アンハッピーエンド・オブ・ザ・ワールド

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小西康晴2014年度映画観賞リストを見て思ったこと。

10歳くらいの頃。古本屋でぶっ倒れたことがある。気分や体調が悪かったワケでは無い。2メートルほどの高さいっぱいまで伸びた、ぎっしりと本の詰まった本棚の壁に挟まれた幅50センチほど、奥行き2メートル程度の通路に立ち、ふと並ぶ本を見上げ「この壁に詰まっているのは、まだ読んだことの無い話が印刷された本……」と思った瞬間に気が遠くなって倒れた。
 
小西康晴の700本を越える、2014年度の観賞リストが自身のブログに上がっている。(http://blog.honeyee.com/ykonishi/archives/2015/02/07/post-21.htmlズラリと並ぶタイトルは確かに圧巻だが、一つ一つタイトルを見ていくと、そのほとんどが渋谷シネマヴェーラ神保町シアターなど、名画座で特集上映された古い邦画中心なのが解る。
もともと、ピチカート・ファイブはスウィンギング・ロンドンやイエイエなどを90年代に再提示し評価されたグループで、そのフロントマンの小西が古い映画に惹かれるのは、まったくスジが通っている。
しかし、それにしてもこのリストを見るに「あぁ!もったいない!」という思いが溢れてしまう。私自身が貧乏性から劇場で何度も同じ映画を見ないのもあるが、果たしてこのリストの中で、小西自身が「2014年度に初めて目にした映画」が何本あるのだろうか? と思ってしまう。
当該ブログには以下のよう記されている。


何本か二回繰り返して観ているものがある。それは以前に観たことを忘れていたもの。いつも始まってから、コレこの前観た、と気づく。けれども大抵の映画は二度観てもやはり面白い。あまりにも情報量が多過ぎるのが映画というものだ。
 
 
1/3くらいは同意できる。確かに1度見ただけでは観賞しきったと思えない映画はある。しかし、そんな濃度のある映画は多く無い。私も繰り返し映画を見ることはあるが、ほとんどの場合、動きの快楽や知っている展開を同じように味わいたいからで、一度見た映画から、気付けなかった未知の何某かを得ようという意図で見ることはあまり無い。
加えて、小西のリストには『ダーティハリー』に『狩人の夜』、成瀬、深作、石井輝男、イマヘー、カサベテスにチャップリンの長編まで、絶対に1度や2度は目にしているであろう映画もかなり多く含まれている。「二回繰り返して観ているものがある」どころか3度目、4度目の映画もあるだろう。
 
私は小西康晴とは映画に求めるものが全く違うのだなぁ。
 
現在、ヒューマントラストシネマ渋谷で開催されている「未体験ゾーンの映画たち」に出来るだけ通っている。良い評判の映画はもちろんチェックするのだが、海のものとも山のものとも知れない、完全ノーマークな作品との出会いが楽しい。
「未体験ゾーン」は今年で4回目になる。それまでの3回は約20作ほどを日替わりで上映していたのだが、今回は全49作もある。ラッキー・マッキーアベルフェラーラマイケル・ウィンターボトムロン・ハワード(!ドキュメンタリーだけど)の新作まである。しかし、ラインアップの中には全く素生の知れない映画の方が多い。それら知らない映画を「箱の中身はなんじゃろな?」方式で鬼が出るか蛇が出るか盲滅法に見ていく。だいたいファール。良くてポテンヒットだが、稀に観賞した日の印象を底上げするような映画にも出会う。
 
この数年、インド映画に傾倒しているのも全然事情を知らない世界だからというのは大きな要因だ。今でこそ出演者や監督、プロデューサーなどのクレジットから、作品の傾向が知れるものもあるが、それでもまだまだ底知れない映画に出会う。最近の作品はかなり垢ぬけてきているが、ビックリするような奇想天外さを持った映画に出くわす事も多い。
 
新宿ビデオマーケットさんに通うのも同じ理由だ。アメリカはもとより、イタリアやドイツの自主制作ホラー映画や中国の見知らぬカンフー映画に女囚バイオレンス映画。インドネシアパキスタンのホラー映画。埋もれていた70年代ブラックスプロイテーション映画。日本ではリリースされていない日本の映画ソフト。
ツタヤやGAOに並んでいるような映画を、食品衛生法に則って滅菌された、有名メーカーの加工冷凍食品だとすると、新宿ビデオマーケットさんに並んでいるのは、喧騒の中でテントを広げて営業する個人店のクセの強い逸品だ。しかも、行けば必ず、今まで一度も目にしたことの無い映画のソフトが置いてある。そのどれもがホラーかカンフー、どちらでもなければナチかセックスか、いずれかのエクスプロイテーション映画だ。初めてお店へ行った時には幼少のころにぶっ倒れた古本屋を思い出さずにはいられなかった。
 
長い時間を経て研究分析や語る言葉も出尽くして評価の固まった名作を、さらに改めて見て、語りつくされて確定した感想を抱き直すという行為は、子供用にガーターを埋めたレーンでのボウリングのように楽しいものだろう。対して全く知らない世界の映画を見るのは、その観賞時間を丸々損した気持ちになる可能性をそれなりに多く含んだ行為だと言える。
 
私はそれでも知らない映画が見てみたい。