叙情的な恋愛モノで、決まり切った常套展開の薄っぺらいドラマ」という印象があるかもしれない。
たいがい、惹かれ合う2人が立場や地位の違いから引き裂かれる。という展開で、その障害を乗り越えてようやく愛が成就しそうになると次の障害がやってくる。というのがパターンだ。
そんな「メロドラマ」はインド映画の非常に大きな潮流の一つでもあり、多くのメロドラマの傑作に出演しているSRKは「メロドラマ」の帝王と言っていいだろう。つまり「キング・オブ・ボリウッド」である。

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そのSRKの新作でメロドラマの『ZERO』だが、いわゆる「決まり切った常套展開」は無い。それどころか『ZERO』に似た作品すら無い。
あらすじは「資産家だが学の無い陽気で軽薄な小人症の男バウアーと、脳性麻痺で運動障害のある宇宙工学博士の女性アーフィヤーの、多難な恋」だ。
この時点で凡百のメロドラマとは一線を画しているのが解るだろう。しかし、一線を画すのはあらすじだけでは無い。
バウアーは星を自在に操れる超能力も持ちつつ、ダンスコンテスト出場を目指しムンバイへ向かう。アーフィヤーはアメリカで宇宙計画に参加しチンパンジーを火星探査に向かわせるプロジェクトを立ち上げている。そこへ、最近イケメン俳優にフラれてヤケになっているバウアー憧れの女優バビータが現れる。
映画はこの3人を中心に、いたって解りやすい表現で語られる。時系列も一直線だ。しかし、印象としては極めてアブストラクトな、例えるなら『スローターハウス5』のような散文詩的なものになっている。
 
まず、本作は西部劇として幕を開ける。
そして、バウアーとアーフィヤーのロマンティックコメディへ移り、中盤になるとバビータの登場と共に大転換をし芸能業界内幕モノ的な展開をしていく。さらに終盤はドリフト的横滑りでジャンルを変えて物語が終わる。
しかし、その芯にあるのはメロドラマである。
観客は2時間45分の本作で、様々なジャンルを横断しながら、惹かれ合う2人がなかなか結ばれない様子を息つく間も与えられずに見守ることを余儀なくされる。
 
なんと豊かな映画であろうか。
私は全編に渡り呆気にとられ続け、そのまま涙を流してエンドロールを眺めるハメになった。

映画的素養についての話

古澤健監督作『青夏 きみに恋した30日』は高校生の一夏の恋愛模様を描いた作品だ。
40代のおっさんは間違いなくマーケティングのメインターゲットの外側に追い出されているのだが、それでも楽しく観れるのはひとえに監督の映画的な素養であろう。

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自然に溢れる田舎町の情景や渓谷の美しさが、儚げに写っているのは『君の名前で僕を呼んで』を彷彿とさせるし、この2本の映画の源泉には『オルエットの方へ』を代表とするジャック・ロジェの避暑地映画があるだろう。
それが意図的であろうと、意図は無かろうと、「避暑地で展開する一夏の若者の感情」をテーマにした時点で、製作者が優れていればいるほどジャック・ロジェ的な、花火のような儚さを孕んでしまう。
 

その古澤監督が脚本とプロデュースを担当し、映画版『ゲゲゲの女房』の鈴木卓爾監督の新作となる『ゾンからのメッセージ』もやはり映画的としか言い様の無い素養に溢れた作品だ。

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どうやら二十年ほど前に謎の空間「ゾン」に囲われ、孤立した町に住む人々の群像劇である。
謎の空間「ゾン」はタルコフスキーの『ストーカー』における「入ったら生きては帰れない空間“ゾーン”」のことであろう。その「ゾン」の境目は、フィルムに傷をつけたり直接着色するなどした「シネカリグラフィ」やテレビノイズなどで現されており、それらは前衛映画とか実験映画と言われるスタン・ブラッケージ監督作を代表とした作品群で重用される手法である。
また『ゾンからのメッセージ』世界で描かれる情景は「写すこと」「創作的な虚構性」にまつわる境界や対話、一方的な意思疎通などで、それらはどうしても「映画」にまつわるものである。
 
「コワすぎ!」シリーズや『貞子vs伽倻子』の白石晃士監督の新作『恋のクレイジーロード』は低予算の短編である。

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田舎の一本道をひた走る路線バスが狂気の女装男によりジャックされる。乗り合わせたのはネトウヨ男、裏切り女、田舎のヤンキーに謎のゴスカップル。トラブルにトラブルをぶつけて状況的にも感情的にもしっちゃかめっちゃかなカオスになるのが楽しい白石監督らしい作品だ。
「狂人によるバスジャック」と言えば中島貞夫監督の『狂った野獣』や、イーストウッドの代表作『ダーティハリー』が思い起こされる。また、ラスト近くで美しい夕日を背景に血まみれのスコップを振る女装男はそのアングルも含め『悪魔のいけにえ』を連想させる。
 
さて。現在、低予算ながら単館系劇場でヒットを飛ばし、その面白さにウワサがウワサを呼び、ついには全国のシネコンで拡大公開が決まった映画がある。『カメラを止めるな!』である。
もしも、まだ未見なら私が書く文章などはソッと閉じて、今すぐ劇場へ向かうのをオススメする。
なので、以降はすでに『カメラを止めるな!』を鑑賞した人のみに読み進めてほしい。
※大事なことなので繰り返しになるが、以降は『カメラを止めるな!』鑑賞済みの方のみ、お読みください。
 

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例えば「映画制作を題材にした映画」で言えばPTAの傑作『ブギーナイツ』や、ティム・バートンの『エドウッド』、ミシェル・ゴンドリー『ボクらの未来へ逆回転』。邦画には『蒲田行進曲』があり、また上記の古澤監督や白石監督共に映画制作を題材にした作品がある。それぞれ各監督の代表作とも呼べる傑作ぞろいだ。
さて、37分ワンカットで展開するゾンビ映画と、その制作裏話という構成の『カメラを止めるな!』も、そんな映画制作を舞台にした作品で、おそらくこの先、上田慎一郎監督の代表作に成り得る完成度を持った作品だ。
 
ただ『カメラを止めるな!』からは上記した古澤監督、鈴木監督、白石監督の作品のような「映画的素養」は、ほとんど感じられない。
 
カメラを止めるな!』劇中、監督の娘「真央」が『スカーフェイス』『タクシードライバー』『シャイニング』のTシャツを着ている。これは彼女が「映画好き」である、という記号的な意味を持っている。しかし「真央」の心象を象徴しているワケでは無い。登場する映画Tシャツが「わかりやすく」映画Tシャツなだけだ。一般的な認識としての「映画が好きな人が着ていそうなTシャツ」として、あくまで「一般的」に理解される範疇なのが『タクシードライバー』であったり『シャイニング』なだけだ。
 
これはシネフィリーの強い映画作家(放っておいても、意識していなくても、過去の作品の影響が「出すんじゃなく出る」作家)にはなかなか出来ない選択かもしれない。
 
「真央」がADとして子役に本気で泣くように詰め寄る場面がある。そのことから彼女がメソッドアクティングを重要視している、ある種「めんどうくさい映画好き」であることが解る。ここで、たとえばシネフィル的なヌーベルバーグ作品などのTシャツ(あるのか知らないけど)を着せて、彼女の趣向を表そうという「映画的素養」はココには無い。
タクシードライバー』は実にシネフィリーの強い映画ではあるが、それよりもビジュアル面のポップさ(ポピュラーさ)が強くあるため、そのポップさを嫌い、素養があればあるほど選択肢には上がらないか、選択するとしても相当の覚悟を持って着せる類のものだ。
よしんば覚悟をして着せたのならば、別のカットで『スカーフェイス』や『シャイニング』は着せない。それぞれ、映画的に、あまりに強い「意味」を持っているため、その「意味」に囚われてしまうからだ。
しかし、上田監督は『タクシードライバー』『スカーフェイス』『シャイニング』から「ポップさ」のみを抽出して着せてみせる。このTシャツをめぐる演出に顕著なように『カメラを止めるな!』全体から「映画的素養」の臭いはしない。
 
本作を最初に観た時に思い起こしたのは(上田監督自身もファンを公言している)三谷幸喜作品に代表される舞台劇を元にした作品だ。
特に三谷の『ラヂオの時間』は『カメラを止めるな!』の直接的な源泉と言ってもイイだろう。また、三谷戯曲の映画で言えば『12人の優しい日本人』や『笑の大学』など。フリを周到に回収していくタイプの舞台劇のような感触である。
それはつまり、ワザワザ映画化しなくても成立する物語構造を持っているということだ。「映画」や「映画的」に固執する必要が無いのだ。
 
では「映画的」とはどういうことなのか?
 
例えば銃声とともに木から鳥の群れが飛び立つカットは、誰かが射殺されたという記号である。特定の人物が登場するたびにハエの羽音が鳴ったら、その人物は死をもたらすか、死ぬ運命を持っているか、いずれにせよ「ハエのたかるような禍々しい死」の記号だ。
音と映像の複合的な意味の積み重ねで映像は「映画的」になりうる。
しかし、たとえば銃声と鳥の群れ、それぞれの関係性が見出せず、その記号を受け取り損なえば、その鑑賞者にとって「飛び立つ鳥」は全く意味の無いカットになるし、ハエの羽音に死を連想しなければ「ハエのたかるような臭い人」という印象になってしまうかもしれない。
映画好きが「優れている」と評価した作品が、多くの人々にとって「面白い」と感じられないのは、この「記号性」の受け取り方の違いが要因の一つであろう。
 
また、そもそも『カメラを止めるな!』劇中作『ワンカット・オブ・ザ・デッド』はホラー専門CSチャンネル立ち上げを記念したテレビ作品で、映画では無い(という私の発想自体が非常に「めんどうくさい映画好き」だという自覚はある)。
映画とは映画館で上映されることを前提として設計がなされた映像作品であり、テレビにはテレビ用の設計があるし、ソフトスルーの作品やスマホ動画もしかり。サイズや鑑賞する環境に応じた設計がされるものである(逆に言えば、それらを考慮しない作品は出来が悪いものだ)。
例えば『ゼロ・グラビティ』はIMAXで観られることを前提とし、観客が宇宙空間に放り出された感覚をより強く味わえるような設計で映像が作られている。
サイレント映画の終焉とトーキー時代の到来を作品背景に持った『アーティスト』は舞台となる1920〜30年代当時の画面の比率(1.33:1)のスタンダードサイズで作られており、その比率にも意味が込められている。
それら製作者の意図的な作為の中に意味が見出せなければ、作品の魅力の一つを見過ごしていると言える。
 
では『カメラを止めるな!』に話を戻す。
 
繰り返しになるが『カメラを止めるな!』からは「映画的素養」が感じられる演出や作為はあまり無い。すべてが解りやすい。奥行きは視界に入る深度しかない。
状況の「複雑」さは懇切丁寧に「複雑」であることが説明される。説明の無いものに意味は無い。ロケーションの高低差は、雰囲気の良い高低差のあるロケ地があったからであり、高さ低さに意味は無い。ゾンビ映画で度々問題になる「走るか歩くか」も本作では問題視されない。
現在、多くの人が年に1本か2本程度しか映画館で映画を観ないと言われている。そういった人々にとって、説明されない複雑さは、すなわち「つまらない」に直結してしまう。ロケーションの高低差に意味を見出し感嘆する人も(それが解りやすく説明されていない限り)多くは無いだろう。ゾンビが走るか歩くかの、ある種、論理学的とも言える違いについてもしかり。
 
しかし、だからと言って本作が優れていないワケでは無い。
カメラを止めるな!』は老若男女、世の東西を問わず受け入れられる野放図なポピュラリティーと揺るぎない強度を持った絶対性の高い作品だ。これは断言できる。その野放図なポピュラリティーと引き換えに、視界に入る以上の深みは潔く手放されている。鑑賞者には解釈の快楽は無い。表面的に起こることが全てである。全てが準備された落とし所にストンと収まる。その収まり具合はテトリスで長い棒が、ミッチリ組まれたブロックの谷間にキッチリ収まり消え去る快感と同様のものだろう。
 
では、優れた映画にとって、作者の「映画的素養」は関係無いのだろうか?
 
その答えはスピルバーグの存在で証明されている。

ロックTシャツとズーランダーとアホ

「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」
少し前の話。メタリカのアルバム「キル・エム・オール」(全員ぶっ殺す!)ジャケットをプリントしたTシャツ着用のイケメンモデルに、そんな見出しが躍るファッション誌へ、様々な声が挙がった。おおむね「音楽聴けよ!」と憤っているロック・ファンか、「何を着ても自由だろwww」と嘲笑する人のどちらか。果たしてこの差はどこから生まれるのだろうか?

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「スティングが好きなんだ。曲は聴いたことないけど。」
そうインタビューに答えたのは、長年トップモデルに君臨し続けたデレク・ズーランダーから「モデル・オブ・ザ・イヤー」の座を奪った、新進気鋭でロハスなモデル「ハンセル」である。
これは映画『ズーランダー』のワンシーンだが、モデルやファッションを取り巻く業界に対して多くの人が持つイメージを鋭く表してもいる。
つまり「アホ」だ。
ベン・スティラーによって作られたステレオ・タイプ的にアホな男性モデルキャラクター「デレク・ズーランダー」を主役にした映画『ズーランダー』は2001年9月28日に公開されるも、911アメリ同時多発テロのわずか17日後という、コメディ映画を公開するには最悪のタイミングであったことから散々な興行成績を記録してしまう。しかし、ソフト・リリースされるや、そのあまりにアホな描写からカルト的な人気を獲得していく。
ついには続編『ズーランダーNo.2』が公開(日本ではソフト・スルー)された。舞台をイタリアのローマに移し、人気絶頂のベネディクト・カンバーバッジまで引っ張り出して、アホの限りを尽くしていく。
デレク・ズーランダーが象徴しているのは80年代のアッパーでバブリーな“時代”そのものだ。コントラストの激しいビビッドな色使い。プラスチックやエナメルなど光りをよく反射する素材。エッジの効いたラインなどなど。過剰で主張の強いデザインを好んで着用している。

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その彼からトップ・モデルの座を奪うハンセルが象徴するのは90年代に再評価されたニューエイジ系のスピリチュアル/ナチュラ志向だ。禅やヨガに傾倒しつつ、エクストリーム・スポーツもこなす彼が好んで着ているのはアース・カラーの落ち着いた色味のポンチョや、ざっくりとした麻のズボンなどである。

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それぞれ紛れも無いアホとして造形されているが着ているファッションは、すなわち人となりを表している。アッパーで楽観的な80年代代表のズーランダー。ボヘミアンな90年代代表のハンセル。それぞれの行動様式や哲学とファッションは紐づいており、見た目と中身に齟齬が無い状態である。
しかし、それら背景に全く無頓着に、文化をファッションとして消費することも可能だ。つまり「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」である。
『ズーランダーNo.2』で初登場し、ズーランダーとハンセルを嘲るデザイナー、ドン・アタリは最新機器を手足のように使いこなし、凄まじいスピード(15分前に起こった出来事を首の抜けたビンテージTシャツにデザインしてしまう程)で手当たり次第に“文化”を食い散らかしていく。
ドン・アタリは現代若者の象徴であり「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」の申し子と言っていいだろう。

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私のツイッターTLに「ウォレット・チェーン」をバカにする人々が現れた。
肉厚なサイフに装飾の施されたクロムハーツなどのチェーンをつける、あの「ウォレット・チェーン」だ。
そもそも、このウォレット・チェーンはバイクで走行中にサイフを落としても取りに戻らなくて済むように、というバイク乗りの機能性から生まれたものだ。その由来から「普段からおサイフをすっごく大事にしている人」などと嘲笑する言葉が並んだ。
反射的にこんなレスをつけようかと思い浮かんだ。
「トレンチコートを着た人は全員、塹壕(トレンチ)に潜む必要があるのか?」
「Pコートを着ているのは全員イギリスの水兵か?」
ジーンズを履く人は右ポケットの小さい方に懐中時計を入れているのか?」
むやみに人にバツの悪い思いをさせてはいけないと思ったのと「もしや?」という思いからツイートは止めた。
 
その時に思ったのは、現在のファッションは「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」の精神から生まれたのではないだろうか? ということ。
たとえばワイシャツの前後が長いのは股の下を通すためで、つまりは下着だったそうだ。だが16〜17世紀ころに「上着の切れ目から下着を見せることが流行った」ために、しだいにアウター化していった。この由来はモロにバギーパンツずりさげ穿きでカルバン・クラインパンツ見せの、マーキー・マーク&ワイルド・バンチ時代のマーク・ウォルバーグである。

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上記したトレンチコート、Pコート、ジーンズ(の右ポケットの小さいやつ)も、元々は実用的/機能面から生まれたもの。冬のカジュアル系アウターのボマージャケットやMA-1はアメリカ空軍のパイロット用に開発されたものだ。
 
また、セディショナリーズ時代にビビアン・ウェストウッドがセックス・ピストルズジョニー・ロットンに着せていたガーゼシャツやボンテージ・パンツは暴力的な精神病患者を縛る拘束衣を模している。
80年代、黒人の歌手といえばアース・ウィンド&ファイヤーやリック・ジェームスなど、キラッキラのスパンコールの衣装で活躍していたものだが、彼らの出で立ちに「なんかダサくね?」とカウンター的にジャージやスニーカーで登場したランDMCが『キング・オブ・ロック』や『ウォーク・ディス・ウェイ』のヒットを飛ばすと、逆にジャージやスニーカーがスポーツウェアからファッション・アイテムになっていった。

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これらのことからも、ファッション史は、そもそもの意味を無視したところから生まれるアイテムに溢れていることが解る。
 
では、やはり「音楽を知らなくたって着ていいじゃん、ロックT」なんだろうか?
と言われると、そこは何か決定的に違うような気がするのである。

ガンでした

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以前「益体の無い話」として痩せた話を書いたが、何のことはない。ガンだった。
発生した場所は大腸のS字結腸という、尻の穴手前最後のカーブあたり。そこにコブシ大の腫瘍が出来ていて、あと少しで通り道を塞いで腸閉塞を起こしかけていた。これが食欲を無くしていた原因だ
その患部が急激に痛みだし、たまらず病院に駆け込み、ガンが見つかったのが2月のアタマ。すぐに入院、手術となった。
 
●寝たきり
手術前。患部がウンコの通り道であることから、手術時の感染症防ぐため腹の中をカラにする必要があり、口からは水分以外は入れられず、栄養分はすべて点滴で供給される生活を1週間ほど強いられた。
キャスター付の棒にぶらさがった点滴を四六時中繋げた生活。棒を持てば動けるとはいえ、もちろん外出は無理。病室からトイレまでの往復が活動範囲だ。必然的にほぼ24時間ベッド上での生活になった。
手術が終わると身体には点滴に、患部の膿を吸い出す直径2cmほどの管が3本、尿道カテーテルが突っ込まれトイレに行く必要も無くなった。身体に繋がった都合5本の管は棒にぶら下がったビニール袋に繋がり、名実共にベッドに縛り付けられた格好だ。
寝たきり中年の誕生である。
 
●飛んだ
手術で大腸を切って繋ぎ合わせたため、医者はキチンと繋がっているかを気にして毎日オナラが出たかを聞いてきた。しかし、手術1週間前から物を食わず、手術後まだ何も食っていない頃。オナラの原料になるものが腹に何も無いのにオナラが生成されるハズも無く。しかし、とうとう強行手段として腹を下す座薬をつっこまれた。
栄養に抗生物質、貧血用の薬を点滴され、痛み止めの薬を2種、加えて下剤座薬を投入された状態。そのチャンポンが効いたのか夜中に脳みそが沸騰したような感覚に襲われ、身体中を掻き毟らずにいられなくなった。堪らず看護士に睡眠薬を強請った。
記憶はココで飛んでしまう。
私はデパート催事場の展示の仕事をしていた。両手に値札をつける結束バンドがからまり「あぁ、鬱陶しい!」と引き千切ろうとした瞬間、
「何してるんですか!」
看護士に呼び止められた私はベッドの横に立ち、身体から伸びた点滴の管を引き千切ろうとしていた。しかも、どこで生成したのかパンツの中にクソを漏らしながら。
斯くして強制的にオムツを履かされ、オムツを履いた寝たきり中年が爆誕である。
 
●病院食
上記した通り、手術前1週間ほど物は食えず。手術後もしばらくは口から水分すら入れさせてもらえなかった。唾も出ず、舌は完全に乾いて、触ると犬の足の裏のような感触がした。
ようやく物が食べられるようになっても、まずは「重湯」から。濃いめの米のとぎ汁を温めたような代物である。重湯のおかずは具無しみそ汁。デザートにくず湯。ホットミルク。それにお茶。全て液体だ。
その期間が終わると「3分粥(1/2量)」。重湯に3割ほどの粥が浮かんだもの。おかずにはグニャグニャに茹でたニンジン。ツブしたかぼちゃ。フニャフニャになったブロッコリー。豆腐など。限りなく液体に近い固形物だ。
その次が「5 分 粥(1/2量)」。最後は量が倍になった「5 分 粥(全量)」。
粥は3分も5分もヤマト糊を溶いたような味気の無いねっとりした汁に形がほとんど無くなるまで茹でられた飯が浮かんだもの。おかずは全て薄味で、ヤマト糊風の粥を食べるには圧倒的にパンチが足りない。
しばらくはマズさに辟易して残していたが、『ワイルド7 緑の墓 編』での 飛葉ちゃんの言葉を思い出し、ヘボピーの気持ちで無理してヤマト糊汁を腹へ流し込んだ。
 
●さらに痩せる
そうした抵抗もむなしく、退院時には東西南北どこから見ても「不健康にやせ細った人」であった。
具体的には、入院時に履いていた36インチのジーパンはブカブカになり、買いなおしたジーパンは33インチ。それでもやや緩めである。
そもそも、太り気味だった上に、ワザとオーバーサイズにしてダブっとした服を好んで着ていたので、持っている服は全て(本当に全て)ブカブカのダブダブになった。
裸になると如実に痩せた箇所が解った。腹まわりもそうだが、特に尻や腿の肉が無くなり、余った皮がダブついてタレてブラ下がっているのだ。板を通しただけのベンチに座ると、尻の肉より先に尾てい骨がゴリゴリとあたる。どこかに背を寄りかからせると背中の筋肉より先に背骨があたる。深く息をするとあばら骨を皮膚が撫でる感触がある。
生まれてこのかた、ずーっとポッチャリ型で生きてきた私にはどれもこれも初めての経験だ。
 
●スタミナ
痩せて落ちたのは贅肉だけでは無かった。寝たきりの生活は、筋力とスタミナも落とした。
手術後、一週間が過ぎたくらい。がさつなリハビリ担当者がやって来て
「では、あそこまで歩いてみましょうか!」と指差したのは病室を出て3メートルほど先にある談話室だった。歩数で5~6歩だろうか。“コイツは何を言っているんだ?”と思いつつも言われた通り談話室を目指して歩き出したのだが、まず足が上がらない。
頭で思ったように足が動かない。やっと踏み出した一歩は思っていた7分ほど手前で着地してしまう。そして、その一歩が重い。汗もかいていなけりゃ息が切れているワケでも無いが、最初の一歩で身体がバテたのが解る。愕然としながら気力で足を動かし続け、目的地の談話室に着くころには疲労がべっとりと全身に圧し掛かっていた。
 
●備えよ常に
退院した今では、歩くことは出来るが走れない。ちょっとした小走りすら出来ない。点滅する青信号を前に立ち止まってしまう。入院前、当然のようにしていたこと、出来ていたことが出来ないのだ。
原因は約3週間のプレ寝たきり生活で細くなった筋肉に加え、圧倒的な“燃料不足”だ。入院での点滴生活は身体に備蓄していた脂肪という“燃料”を使い切ってしまった。
退院した現在は毎日高タンパクの食事をし、血肉の生成に勤しんでいる。
良いものとして世に謳われている「ダイエット」だが、実際に痩せてみると、太り過ぎて歩けないとかなら話は別だが、ちょっとポッチャリくらいであれば、やめておいた方がいい。
その「贅肉」は「災害時のための備蓄品」になる。

小野寺系は今日も意味が無い 〜『沈黙 -サイレンス-』篇〜

http://realsound.jp/movie/2017/01/post-3876_2.html

 
私自身はキリスト教についての知識は通り一遍(かどうかも怪しい)程度しか無いが、少なくともこの映画が「神の沈黙」をテーマにしていることは理解している。
キリスト教において「神の沈黙」と言った場合、例えば酷い災害や信じられないような非道な人間による犯罪に対して「全知全能であるハズの神さまは、この事態をなぜ放っておくのか? なぜ沈黙したままなのか?」という問題のことだ。
 
その「神の沈黙」と映画『沈黙 -サイレンス-』との関係について、下記URL、宮城県キリスト教牧師さんによる礼拝説教を参考されたい。平たい言葉使いで解りやすく解説されている。
 
 
で、これを踏まえて小野寺の評を振り返ってみると、ものの見事に「沈黙」の意味を履き違えているのが解るだろう。
遠藤周作は、キリストや神が、真に尊敬するべき存在であるとすれば、そういう者をこそ救ってくれるべきだと考えた。だから絵を踏む瞬間にだけキリストが沈黙を破り、「踏むがいい」と語りかけるのである。 そして、場合によっては、神の存在を声高に叫ぶことなく「沈黙」する行為にこそ、神と人が真につながることができるという結論へと、物語はたどり着く。
相変わらず自説のために史実や事実をネジ曲げがてら、とうとう勝手に遠藤周作を代弁しちゃっているwww 「救ってくれるべきだと考えた」じゃねえっつうのwww

そして、タイトルの「沈黙」を信者側の「沈黙」だと思い込んじゃっているwww

★今日の小野寺系
相変わらず、ルターや親鸞まで持ち出し、意味が有り気なことは書いているが、その実、まったく意味がない。しかも間違っている。勘違いしている。
そして、今回最も笑いを誘うのは「沈黙」というタイトルで、キリスト教がテーマであるにも関わらず、キリスト教における「沈黙」を知らなかったことだろう。
これらから、小野寺が『セブン』における「神学的勝利」とは何なのか、頑なに「沈黙」を守っている理由も見えてくるのではないだろうか?
つまり「知らなかった」のだ。
おお、神よ、彼は自分が何をしているのか理解していないのです!

小野寺系は今日も意味が無い 〜『カンフー・ヨガ』篇〜


長年の危険な撮影における蓄積した負傷や肉体の酷使によって、ジャッキーは満身創痍の状態にあるという。慢性的な身体の痛み、加齢。限界を悟ったジャッキーは、ロバート・デ・ニーロのような演技派への転向を目指しているというが、やはり観客の多くが期待してしまうのはアクションである。
〜中略〜
そんななか、中国・インド合作映画である本作『カンフー・ヨガは、近年のジャッキー作品のなかでも肩の力を抜き、絶妙な軽さのストーリーとともに見事に娯楽表現を結実させている。おとそ気分で正月に観るにはもってこいのおおらかさを持った、しかし侮れない深さもある作品となった。

 

 

えー…………
 
日本のジャッキー・チェンのファンにとって去年はとんでもない1年(出演作が1年で4本公開)だったんだけど知らなかった、というか2000年代以降のジャッキー・チェンの動向や言動を全く知らないとしか言いようの無い文章で始まる。
一応グーグル検索かけたのかジャッキーの引退宣言(『ライジング・ドラゴン』の時)から「デ・ニーロになりたい!」を引用してみせもするが、90年代後半あたりからジャッキーは作品を撮り終えてキャンペーンに出るたびに「これで引退!」宣言を繰り返していたのは周知の通り。
また、ハリウッド進出を果たしたあたりから「軽妙な軽さ」には事欠かない作品が並んでいもするんだが、ジャッキーがスピルバーグ邸に招かれた際の話などからめると解りやすいんだけど、小野寺は徹底的に映画に興味が無いので、そんな気の効いたことは出来なかったようだ。
 

本作の物語は、アクションシーンの撮影中にジャッキーの頭蓋骨が陥没するという大事故が起きた『サンダーアーム/龍兄虎弟』を含めた「アジアの鷹」シリーズを彷彿とさせる、「宝探し映画」だ。

 

 
本作はジャッキー・チェン2005年の主演作『THE MYTH/神話』の考古学者「ジャック」を主人公とした続編である。
この『THE MYTH/神話』には元々インド映画のトップ女優、アイシュワリヤー・ラーイに出演依頼があったが、彼女が依頼を断ったためにインド映画界の“セクシー・女優”枠(別にAVに出ているワケではないけど)マリカ・シュラワットが出演を果たしている。と、インドとの親和性が高いシリーズ(『カンフー・ヨガ』で2作目だけど)なのだが、もちろん知らなかったようである。
 
 私は数年前、上海など中国のいくつかの都市を見てきたが、どこも好景気に沸いていて、古い建物を壊し、新しい建造物の工事が至るところで行われているのを目にしている。ひとつ気になったのは、高級貴金属店やブランド品店など、いかにも金が集まりそうな最先端の場所では、中国独自の文化ではなく、西洋的な価値観に支配されていると感じた点だ。ジャ・ジャンクー監督が『山河ノスタルジア』で問題として描いていたように、古来からの文化を伝える「古い中国」と、西洋的な文化に浸食された「新しい中国」は、かなりの部分で分断されているように思われる。
 そんな西洋と東洋の価値観を結び付けるのが、ジャッキー・チェンという存在ではないだろうか。
 
!!!今日もでました!!! 言やぁイイってもんじゃないよwww
まず。中国国内の古い文化と外来文化の分断を枕に、ジャッキー・チェンがその橋渡しをするってのは、もう全く意味が解らないwww してないしwww 「ジャ・ジャンクー」とか言いたいだけじゃんwww
 
彼の内にある「カンフー」、そしてその魅力を世界に発信する映画という表現方法のなかで、画面に映えるよう美しく、ユーモアを多分に含みながら見せるという技術の蓄積は、まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。
本作は宝を探す映画だが、「本当の宝」として描かれているのは、ジャッキーの技術そのものだったのだ。そしてそれは、ブルース・リーなどの先人からもたらされたものでもある。その宝はまた、多くの後進に引き継がれ、後世に伝えられていく…。

 

 
ジャッキーのカンフーが「古い文化」で、それを見せる技術が「西洋文化」って、映画技術や映画芸術全般を「西洋」のものとするって傲慢すぎでしょうwww ショウブラやゴールデン・ハーベストの功績なしかよwww 
それに、カンフー映画(格闘シーン)の見せ方の進化って、ジャッキー始めとして、ドニー・イェン組、サモハン組などの凄まじい考察と実験の積み重ねによって出来ていて、例えば。
全盛期のジャッキーが長めのボブヘアーにしていたのは、殴られる場面で髪の毛で動きを出すためだし、格闘場面がたいがい場末の汚い場所で行われるのは舞い散るホコリで動きを表現するため。ドニーはカメラ位置に対して殴る方向を変えてるし、サモハンはフルコンタクトで凄まじい臨場感を出している。
それらを「西洋文化」とするには、あまりに「西洋」関係無いwww
小野寺の、この当該文章は本当に酷くて、本来ならこういったオモテに見えない独自の努力を汲んで表沙汰にすることこそ映画についての文章を書く人の役割だと思うんだが、小野寺は自説に合うように事実をねじ曲げ、その努力を見当違いな相手に与えてしまう。

★今日の小野寺系
今回は「ジャッキーは西洋と東洋の橋渡しをしている」という自説ありきで、それまでの香港映画の歴史を全て「西洋のもの」に塗りつぶすという、小野寺の悪癖の中でも最悪な1つ「自説を通すために映画や事実をネジ曲げる」が出た極めて悪質な文章である。
 
ちなみに『カンフー・ヨガは老若男女全てを楽しませるという野放図な目的を達成させてしまう、とんでもない映画で、特にラストの幸せな驚天動地は劇場で体験するに値する名場面だ。この場面のためだけに『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』監督のファラー・カーンが招集されているのも納得なので、劇場公開されているウチに、ぜひ体験して欲しい。
そうすれば「まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。」なんていう文章が、ネズミの家族計画ほどの価値も無いことに気づくであろう。

小野寺系は今日も意味が無い 〜『バーフバリ 王の凱旋』篇〜

http://realsound.jp/movie/2018/01/post-145508.html

 

 音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレンドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」をかたちづくる。

 

ハイ! 出ました! インド映画における9つのナバラサ! これ、日本だけで流通している「インド映画論」で、日本のインド映画研究の第一人者がインド映画を語る際に言ってたりするので「そういうものがある」ように思われているけど、実は第一次ソース(英語・ヒンディー語での論文など)が存在していない。

ただ「日本のインド映画研究の第一人者」の用法をよく読むと、印象の比喩として使っているだけで、小野寺の用法は誤用なのが解る。
 
驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。
 
インド映画をそれなりに観ているひとにとって、この文章は失笑ものだろう。
最近は短くなってきているインド映画だが、インターミッションを挟んだ2部構成になっている作品はまだ多い。そんな作品は大概、映画冒頭で2部目のオープニングにあたる場面を描き、1部目ではその場面に至る回想を描く、いわゆる「次回へ引っ張る」サスペンスものの構成となっている。
「バーフバリ」は、そのインド映画的なサスペンス構造をなぞっているので、回想ばっかりだと言っても、特に珍しいものでは無い。
『きっと、うまくいく』を思い出してみればよく解るだろう。映画は「ランチョーが帰ってきた!」から始まるランチョー探しを軸としながら、メインは回想で語られる学生時代のエピソードだ。
 
母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。
 
言やぁイイってもんじゃないぞwww 意味が通じないんだよwww「シヴァガミへの忠節と献身」って古色蒼然としたインド的家族観の現れ(親と先祖に感謝しろ! 割り切れなくても感謝しろ!)なので「進歩的なグローバリズムの真逆だしwww なにが「圧倒的な「美」」だよwww
 
煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。
 
言やぁイイってもんじゃないぞシリーズ。心象風景を実景に作り込んでいるワケじゃないし、キメ絵がかっこいいのは「表現主義」じゃなくて、むしろ印象派じゃね?www 要は「ドイツ表現主義」とか言いたいだけなんだよねwww 「表現主義」が何なのかよくわかって無いのにwww
 
過激なまでに迷いなく娯楽表現への道を突き進む…そういう姿勢こそが、黒澤映画より受け継いだ『スター・ウォーズ』の本質ではないだろうか。
 
スターウォーズの新作を貶したいダケなんだろうけど、クロサワとかルーカスを引き合いに出すのは、彼にインド映画、ひいては映画を語る(原稿料を貰って書くプロとしての)素養が全く無い証左だ。
小野寺は果たしてインド娯楽映画をいかほど観ているのだろうか? 
近年のサンジャイ・リーラー・バンサーリー作品や古典的名作『偉大なるムガル帝国』は? わざわざボリウッド映画では無いと書き出したなら当の南インド画の王道、Jr NTRやビジャイなど南インドのスター映画は?
おそらくこれらの作品は観ていないだろう。
すくなくとも上記した作品“だけ”でも観ていれば「バーフバリ」が連綿と紡ぎ続けられた「インド娯楽作品の本質」を引き継ぎつつ、ハリウッド大作の外装(VFXやCG技術)を纏った、アップ・トゥ・デイトなインド的大作映画だという結論が出るハズ。
 
★今日の小野寺系
今回の『バーフバリ』の文章は彼のたくさんある悪癖がバランスよく配置された、実に「小野寺系らしい」文章である。
見識の無さと、それを補おうとしない厚顔さ。勘違い。文学的言い回しの誤用。知ったかぶり。
ちなみに『バーフバリ』連作は近年のツイ・ハーク作品に似た、娯楽性を最優先で通して道理と退屈を引っ込めた大傑作なので、観た方がイイです。そうすれば「インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」」なんていう文章は、水虫がこいた屁のように思えるから。