ガンでした

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以前「益体の無い話」として痩せた話を書いたが、何のことはない。ガンだった。
発生した場所は大腸のS字結腸という、尻の穴手前最後のカーブあたり。そこにコブシ大の腫瘍が出来ていて、あと少しで通り道を塞いで腸閉塞を起こしかけていた。これが食欲を無くしていた原因だ
その患部が急激に痛みだし、たまらず病院に駆け込み、ガンが見つかったのが2月のアタマ。すぐに入院、手術となった。
 
●寝たきり
手術前。患部がウンコの通り道であることから、手術時の感染症防ぐため腹の中をカラにする必要があり、口からは水分以外は入れられず、栄養分はすべて点滴で供給される生活を1週間ほど強いられた。
キャスター付の棒にぶらさがった点滴を四六時中繋げた生活。棒を持てば動けるとはいえ、もちろん外出は無理。病室からトイレまでの往復が活動範囲だ。必然的にほぼ24時間ベッド上での生活になった。
手術が終わると身体には点滴に、患部の膿を吸い出す直径2cmほどの管が3本、尿道カテーテルが突っ込まれトイレに行く必要も無くなった。身体に繋がった都合5本の管は棒にぶら下がったビニール袋に繋がり、名実共にベッドに縛り付けられた格好だ。
寝たきり中年の誕生である。
 
●飛んだ
手術で大腸を切って繋ぎ合わせたため、医者はキチンと繋がっているかを気にして毎日オナラが出たかを聞いてきた。しかし、手術1週間前から物を食わず、手術後まだ何も食っていない頃。オナラの原料になるものが腹に何も無いのにオナラが生成されるハズも無く。しかし、とうとう強行手段として腹を下す座薬をつっこまれた。
栄養に抗生物質、貧血用の薬を点滴され、痛み止めの薬を2種、加えて下剤座薬を投入された状態。そのチャンポンが効いたのか夜中に脳みそが沸騰したような感覚に襲われ、身体中を掻き毟らずにいられなくなった。堪らず看護士に睡眠薬を強請った。
記憶はココで飛んでしまう。
私はデパート催事場の展示の仕事をしていた。両手に値札をつける結束バンドがからまり「あぁ、鬱陶しい!」と引き千切ろうとした瞬間、
「何してるんですか!」
看護士に呼び止められた私はベッドの横に立ち、身体から伸びた点滴の管を引き千切ろうとしていた。しかも、どこで生成したのかパンツの中にクソを漏らしながら。
斯くして強制的にオムツを履かされ、オムツを履いた寝たきり中年が爆誕である。
 
●病院食
上記した通り、手術前1週間ほど物は食えず。手術後もしばらくは口から水分すら入れさせてもらえなかった。唾も出ず、舌は完全に乾いて、触ると犬の足の裏のような感触がした。
ようやく物が食べられるようになっても、まずは「重湯」から。濃いめの米のとぎ汁を温めたような代物である。重湯のおかずは具無しみそ汁。デザートにくず湯。ホットミルク。それにお茶。全て液体だ。
その期間が終わると「3分粥(1/2量)」。重湯に3割ほどの粥が浮かんだもの。おかずにはグニャグニャに茹でたニンジン。ツブしたかぼちゃ。フニャフニャになったブロッコリー。豆腐など。限りなく液体に近い固形物だ。
その次が「5 分 粥(1/2量)」。最後は量が倍になった「5 分 粥(全量)」。
粥は3分も5分もヤマト糊を溶いたような味気の無いねっとりした汁に形がほとんど無くなるまで茹でられた飯が浮かんだもの。おかずは全て薄味で、ヤマト糊風の粥を食べるには圧倒的にパンチが足りない。
しばらくはマズさに辟易して残していたが、『ワイルド7 緑の墓 編』での 飛葉ちゃんの言葉を思い出し、ヘボピーの気持ちで無理してヤマト糊汁を腹へ流し込んだ。
 
●さらに痩せる
そうした抵抗もむなしく、退院時には東西南北どこから見ても「不健康にやせ細った人」であった。
具体的には、入院時に履いていた36インチのジーパンはブカブカになり、買いなおしたジーパンは33インチ。それでもやや緩めである。
そもそも、太り気味だった上に、ワザとオーバーサイズにしてダブっとした服を好んで着ていたので、持っている服は全て(本当に全て)ブカブカのダブダブになった。
裸になると如実に痩せた箇所が解った。腹まわりもそうだが、特に尻や腿の肉が無くなり、余った皮がダブついてタレてブラ下がっているのだ。板を通しただけのベンチに座ると、尻の肉より先に尾てい骨がゴリゴリとあたる。どこかに背を寄りかからせると背中の筋肉より先に背骨があたる。深く息をするとあばら骨を皮膚が撫でる感触がある。
生まれてこのかた、ずーっとポッチャリ型で生きてきた私にはどれもこれも初めての経験だ。
 
●スタミナ
痩せて落ちたのは贅肉だけでは無かった。寝たきりの生活は、筋力とスタミナも落とした。
手術後、一週間が過ぎたくらい。がさつなリハビリ担当者がやって来て
「では、あそこまで歩いてみましょうか!」と指差したのは病室を出て3メートルほど先にある談話室だった。歩数で5~6歩だろうか。“コイツは何を言っているんだ?”と思いつつも言われた通り談話室を目指して歩き出したのだが、まず足が上がらない。
頭で思ったように足が動かない。やっと踏み出した一歩は思っていた7分ほど手前で着地してしまう。そして、その一歩が重い。汗もかいていなけりゃ息が切れているワケでも無いが、最初の一歩で身体がバテたのが解る。愕然としながら気力で足を動かし続け、目的地の談話室に着くころには疲労がべっとりと全身に圧し掛かっていた。
 
●備えよ常に
退院した今では、歩くことは出来るが走れない。ちょっとした小走りすら出来ない。点滅する青信号を前に立ち止まってしまう。入院前、当然のようにしていたこと、出来ていたことが出来ないのだ。
原因は約3週間のプレ寝たきり生活で細くなった筋肉に加え、圧倒的な“燃料不足”だ。入院での点滴生活は身体に備蓄していた脂肪という“燃料”を使い切ってしまった。
退院した現在は毎日高タンパクの食事をし、血肉の生成に勤しんでいる。
良いものとして世に謳われている「ダイエット」だが、実際に痩せてみると、太り過ぎて歩けないとかなら話は別だが、ちょっとポッチャリくらいであれば、やめておいた方がいい。
その「贅肉」は「災害時のための備蓄品」になる。

小野寺系は今日も意味が無い 〜『沈黙 -サイレンス-』篇〜

http://realsound.jp/movie/2017/01/post-3876_2.html

 
私自身はキリスト教についての知識は通り一遍(かどうかも怪しい)程度しか無いが、少なくともこの映画が「神の沈黙」をテーマにしていることは理解している。
キリスト教において「神の沈黙」と言った場合、例えば酷い災害や信じられないような非道な人間による犯罪に対して「全知全能であるハズの神さまは、この事態をなぜ放っておくのか? なぜ沈黙したままなのか?」という問題のことだ。
 
その「神の沈黙」と映画『沈黙 -サイレンス-』との関係について、下記URL、宮城県キリスト教牧師さんによる礼拝説教を参考されたい。平たい言葉使いで解りやすく解説されている。
 
 
で、これを踏まえて小野寺の評を振り返ってみると、ものの見事に「沈黙」の意味を履き違えているのが解るだろう。
遠藤周作は、キリストや神が、真に尊敬するべき存在であるとすれば、そういう者をこそ救ってくれるべきだと考えた。だから絵を踏む瞬間にだけキリストが沈黙を破り、「踏むがいい」と語りかけるのである。 そして、場合によっては、神の存在を声高に叫ぶことなく「沈黙」する行為にこそ、神と人が真につながることができるという結論へと、物語はたどり着く。
相変わらず自説のために史実や事実をネジ曲げがてら、とうとう勝手に遠藤周作を代弁しちゃっているwww 「救ってくれるべきだと考えた」じゃねえっつうのwww

そして、タイトルの「沈黙」を信者側の「沈黙」だと思い込んじゃっているwww

★今日の小野寺系
相変わらず、ルターや親鸞まで持ち出し、意味が有り気なことは書いているが、その実、まったく意味がない。しかも間違っている。勘違いしている。
そして、今回最も笑いを誘うのは「沈黙」というタイトルで、キリスト教がテーマであるにも関わらず、キリスト教における「沈黙」を知らなかったことだろう。
これらから、小野寺が『セブン』における「神学的勝利」とは何なのか、頑なに「沈黙」を守っている理由も見えてくるのではないだろうか?
つまり「知らなかった」のだ。
おお、神よ、彼は自分が何をしているのか理解していないのです!

小野寺系は今日も意味が無い 〜『カンフー・ヨガ』篇〜


長年の危険な撮影における蓄積した負傷や肉体の酷使によって、ジャッキーは満身創痍の状態にあるという。慢性的な身体の痛み、加齢。限界を悟ったジャッキーは、ロバート・デ・ニーロのような演技派への転向を目指しているというが、やはり観客の多くが期待してしまうのはアクションである。
〜中略〜
そんななか、中国・インド合作映画である本作『カンフー・ヨガは、近年のジャッキー作品のなかでも肩の力を抜き、絶妙な軽さのストーリーとともに見事に娯楽表現を結実させている。おとそ気分で正月に観るにはもってこいのおおらかさを持った、しかし侮れない深さもある作品となった。

 

 

えー…………
 
日本のジャッキー・チェンのファンにとって去年はとんでもない1年(出演作が1年で4本公開)だったんだけど知らなかった、というか2000年代以降のジャッキー・チェンの動向や言動を全く知らないとしか言いようの無い文章で始まる。
一応グーグル検索かけたのかジャッキーの引退宣言(『ライジング・ドラゴン』の時)から「デ・ニーロになりたい!」を引用してみせもするが、90年代後半あたりからジャッキーは作品を撮り終えてキャンペーンに出るたびに「これで引退!」宣言を繰り返していたのは周知の通り。
また、ハリウッド進出を果たしたあたりから「軽妙な軽さ」には事欠かない作品が並んでいもするんだが、ジャッキーがスピルバーグ邸に招かれた際の話などからめると解りやすいんだけど、小野寺は徹底的に映画に興味が無いので、そんな気の効いたことは出来なかったようだ。
 

本作の物語は、アクションシーンの撮影中にジャッキーの頭蓋骨が陥没するという大事故が起きた『サンダーアーム/龍兄虎弟』を含めた「アジアの鷹」シリーズを彷彿とさせる、「宝探し映画」だ。

 

 
本作はジャッキー・チェン2005年の主演作『THE MYTH/神話』の考古学者「ジャック」を主人公とした続編である。
この『THE MYTH/神話』には元々インド映画のトップ女優、アイシュワリヤー・ラーイに出演依頼があったが、彼女が依頼を断ったためにインド映画界の“セクシー・女優”枠(別にAVに出ているワケではないけど)マリカ・シュラワットが出演を果たしている。と、インドとの親和性が高いシリーズ(『カンフー・ヨガ』で2作目だけど)なのだが、もちろん知らなかったようである。
 
 私は数年前、上海など中国のいくつかの都市を見てきたが、どこも好景気に沸いていて、古い建物を壊し、新しい建造物の工事が至るところで行われているのを目にしている。ひとつ気になったのは、高級貴金属店やブランド品店など、いかにも金が集まりそうな最先端の場所では、中国独自の文化ではなく、西洋的な価値観に支配されていると感じた点だ。ジャ・ジャンクー監督が『山河ノスタルジア』で問題として描いていたように、古来からの文化を伝える「古い中国」と、西洋的な文化に浸食された「新しい中国」は、かなりの部分で分断されているように思われる。
 そんな西洋と東洋の価値観を結び付けるのが、ジャッキー・チェンという存在ではないだろうか。
 
!!!今日もでました!!! 言やぁイイってもんじゃないよwww
まず。中国国内の古い文化と外来文化の分断を枕に、ジャッキー・チェンがその橋渡しをするってのは、もう全く意味が解らないwww してないしwww 「ジャ・ジャンクー」とか言いたいだけじゃんwww
 
彼の内にある「カンフー」、そしてその魅力を世界に発信する映画という表現方法のなかで、画面に映えるよう美しく、ユーモアを多分に含みながら見せるという技術の蓄積は、まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。
本作は宝を探す映画だが、「本当の宝」として描かれているのは、ジャッキーの技術そのものだったのだ。そしてそれは、ブルース・リーなどの先人からもたらされたものでもある。その宝はまた、多くの後進に引き継がれ、後世に伝えられていく…。

 

 
ジャッキーのカンフーが「古い文化」で、それを見せる技術が「西洋文化」って、映画技術や映画芸術全般を「西洋」のものとするって傲慢すぎでしょうwww ショウブラやゴールデン・ハーベストの功績なしかよwww 
それに、カンフー映画(格闘シーン)の見せ方の進化って、ジャッキー始めとして、ドニー・イェン組、サモハン組などの凄まじい考察と実験の積み重ねによって出来ていて、例えば。
全盛期のジャッキーが長めのボブヘアーにしていたのは、殴られる場面で髪の毛で動きを出すためだし、格闘場面がたいがい場末の汚い場所で行われるのは舞い散るホコリで動きを表現するため。ドニーはカメラ位置に対して殴る方向を変えてるし、サモハンはフルコンタクトで凄まじい臨場感を出している。
それらを「西洋文化」とするには、あまりに「西洋」関係無いwww
小野寺の、この当該文章は本当に酷くて、本来ならこういったオモテに見えない独自の努力を汲んで表沙汰にすることこそ映画についての文章を書く人の役割だと思うんだが、小野寺は自説に合うように事実をねじ曲げ、その努力を見当違いな相手に与えてしまう。

★今日の小野寺系
今回は「ジャッキーは西洋と東洋の橋渡しをしている」という自説ありきで、それまでの香港映画の歴史を全て「西洋のもの」に塗りつぶすという、小野寺の悪癖の中でも最悪な1つ「自説を通すために映画や事実をネジ曲げる」が出た極めて悪質な文章である。
 
ちなみに『カンフー・ヨガは老若男女全てを楽しませるという野放図な目的を達成させてしまう、とんでもない映画で、特にラストの幸せな驚天動地は劇場で体験するに値する名場面だ。この場面のためだけに『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』監督のファラー・カーンが招集されているのも納得なので、劇場公開されているウチに、ぜひ体験して欲しい。
そうすれば「まさに西洋と東洋との出会いであり、無形の世界的財産である。」なんていう文章が、ネズミの家族計画ほどの価値も無いことに気づくであろう。

小野寺系は今日も意味が無い 〜『バーフバリ 王の凱旋』篇〜

http://realsound.jp/movie/2018/01/post-145508.html

 

 音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレンドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」をかたちづくる。

 

ハイ! 出ました! インド映画における9つのナバラサ! これ、日本だけで流通している「インド映画論」で、日本のインド映画研究の第一人者がインド映画を語る際に言ってたりするので「そういうものがある」ように思われているけど、実は第一次ソース(英語・ヒンディー語での論文など)が存在していない。

ただ「日本のインド映画研究の第一人者」の用法をよく読むと、印象の比喩として使っているだけで、小野寺の用法は誤用なのが解る。
 
驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。
 
インド映画をそれなりに観ているひとにとって、この文章は失笑ものだろう。
最近は短くなってきているインド映画だが、インターミッションを挟んだ2部構成になっている作品はまだ多い。そんな作品は大概、映画冒頭で2部目のオープニングにあたる場面を描き、1部目ではその場面に至る回想を描く、いわゆる「次回へ引っ張る」サスペンスものの構成となっている。
「バーフバリ」は、そのインド映画的なサスペンス構造をなぞっているので、回想ばっかりだと言っても、特に珍しいものでは無い。
『きっと、うまくいく』を思い出してみればよく解るだろう。映画は「ランチョーが帰ってきた!」から始まるランチョー探しを軸としながら、メインは回想で語られる学生時代のエピソードだ。
 
母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。
 
言やぁイイってもんじゃないぞwww 意味が通じないんだよwww「シヴァガミへの忠節と献身」って古色蒼然としたインド的家族観の現れ(親と先祖に感謝しろ! 割り切れなくても感謝しろ!)なので「進歩的なグローバリズムの真逆だしwww なにが「圧倒的な「美」」だよwww
 
煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。
 
言やぁイイってもんじゃないぞシリーズ。心象風景を実景に作り込んでいるワケじゃないし、キメ絵がかっこいいのは「表現主義」じゃなくて、むしろ印象派じゃね?www 要は「ドイツ表現主義」とか言いたいだけなんだよねwww 「表現主義」が何なのかよくわかって無いのにwww
 
過激なまでに迷いなく娯楽表現への道を突き進む…そういう姿勢こそが、黒澤映画より受け継いだ『スター・ウォーズ』の本質ではないだろうか。
 
スターウォーズの新作を貶したいダケなんだろうけど、クロサワとかルーカスを引き合いに出すのは、彼にインド映画、ひいては映画を語る(原稿料を貰って書くプロとしての)素養が全く無い証左だ。
小野寺は果たしてインド娯楽映画をいかほど観ているのだろうか? 
近年のサンジャイ・リーラー・バンサーリー作品や古典的名作『偉大なるムガル帝国』は? わざわざボリウッド映画では無いと書き出したなら当の南インド画の王道、Jr NTRやビジャイなど南インドのスター映画は?
おそらくこれらの作品は観ていないだろう。
すくなくとも上記した作品“だけ”でも観ていれば「バーフバリ」が連綿と紡ぎ続けられた「インド娯楽作品の本質」を引き継ぎつつ、ハリウッド大作の外装(VFXやCG技術)を纏った、アップ・トゥ・デイトなインド的大作映画だという結論が出るハズ。
 
★今日の小野寺系
今回の『バーフバリ』の文章は彼のたくさんある悪癖がバランスよく配置された、実に「小野寺系らしい」文章である。
見識の無さと、それを補おうとしない厚顔さ。勘違い。文学的言い回しの誤用。知ったかぶり。
ちなみに『バーフバリ』連作は近年のツイ・ハーク作品に似た、娯楽性を最優先で通して道理と退屈を引っ込めた大傑作なので、観た方がイイです。そうすれば「インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」」なんていう文章は、水虫がこいた屁のように思えるから。
 

残念な人々

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おそらく私はこのコメント主よりも多くスターウォーズを観ているが、スターウォーズ世界の宇宙船内が無重力だった描写は寡聞にして記憶にない。
カイロ・レンとルークの対決場面、幻影だと知ったレンにルークはこう言う「See You Round,Kid!」(じゃ、また。小僧!)
ルークにとってカイロ・レンはまだまだ「Kid」で、全身全霊を賭ける相手では無いという心象が現れてくる場面だ。
死ぬほど全身全霊掛けてたじゃん!というかもしれないが、ジェダイにとって肉体の死は、通過点の一つでしか無い。ep4でダース・ベイダーとライトセーバーを交えたオビ=ワンはその「肉体の死」の直前、こう言う「ベイダーよ、お前は勝利できぬ。いくら打ちのめされようと、私はお前の想像を越える力を得て蘇る(You can't win, Darth. If you strike me down I will become more powerful than you could possibly imagine.)」。ジェダイにとって「肉体の死」はそれほど問題では無く、むしろチートな存在に上がっちゃう、という話だ。その設定の好き嫌いはあると思うけど。

 

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これは堀田ナニガシとかいうベテランSWニワカのツイートの受け売り、劣化コピーであろう。
 

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R2ユニットの最盛期はep1~3までの時代で、ep4ではジャンク品扱い。プリンターやコピー機などで、10年以上持ったけどとうとう壊れて修理に出して「部品が無い」と言われるような経験が無い、社会生活すら希薄なニワカ特有の言いがかりでしかない。

 

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これはむしろep1のアナキンのスカウトとか、ep2でのジェダイ寺院の描写といった、ディズニー移行前の方が当たっている気がするし、当該アトラクションはep8公開前からすでにあるしで、やはり言いがかり。

 

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あるよ。「帝国の逆襲」っていうサブタイトルの続編映画だけど。前作で「ダースベイダーがお前の父親を殺した」と言った当のオビ=ワンが「お前の父はフォースの暗黒面に誘惑され、アナキン・スカイウォーカーでなくなった。善の心を破壊されたのだ。観方によっては殺されたに等しい。」と苦しめな言い訳で返す。ニワカはそんなセリフまで覚えていないか。

 

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これについてはコチラを参照。http://amzn.asia/0qwDrnU
ハーバード大ロースクールの教授でスターウォーズのファンが書いスターウォーズ論。すごく面白い。スカイウォーカー一家のサーガになったのは偶発的な機転によってで、ep4の時点では、そこまで考えていなかった。という裏付けが書いてある。
 

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これは単にレイシストだと告白してるだけのツイート。ゲー!

 

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ルークにはダース・ベイダーのライト・サイドが見えていたからこそ説得に向かったんだろうし、ベン・ソロ/カイロ・レンの救いようの無い暗黒面への転落が見えてしまえば、甥っ子であることへの葛藤の中、一瞬気が迷うこともあるだろう。「ブッ殺しちゃる!」へ転換したワケでなし。それに、一貫した性格しか持たないキャラクターってバンダムとかセガール映画の主人公くらいでしょ。

 

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自分の息子がグレた上にヤクザの大親分になったので、由緒正しい嫁の家系から距離を取って、息子の責任を一人で背負う。というドラマ的展開は、ストンと腑に落ちるだろう。

 

 

「小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?」はいかに駄文か。

 
この世の中にとって全く価値の無いもの。あるとすれば、その筆頭に挙げられるのが小野寺系の映画評だろう。『セブン』がハッピーエンドだと評した文はその好例だ。あてずっぽう。あてこすり。無意味。で、無価値。
その小野寺がスター・ウォーズ(以下SW)の新作「最後のジェダイ」評を「リアル・サウンド」にアップした(http://realsound.jp/movie/2017/12/post-141136.html)。
相変わらず全く読む価値の無い代物だが、「最後のジェダイ」ダメだった人々には「藁にもすがる」その「藁」となっているようだ。
世の中にはもうちょっとしっかりした「板」とか「浮き輪」とか、なんだったら「船」もあるが、何故か、この「藁」にすがる人々は後をたたない。
そこで、この「藁」がいかに「藁」なのか、むしろ「錨」であるかを書いていく。
この作業のバカバカしさはまったくやりきれないものだが、こういうことを怠けたおかげで世の「ネトウヨ」なるバカを生み出してきた過去がある。少しづつだか書き進めていくつもりだ。
それにつけてもバカバカしい……
 
前段
オリジナル3部作、プリクエル3部作(小野寺はそれぞれ「旧3部作」「新3部作」と表記)について語っている前段はいったん無視する。細かな認識間違いと知識不足が露呈されているのみだ。多少でもSWに興味があって、成り立ちや制作過程の記事を読んだことのある人なら、ひたすらイライラさせられる文章になっている。
 
「最後のジェダイ」について
今回の「最後のジェダイ」について。上記したように小野寺はSWに興味も無ければ知識も無いまま書き進めていく。

 

 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。

 

>「生々しい殺陣」
Ep4。モスアイズリー港のカンティーナ酒場でルークにケンカを売ろうとした、アゴがお尻(ポンダ・バーバ)の手を切り落とす。以降、オリジナルシリーズでは毎回誰かの手が切り落とされる。ep5ではルークの手。ep6ではダースベイダーの両手。プリクエル3部作では、ダースモール真っ二つ。ドゥークー伯爵の首チョンパ(&ゴロゴロ首)。アナキンの手足を切り落としたオビ=ワンは、その体を溶岩に突き落とすでも助けあげるでもなく、微妙な位置に放置しジリジリと溶岩による遠赤外線加熱で焼けるがままに帰ってしまう。これを残酷と言わずして何を残酷と言おうか!? ちなみに、人体破壊が描かれなかったのはep7のみになる。


>「「特攻」すら辞さない」
オリジナル3部作、反乱軍による攻撃は常に不利な状況だ。ep4、数十機のX-ウィングで向かったデス・スター攻撃だったが、ラストでミレニアム・ファルコン号と共に帰路につくのは数えられる程度である。ep6のデススター攻撃では、バリア破壊を前提とした総攻撃で思った時間にバリアは解除されず、しかもパルパタインによるワナ(It's a Trap!)まで仕掛けられ、タイファイターによる総攻撃に合う。『ローグ・ワン』となると正に「特攻作戦」で登場人物は全員死ぬ。
また、シリーズそれぞれの作品で「死なば諸共」的な描写は度々登場する。どの作品のどの場面でもそうだが日本の「神風特攻隊」のように、はなから特攻が作戦に組み込まれたことは無い(ローグ・ワンの面々も帰るつもりではいた)。それは「最後のジェダイ」でも同様である。

>「ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍」
そもそもep4でのルークはローズよりも「反乱軍の戦士」から遠い存在だった。平凡とされる存在による勇敢な戦いぶりや、上記た残酷な描写はSWシリーズにおける「革新」ではなく「原点回帰」だ。

>「『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。」
しかし、何度読んでも解りづらい文章だ。おそらく「SWファンの象徴的な存在カイロ・レンがダースベイダーのコスプレめいたマスクを捨てた」の意味であろう。だとすれば、この部分には「そうかもね」と言ってあげられるが、しかし読みづらい。
 
 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。

一見、意味があるように思えるこの文章だが実はただただ混乱しているだけの駄文だ。
ここで言われている「表面的なストーリー」とは「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく様子を描いたもので、その「背後に存在するライアン・ジョンソン督の作家宣言」とは、すなわち「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく「表面的なストーリー」で表現されているものだ*1
「三層の構造」ということにして「評価する層が違うから賛否が別れている」と言いたいのかもしれないが、実は同じものを見て評価している。
これ、あたりまえの話だから!
 

そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。

確かにep1で語られるアナキン誕生秘話は聖母マリアの「処女懐胎」なのかもしれない。しかし、「最後のジェダイ」の「「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描く」ってどの場面のこと?
カジノの惑星カント・バイトの、犬っぽいクリチャー、ファジアーの厩舎のこと? 「奇跡」ってホウキを手元にフォースで寄せる場面? それって、あまりに雑な解釈じゃね?
例えば、ファジアーの厩舎で子供が生まれているとか、3人の“賢者”っぽい誰かによる祝福があったとか、それくらいやってようやく「あぁ、これはキリストだね」と言ってあげられるだろう。
もしも、当該ファジアーの厩舎の場面だけで「キリスト誕生」だと言うなら、みずぼらしい場所に子供がいるだけで「キリスト誕生」をなぞった場面ということになってしまう。
 
マジで勘弁してほしい……
この小野寺系というバカの特徴は「表象として現れていない、裏の部分に作品の真意がある」とか「キリスト教になぞらえた何某」みたいなカッコいいことを言おうとして大失敗するところである。理由は明白で、小野寺自身に作品ないしキリスト教についての知識が語れるほど無いのだ。
『セブン』の「神学的な勝利を描いている(から『セブン』はハッピーエンド)」というアゴが外れるような無知を露呈するのも然り。SWでは度々ある肉体破損や特攻場面を「革新的」だと言ってしまうのも然り。
 
この後の段落ではディズニーによる過度なコントロールが悪いと書きながらライアン・ジョンソン作家主義の暴走だ、と一貫性を欠いた文章が続くんだが……
もう、語るまでも無いグダグダ文なんだよなぁ……

*1:私自身はそれほど作家主義が表出しているとは思えないけど

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を罵る人々

私自身の話になってしまうが。とはいえ、ことさらこの場所では私自身の話以外書いたことは無い。と、改めて記しておこう。
 
まず。今回の『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』私のファースト・インプレッションは「面白かった」である。
どのレベルで「面白かった」のか? といえば、例えば『ビッグゲーム 大統領と少年ハンター』やキング原作の方の『セル』、『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』と同じくらい。と言えば解ってもらえるだろうか? とにかく「面白かった」。
 
しかし、これは「スター・ウォーズ」の新作である。「面白かった」では終われない。何しろ私はスター・ウォーズを「愛している」からだ。
 
特定の作品を「愛している」と言った場合、愛に値するほど面白い作品だと思うからこそ、その作品を愛するのであろう。しかし、私のスターウォーズ関連作品に対する愛は少し違う。スターウォーズのシリーズで言えば、最初の『スターウォーズ』、今で言う「エピソード4 新たなる希望」以外は「愛に値するほど」面白いとは思えていない。
 
逆に言えばエピソード1〜3、5〜8の“正史”に加え、『ローグ・ワン』、CGアニメシリーズ、スピンオフのイウォークにレゴなどの映像作品、コミック、ゲームあたりまで(小説はまだ手を出していない)ならまとめて“愛せる”ほど「エピソード4 新たなる希望」が好きなのだ。
今でこそ傑作扱いされている「エピソード5 帝国の逆襲」も公開当時は「パロディだ」と貶されたし「エピソード6 ジェダイの復讐(現:帰還)」もイウォークの登場に「ガキ向けの甘ったるい体に悪い原色のお菓子」だと揶揄された。
当時はまだ小学生だったから、もしかしたらその貶す言葉や揶揄が正しいのかもしれないと思っていた。今ではそれらの言葉を理解はするが、何しろ、アノ「エピソード4」の続きなんだから、それはもう「エピソード4」じゃないか!
 
つまり。例えば。ある人物を好きになる。その人の何から何まで全てが好きでたまらないという人は、あまり多くは無いのではないだろうか?
もちろん、その人の多くの部分に惹かれたからこそ、その人を「好き」だと思っているのだろうが、たとえば「イビキがすごい」とか「たまに人の言ってることを聞いてない」とか、ちょっとカチンと来るところもあるだろう。
しかし、それも含めて「その人」なワケで、ゲームのアビリティのように他人が勝手に「その人」の特徴を挿げ替えられるワケでなし。気に入らない部分だって、引き裂くことの出来ない「その人」の「パーソナリティ」なのだ。
 
と、考えれば『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』に向けられた貶す言葉や揶揄がどういった性質のものなのか理解できるだろう。
 
別れた相手を、こと別れた後に口さがなく罵る人というのがいる。アイツのことだ。