小野寺系は今日も意味が無い 〜『カンフー・ヨガ』篇〜


長年の危険な撮影における蓄積した負傷や肉体の酷使によって、ジャッキーは満身創痍の状態にあるという。慢性的な身体の痛み、加齢。限界を悟ったジャッキーは、ロバート・デ・ニーロのような演技派への転向を目指しているというが、やはり観客の多くが期待してしまうのはアクションである。
〜中略〜
そんななか、中国・インド合作映画である本作『カンフー・ヨガは、近年のジャッキー作品のなかでも肩の力を抜き、絶妙な軽さのストーリーとともに見事に娯楽表現を結実させている。おとそ気分で正月に観るにはもってこいのおおらかさを持った、しかし侮れない深さもある作品となった。

 

 

えー…………
 
日本のジャッキー・チェンのファンにとって去年はとんでもない1年(出演作が1年で4本公開)だったんだけど知らなかった、というか2000年代以降のジャッキー・チェンの動向や言動を全く知らないとしか言いようの無い文章で始まる。
一応グーグル検索かけたのかジャッキーの引退宣言(『ライジング・ドラゴン』の時)から「デ・ニーロになりたい!」を引用してみせもするが、90年代後半あたりからジャッキーは作品を撮り終えてキャンペーンに出るたびに「これで引退!」宣言を繰り返していたのは周知の通り。
また、ハリウッド進出を果たしたあたりから「軽妙な軽さ」には事欠かない作品が並んでいもするんだが、ジャッキーがスピルバーグ邸に招かれた際の話などからめると解りやすいんだけど、小野寺は徹底的に映画に興味が無いので、そんな気の効いたことは出来なかったようだ。
 

本作の物語は、アクションシーンの撮影中にジャッキーの頭蓋骨が陥没するという大事故が起きた『サンダーアーム/龍兄虎弟』を含めた「アジアの鷹」シリーズを彷彿とさせる、「宝探し映画」だ。

 

 
本作はジャッキー・チェン2005年の主演作『THE MYTH/神話』の考古学者「ジャック」を主人公とした続編である。
この『THE MYTH/神話』には元々インド映画のトップ女優、アイシュワリヤー・ラーイに出演依頼があったが、彼女が依頼を断ったためにインド映画界の“セクシー・女優”枠(別にAVに出ているワケではないけど)マリカ・シュラワットが出演を果たしている。と、インドとの親和性が高いシリーズ(『カンフー・ヨガ』で2作目だけど)なのだが、もちろん知らなかったようである。
 
 私は数年前、上海など中国のいくつかの都市を見てきたが、どこも好景気に沸いていて、古い建物を壊し、新しい建造物の工事が至るところで行われているのを目にしている。ひとつ気になったのは、高級貴金属店やブランド品店など、いかにも金が集まりそうな最先端の場所では、中国独自の文化ではなく、西洋的な価値観に支配されていると感じた点だ。ジャ・ジャンクー監督が『山河ノスタルジア』で問題として描いていたように、古来からの文化を伝える「古い中国」と、西洋的な文化に浸食された「新しい中国」は、かなりの部分で分断されているように思われる。
 そんな西洋と東洋の価値観を結び付けるのが、ジャッキー・チェンという存在ではないだろうか。
 
!!!今日もでました!!! 言やぁイイってもんじゃないよwww
まず。中国国内の古い文化と外来文化の分断を枕に、ジャッキー・チェンがその橋渡しをするってのは、もう全く意味が解らないwww してないしwww 「ジャ・ジャンクー」とか言いたいだけじゃんwww
 
彼の内にある「カンフー」、そしてその魅力を世界に発信する映画という表現方法のなかで、画面に映えるよう美しく、ユーモアを多分に含みながら見せるという技術の蓄積は、まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。
本作は宝を探す映画だが、「本当の宝」として描かれているのは、ジャッキーの技術そのものだったのだ。そしてそれは、ブルース・リーなどの先人からもたらされたものでもある。その宝はまた、多くの後進に引き継がれ、後世に伝えられていく…。

 

 
ジャッキーのカンフーが「古い文化」で、それを見せる技術が「西洋文化」って、映画技術や映画芸術全般を「西洋」のものとするって傲慢すぎでしょうwww ショウブラやゴールデン・ハーベストの功績なしかよwww 
それに、カンフー映画(格闘シーン)の見せ方の進化って、ジャッキー始めとして、ドニー・イェン組、サモハン組などの凄まじい考察と実験の積み重ねによって出来ていて、例えば。
全盛期のジャッキーが長めのボブヘアーにしていたのは、殴られる場面で髪の毛で動きを出すためだし、格闘場面がたいがい場末の汚い場所で行われるのは舞い散るホコリで動きを表現するため。ドニーはカメラ位置に対して殴る方向を変えてるし、サモハンはフルコンタクトで凄まじい臨場感を出している。
それらを「西洋文化」とするには、あまりに「西洋」関係無いwww
小野寺の、この当該文章は本当に酷くて、本来ならこういったオモテに見えない独自の努力を汲んで表沙汰にすることこそ映画についての文章を書く人の役割だと思うんだが、小野寺は自説に合うように事実をねじ曲げ、その努力を見当違いな相手に与えてしまう。

★今日の小野寺系
今回は「ジャッキーは西洋と東洋の橋渡しをしている」という自説ありきで、それまでの香港映画の歴史を全て「西洋のもの」に塗りつぶすという、小野寺の悪癖の中でも最悪な1つ「自説を通すために映画や事実をネジ曲げる」が出た極めて悪質な文章である。
 
ちなみに『カンフー・ヨガは老若男女全てを楽しませるという野放図な目的を達成させてしまう、とんでもない映画で、特にラストの幸せな驚天動地は劇場で体験するに値する名場面だ。この場面のためだけに『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』監督のファラー・カーンが招集されているのも納得なので、劇場公開されているウチに、ぜひ体験して欲しい。
そうすれば「まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。」なんていう文章が、ネズミの家族計画ほどの価値も無いことに気づくであろう。

小野寺系は今日も意味が無い 〜『バーフバリ 王の凱旋』篇〜

http://realsound.jp/movie/2018/01/post-145508.html

 

 音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレンドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」をかたちづくる。

 

ハイ! 出ました! インド映画における9つのナバラサ! これ、日本だけで流通している「インド映画論」で、日本のインド映画研究の第一人者がインド映画を語る際に言ってたりするので「そういうものがある」ように思われているけど、実は第一次ソース(英語・ヒンディー語での論文など)が存在していない。

ただ「日本のインド映画研究の第一人者」の用法をよく読むと、印象の比喩として使っているだけで、小野寺の用法は誤用なのが解る。
 
驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。
 
インド映画をそれなりに観ているひとにとって、この文章は失笑ものだろう。
最近は短くなってきているインド映画だが、インターミッションを挟んだ2部構成になっている作品はまだ多い。そんな作品は大概、映画冒頭で2部目のオープニングにあたる場面を描き、1部目ではその場面に至る回想を描く、いわゆる「次回へ引っ張る」サスペンスものの構成となっている。
「バーフバリ」は、そのインド映画的なサスペンス構造をなぞっているので、回想ばっかりだと言っても、特に珍しいものでは無い。
『きっと、うまくいく』を思い出してみればよく解るだろう。映画は「ランチョーが帰ってきた!」から始まるランチョー探しを軸としながら、メインは回想で語られる学生時代のエピソードだ。
 
母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。
 
言やぁイイってもんじゃないぞwww 意味が通じないんだよwww「シヴァガミへの忠節と献身」って古色蒼然としたインド的家族観の現れ(親と先祖に感謝しろ! 割り切れなくても感謝しろ!)なので「進歩的なグローバリズムの真逆だしwww なにが「圧倒的な「美」」だよwww
 
煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。
 
言やぁイイってもんじゃないぞシリーズ。心象風景を実景に作り込んでいるワケじゃないし、キメ絵がかっこいいのは「表現主義」じゃなくて、むしろ印象派じゃね?www 要は「ドイツ表現主義」とか言いたいだけなんだよねwww 「表現主義」が何なのかよくわかって無いのにwww
 
過激なまでに迷いなく娯楽表現への道を突き進む…そういう姿勢こそが、黒澤映画より受け継いだ『スター・ウォーズ』の本質ではないだろうか。
 
スターウォーズの新作を貶したいダケなんだろうけど、クロサワとかルーカスを引き合いに出すのは、彼にインド映画、ひいては映画を語る(原稿料を貰って書くプロとしての)素養が全く無い証左だ。
小野寺は果たしてインド娯楽映画をいかほど観ているのだろうか? 
近年のサンジャイ・リーラー・バンサーリー作品や古典的名作『偉大なるムガル帝国』は? わざわざボリウッド映画では無いと書き出したなら当の南インド画の王道、Jr NTRやビジャイなど南インドのスター映画は?
おそらくこれらの作品は観ていないだろう。
すくなくとも上記した作品“だけ”でも観ていれば「バーフバリ」が連綿と紡ぎ続けられた「インド娯楽作品の本質」を引き継ぎつつ、ハリウッド大作の外装(VFXやCG技術)を纏った、アップ・トゥ・デイトなインド的大作映画だという結論が出るハズ。
 
★今日の小野寺系
今回の『バーフバリ』の文章は彼のたくさんある悪癖がバランスよく配置された、実に「小野寺系らしい」文章である。
見識の無さと、それを補おうとしない厚顔さ。勘違い。文学的言い回しの誤用。知ったかぶり。
ちなみに『バーフバリ』連作は近年のツイ・ハーク作品に似た、娯楽性を最優先で通して道理と退屈を引っ込めた大傑作なので、観た方がイイです。そうすれば「インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」」なんていう文章は、水虫がこいた屁のように思えるから。
 

残念な人々

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おそらく私はこのコメント主よりも多くスターウォーズを観ているが、スターウォーズ世界の宇宙船内が無重力だった描写は寡聞にして記憶にない。
カイロ・レンとルークの対決場面、幻影だと知ったレンにルークはこう言う「See You Round,Kid!」(じゃ、また。小僧!)
ルークにとってカイロ・レンはまだまだ「Kid」で、全身全霊を賭ける相手では無いという心象が現れてくる場面だ。
死ぬほど全身全霊掛けてたじゃん!というかもしれないが、ジェダイにとって肉体の死は、通過点の一つでしか無い。ep4でダース・ベイダーとライトセーバーを交えたオビ=ワンはその「肉体の死」の直前、こう言う「ベイダーよ、お前は勝利できぬ。いくら打ちのめされようと、私はお前の想像を越える力を得て蘇る(You can't win, Darth. If you strike me down I will become more powerful than you could possibly imagine.)」。ジェダイにとって「肉体の死」はそれほど問題では無く、むしろチートな存在に上がっちゃう、という話だ。その設定の好き嫌いはあると思うけど。

 

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これは堀田ナニガシとかいうベテランSWニワカのツイートの受け売り、劣化コピーであろう。
 

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R2ユニットの最盛期はep1~3までの時代で、ep4ではジャンク品扱い。プリンターやコピー機などで、10年以上持ったけどとうとう壊れて修理に出して「部品が無い」と言われるような経験が無い、社会生活すら希薄なニワカ特有の言いがかりでしかない。

 

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これはむしろep1のアナキンのスカウトとか、ep2でのジェダイ寺院の描写といった、ディズニー移行前の方が当たっている気がするし、当該アトラクションはep8公開前からすでにあるしで、やはり言いがかり。

 

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あるよ。「帝国の逆襲」っていうサブタイトルの続編映画だけど。前作で「ダースベイダーがお前の父親を殺した」と言った当のオビ=ワンが「お前の父はフォースの暗黒面に誘惑され、アナキン・スカイウォーカーでなくなった。善の心を破壊されたのだ。観方によっては殺されたに等しい。」と苦しめな言い訳で返す。ニワカはそんなセリフまで覚えていないか。

 

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これについてはコチラを参照。http://amzn.asia/0qwDrnU
ハーバード大ロースクールの教授でスターウォーズのファンが書いスターウォーズ論。すごく面白い。スカイウォーカー一家のサーガになったのは偶発的な機転によってで、ep4の時点では、そこまで考えていなかった。という裏付けが書いてある。
 

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これは単にレイシストだと告白してるだけのツイート。ゲー!

 

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ルークにはダース・ベイダーのライト・サイドが見えていたからこそ説得に向かったんだろうし、ベン・ソロ/カイロ・レンの救いようの無い暗黒面への転落が見えてしまえば、甥っ子であることへの葛藤の中、一瞬気が迷うこともあるだろう。「ブッ殺しちゃる!」へ転換したワケでなし。それに、一貫した性格しか持たないキャラクターってバンダムとかセガール映画の主人公くらいでしょ。

 

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自分の息子がグレた上にヤクザの大親分になったので、由緒正しい嫁の家系から距離を取って、息子の責任を一人で背負う。というドラマ的展開は、ストンと腑に落ちるだろう。

 

 

「小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?」はいかに駄文か。

 
この世の中にとって全く価値の無いもの。あるとすれば、その筆頭に挙げられるのが小野寺系の映画評だろう。『セブン』がハッピーエンドだと評した文はその好例だ。あてずっぽう。あてこすり。無意味。で、無価値。
その小野寺がスター・ウォーズ(以下SW)の新作「最後のジェダイ」評を「リアル・サウンド」にアップした(http://realsound.jp/movie/2017/12/post-141136.html)。
相変わらず全く読む価値の無い代物だが、「最後のジェダイ」ダメだった人々には「藁にもすがる」その「藁」となっているようだ。
世の中にはもうちょっとしっかりした「板」とか「浮き輪」とか、なんだったら「船」もあるが、何故か、この「藁」にすがる人々は後をたたない。
そこで、この「藁」がいかに「藁」なのか、むしろ「錨」であるかを書いていく。
この作業のバカバカしさはまったくやりきれないものだが、こういうことを怠けたおかげで世の「ネトウヨ」なるバカを生み出してきた過去がある。少しづつだか書き進めていくつもりだ。
それにつけてもバカバカしい……
 
前段
オリジナル3部作、プリクエル3部作(小野寺はそれぞれ「旧3部作」「新3部作」と表記)について語っている前段はいったん無視する。細かな認識間違いと知識不足が露呈されているのみだ。多少でもSWに興味があって、成り立ちや制作過程の記事を読んだことのある人なら、ひたすらイライラさせられる文章になっている。
 
「最後のジェダイ」について
今回の「最後のジェダイ」について。上記したように小野寺はSWに興味も無ければ知識も無いまま書き進めていく。

 

 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。

 

>「生々しい殺陣」
Ep4。モスアイズリー港のカンティーナ酒場でルークにケンカを売ろうとした、アゴがお尻(ポンダ・バーバ)の手を切り落とす。以降、オリジナルシリーズでは毎回誰かの手が切り落とされる。ep5ではルークの手。ep6ではダースベイダーの両手。プリクエル3部作では、ダースモール真っ二つ。ドゥークー伯爵の首チョンパ(&ゴロゴロ首)。アナキンの手足を切り落としたオビ=ワンは、その体を溶岩に突き落とすでも助けあげるでもなく、微妙な位置に放置しジリジリと溶岩による遠赤外線加熱で焼けるがままに帰ってしまう。これを残酷と言わずして何を残酷と言おうか!? ちなみに、人体破壊が描かれなかったのはep7のみになる。


>「「特攻」すら辞さない」
オリジナル3部作、反乱軍による攻撃は常に不利な状況だ。ep4、数十機のX-ウィングで向かったデス・スター攻撃だったが、ラストでミレニアム・ファルコン号と共に帰路につくのは数えられる程度である。ep6のデススター攻撃では、バリア破壊を前提とした総攻撃で思った時間にバリアは解除されず、しかもパルパタインによるワナ(It's a Trap!)まで仕掛けられ、タイファイターによる総攻撃に合う。『ローグ・ワン』となると正に「特攻作戦」で登場人物は全員死ぬ。
また、シリーズそれぞれの作品で「死なば諸共」的な描写は度々登場する。どの作品のどの場面でもそうだが日本の「神風特攻隊」のように、はなから特攻が作戦に組み込まれたことは無い(ローグ・ワンの面々も帰るつもりではいた)。それは「最後のジェダイ」でも同様である。

>「ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍」
そもそもep4でのルークはローズよりも「反乱軍の戦士」から遠い存在だった。平凡とされる存在による勇敢な戦いぶりや、上記た残酷な描写はSWシリーズにおける「革新」ではなく「原点回帰」だ。

>「『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。」
しかし、何度読んでも解りづらい文章だ。おそらく「SWファンの象徴的な存在カイロ・レンがダースベイダーのコスプレめいたマスクを捨てた」の意味であろう。だとすれば、この部分には「そうかもね」と言ってあげられるが、しかし読みづらい。
 
 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。

一見、意味があるように思えるこの文章だが実はただただ混乱しているだけの駄文だ。
ここで言われている「表面的なストーリー」とは「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく様子を描いたもので、その「背後に存在するライアン・ジョンソン督の作家宣言」とは、すなわち「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく「表面的なストーリー」で表現されているものだ*1
「三層の構造」ということにして「評価する層が違うから賛否が別れている」と言いたいのかもしれないが、実は同じものを見て評価している。
これ、あたりまえの話だから!
 

そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。

確かにep1で語られるアナキン誕生秘話は聖母マリアの「処女懐胎」なのかもしれない。しかし、「最後のジェダイ」の「「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描く」ってどの場面のこと?
カジノの惑星カント・バイトの、犬っぽいクリチャー、ファジアーの厩舎のこと? 「奇跡」ってホウキを手元にフォースで寄せる場面? それって、あまりに雑な解釈じゃね?
例えば、ファジアーの厩舎で子供が生まれているとか、3人の“賢者”っぽい誰かによる祝福があったとか、それくらいやってようやく「あぁ、これはキリストだね」と言ってあげられるだろう。
もしも、当該ファジアーの厩舎の場面だけで「キリスト誕生」だと言うなら、みずぼらしい場所に子供がいるだけで「キリスト誕生」をなぞった場面ということになってしまう。
 
マジで勘弁してほしい……
この小野寺系というバカの特徴は「表象として現れていない、裏の部分に作品の真意がある」とか「キリスト教になぞらえた何某」みたいなカッコいいことを言おうとして大失敗するところである。理由は明白で、小野寺自身に作品ないしキリスト教についての知識が語れるほど無いのだ。
『セブン』の「神学的な勝利を描いている(から『セブン』はハッピーエンド)」というアゴが外れるような無知を露呈するのも然り。SWでは度々ある肉体破損や特攻場面を「革新的」だと言ってしまうのも然り。
 
この後の段落ではディズニーによる過度なコントロールが悪いと書きながらライアン・ジョンソン作家主義の暴走だ、と一貫性を欠いた文章が続くんだが……
もう、語るまでも無いグダグダ文なんだよなぁ……

*1:私自身はそれほど作家主義が表出しているとは思えないけど

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を罵る人々

私自身の話になってしまうが。とはいえ、ことさらこの場所では私自身の話以外書いたことは無い。と、改めて記しておこう。
 
まず。今回の『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』私のファースト・インプレッションは「面白かった」である。
どのレベルで「面白かった」のか? といえば、例えば『ビッグゲーム 大統領と少年ハンター』やキング原作の方の『セル』、『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』と同じくらい。と言えば解ってもらえるだろうか? とにかく「面白かった」。
 
しかし、これは「スター・ウォーズ」の新作である。「面白かった」では終われない。何しろ私はスター・ウォーズを「愛している」からだ。
 
特定の作品を「愛している」と言った場合、愛に値するほど面白い作品だと思うからこそ、その作品を愛するのであろう。しかし、私のスターウォーズ関連作品に対する愛は少し違う。スターウォーズのシリーズで言えば、最初の『スターウォーズ』、今で言う「エピソード4 新たなる希望」以外は「愛に値するほど」面白いとは思えていない。
 
逆に言えばエピソード1〜3、5〜8の“正史”に加え、『ローグ・ワン』、CGアニメシリーズ、スピンオフのイウォークにレゴなどの映像作品、コミック、ゲームあたりまで(小説はまだ手を出していない)ならまとめて“愛せる”ほど「エピソード4 新たなる希望」が好きなのだ。
今でこそ傑作扱いされている「エピソード5 帝国の逆襲」も公開当時は「パロディだ」と貶されたし「エピソード6 ジェダイの復讐(現:帰還)」もイウォークの登場に「ガキ向けの甘ったるい体に悪い原色のお菓子」だと揶揄された。
当時はまだ小学生だったから、もしかしたらその貶す言葉や揶揄が正しいのかもしれないと思っていた。今ではそれらの言葉を理解はするが、何しろ、アノ「エピソード4」の続きなんだから、それはもう「エピソード4」じゃないか!
 
つまり。例えば。ある人物を好きになる。その人の何から何まで全てが好きでたまらないという人は、あまり多くは無いのではないだろうか?
もちろん、その人の多くの部分に惹かれたからこそ、その人を「好き」だと思っているのだろうが、たとえば「イビキがすごい」とか「たまに人の言ってることを聞いてない」とか、ちょっとカチンと来るところもあるだろう。
しかし、それも含めて「その人」なワケで、ゲームのアビリティのように他人が勝手に「その人」の特徴を挿げ替えられるワケでなし。気に入らない部分だって、引き裂くことの出来ない「その人」の「パーソナリティ」なのだ。
 
と、考えれば『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』に向けられた貶す言葉や揶揄がどういった性質のものなのか理解できるだろう。
 
別れた相手を、こと別れた後に口さがなく罵る人というのがいる。アイツのことだ。

益体の無い話

痩せた。

 
世の多くの女性や、腹の出た中年男性あたりは羨ましいところなのかもしれないが、きっかけは惨めなものだ。
風邪をひいて内臓を悪くして食欲が落ち、あまり食べない生活を続けていたら、あまり食べなくても腹がいっぱいになる体質に変わった。加えて、内臓の悪さは風邪が治ったあとでも整腸剤無しでは脂汗をかくほど痛くなるようになった。
という、老人そのものな理由からだ。
人間、痩せ始めるとまずアゴのラインから細くなっていく。次が尻、足、腕、脇腹と細くなっていく。なのでまだ腹はまだボヨボヨとした脂肪がついている。
奇妙な肉体になり、風呂に入る。全裸になる。ハタと思いつき、両肩を後ろに反らしてみる。そのまま陽の光をさえぎるように、手を目の上にかざしてみる。
 

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ははははは! アポー!

悪いことしましョ!

職場が新宿で、事務所への往復にビックロティファニーの代理店が入ったビルの隙間を抜ける。その場所で、最近になって、ちょくちょく気味の悪い情景を見かける。

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土地勘の無い人に少しだけ説明すると、くだんの道は、一応車道でもあるんだけど、ほぼ歩道として機能している。道もアスファルトむき出しでは無く、ブロックをタイル状に埋め込んだ、いかにも歩道然とした見栄えだ。しかし、この「ほぼ歩道」にも一応信号がある。新宿通りを挟んで伊勢丹駐車場へ続く道とで十字路に見立てた、アリバイ的な、ほとんど機能していない信号だ。
ところが、この信号を守る人がいるのだ。
もし車が来たとしても車1台がゆるっと通れる、2台ならキッツキツな狭い道路だ。ピョっとひとっ飛びすれば端に避けられる。それ以前に車が来てないし、来る気配も無いし、歩道っぽく利用されているから信号のある横断歩道以外のフローズンヨーグルト屋の前あたりには人がウロウロと歩いている。それなのに、横断歩道の信号を守って待ってる人がいるのだ。それも結構な人数が。
 
  ※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※
 
今更ながら。カナザワ映画祭ブラックスプロイテーション映画につけた差別語タイトルについて。
まず、あの邦題はブラックスプロイテーションとは何たるかを全く理解していない『新感染』とか『バス男』などと同様のダサ邦題だというのは先に言っておこう。ダサい。クソだせえ。
で、差別語をタイトルに使用して良いか?
私は良いと考える。ただし、叱られるのもセットで。
表現の自由」というのは無制限であるべきだ。無制限、と言うからにはもちろん世に蔓延る嫌韓本も「表現の自由」の元、発表ないし発売されてしまうのもいたしかたない。ただし、バカ丸出しな本を出して批判されると「表現の自由の抑圧だ!」という百田ナニガシみたいな人の形をしたウンコとしか思えない、トイレに流していないのが不思議な物体のトンチンカンさ加減には腐った藻の臭いのため息を吹きかける他ない。
マヌケの大吟醸みたいな本を発表して良い「表現の自由」と同等に、マヌケ界の八海山を指標する本を批判する「表現の自由」も存在する。というようなことをイチイチ言わないと解らないのがレイシストという純度100%特濃バカの特徴なのであろう。
では、カナザワ映画祭の、あのタイトルをつけた主催者(たぶん、1度ならず何度かお会いしていると思うのだが、ごめんなさい。顔も名前も思い出せないです)に黒人を差別する意図があったか?
それは無かったであろう。おそらく、禁忌的な言葉になっている「クロンボ」を、禁忌的だというだけで文脈も考えずに露悪的につけた、悪フザケだ。
 
私は悪フザケが好きだ。
 
ただし、嫌韓本と同様に叱られるのもセットで。叱られるのは受け止めよう。受け止めるベキだ。
しかし今の世の中、「悪フザケ」が「悪フザケ」として受け止められない時代になっている。
 
たとえば「ナチス」。セックス・ピストルズで唯一死んだメンバー、シド・ビシャスハーケンクロイツのTシャツを着ていた。知る範囲でシド本人にナチス的な思想(ないし、いかなる思想)を持ってはおらず、おそらく「世の中の人がもっとも嫌っている象徴」としてハーケンクロイツを着用していたのだろう。つまり「パンク」だ。
今ではランシドみたいなクリーンで健康的なバンドもいて、かつての「パンク」と今の「パンク」には意味の齟齬があるだろう。シド(及びピストルズ)の「パンク」とは「悪フザケ」だ。
みんなが嫌がるから、怒るから、ハーケンクロイツのTシャツを着て、ろくすっぽ楽器も出来ないのにバンドを組んで「女王陛下ってな人じゃねえなwww」とか「俺はアンチクライストアナーキストだ! 道行く人を殴りたい!」と歌っていたのだ。
しかし、今では「コレぞ正義!」とばかりにハーケンクロイツを掲げ、外国人排斥をガナる、アソーナニガシとかタカスナニガシといった納豆菌を入れ忘れたまま腐らせた豆みたいな奴らがソコソコの人数いるのである。
これでは全くコチラの立つ瀬が無い。「悪フザケ」とは、叱られるようなことだという共通認識が無ければ成り立たない。叱られるようなこと、だからこそする。
多くの人がカナザワ映画祭主催者に叱責の声を上げた。それはそれでしょうがない。だって単なる露悪なんだから。叱られるのあたりまえでしょう。
しかし、主催者を叱責した多くの人は、車の通らない横断歩道の信号を守るように、「ダメだからダメ」というだけの理由で、怒っていた気がする(もちろん全員ではない)。
もちろんダメなんだけど、たとえば小説の中に「人種差別主義者で学の無いカッペ」という設定を持った人物が黒人を黒人だというだけでナジるセリフを言うとしたら、それは間違い無く「クロンボ」だ。
差別語ではあるが、使われるベキだ。
それは主催者本人もブログで書いているのだが後に続くのが「ゴムを付けていたので浮気ではない!」みたいな、牛が夢中になるくらいショッパい言い訳でどーしょーもない。
では『The Black Gestapo』や『Brotherhood of Death』『The Thing with Two Heads』にそれぞれ「クロンボ」呼称を含んだタイトルが相応しいのか?
それは実際に自分で観てから、自分で判断して欲しいところだ。全部ソフトを持っている私としては「ダメ」の焼きごてを押し付ける他ないのだが。
それ以前に致命的にダサいんだけど。
あと、未公開ブラックスプロイテーションなら突き抜けた『Black Shanpoo』や『Soul Vengeance』。ゾンビ映画では珍しくブードゥーゾンビが登場する『Sugar Hill』。良作な『Willie Dynamite』。近作の『Black Dynamite』とかいくらでもあるのに、なんでコレ選んだかね? とは強く思う。
そんなことを歩道化している道のすぐ脇にある横断歩道の信号を律儀に守っている人を見かけて思ったのだった。
モチロン、青になった瞬間に歩きだそうとする人の前で急に立ち止まりながら。