中森明夫氏による『アナと雪の女王』を評したコラムを読んだ。

実は私がもとのブログ(ダイアリーの方)で書いた『ヘルタースケルター』、『桐島、部活やめるってよ』のエントリは中森明夫氏がそれぞれの作品に対して連ツイートした文章への反論として着想している。


基本的に誰かに同意するコミュニケーションが苦手だ。たとえば、私がブログに書いた評に対して「超同意!」と言われたところで、何と返してあげれば良いのか考え込んでしまう。逆に「そこは○○の理由で違うのではないか?」と問われた方が、考え込むにしても明確な方向へ向かって考え込むことが出来る。
自分がそうだから、他の人に対しても自分が好むコミュニケーションを取ってしまう。「それって、やっぱりそうだよね!」と言うよりも「それって、なんか違くない?」と言ってしまいがちだ。
だから、当たっているようで、間違い探しのように自然と間違いが混入された文章に出会うとわくわくしてしまう。中森明夫氏は近年、どんどんと私の好きな文章を書いてくれる。


くだんの『アナ雪』評も私が好きなタイプの文章だ。まず、いきなりこう来る。
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ディズニーといえば、これまで先の白雪姫や眠れる森の美女らをアニメ化して、王子様の愛こそ主人公の女性を幸福にする――という古典的童話の価値観を喧伝してきた。
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ディズニー初の長編アニメ『白雪姫』が1937年。『眠れる森の美女』が1959年。半世紀以上前の、ディズニー第一次黄金期と呼ばれる時期に作られた作品だ。この黄金期には『ピノキオ』『ふしぎの国のアリス』『ファンタジア』『ダンボ』『バンビ』など、ディズニーを代表する作品が作られている。この時代はアメリカでさえまだ家父長制の強い、いわば男の時代だ。そんな時代の映画を「ディズニーといえば~」の代表に掲げてしまうのはかなり乱暴だ。

 

上記した通り、『白雪姫』から『眠れる森の美女』あたりのディズニーは黄金期と言われている。しかし、70年代あたりから他の大手映画会社同様に低迷期を迎える。
そこで、パラマウント映画を立て直した立役者であるジェフリー・カッツェンバーグをCEOに迎えて『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『ライオン・キング』など、近年のミュージカル・アニメの礎を築きディズニーを立て直す。これが第二次ディズニー黄金時代。
カッツェンバーグは外注コーポレーターだったピクサーとの提携で『トイストーリー』などの3DCGアニメーションのムーブメントも興す。ディズニーは最終的にピクサーを吸収し、クリエイティブ部門ピクサー社長だったジョン・ラせターを迎え、破竹の勢いでヒットを飛ばし続けているのが現在だ。かなり大雑把だが、これが『白雪姫』から『アナと雪の女王』までのディズニー史になる。
 
 
時代に応じてディズニー・カンパニーも変わったし、もちろんディズニーを取り巻く世界情勢や社会も変わった。「女は結婚して子供産んでいろ!」なんていう原始人並みの考え方は、いまどき自民党議員くらいしか持っていない。社会に好まれる物語構造だってバリエーションが増える。もちろん『アナ雪』まで、プリンセスは王子のキスを待って延々と寝呆け続けていたワケではない。
1995年の『ポカホンタス』は“王子様”と結ばれるよりも、住み慣れた地で仲間と暮らす方を選ぶし、1998年『ムーラン』には一応“王子様”的な存在はいるものの影はかなり薄い。
2009年『プリンセスと魔法のキス』では最終的な夢となるのは「自分の力でレストランを立ち上げる」ことだし、王子様は貧乏人だし、最終的にはそのレストランでウェイター兼フィドル弾きとして養ってあげまでする。この時点で立場は完全に逆転しているのだ。
さらに2012年『メリダとおそろしの森』では出てくる王子はデクノボウばかりでロマンスは消え失せる。劇中では男勝りなメリダが意図せず自分でかけてしまった母の呪いを解くために自ら馬を駆り、弓を射る大活躍を見せる。
同じ2012年『シュガーラッシュ』では遂に王子は消え失せる。ヴィランの策略にハマり記憶と地位を失ったヴェネロペは、対決の末にプリンセスの地位を取り戻すがプリンセスである“特性”よりも、放逐者であった頃の“特性”を選ぶ。
中森氏の書くようにディズニーは「古典的童話の価値観を喧伝し」続けたワケでは無い。むしろ、約20年(20年!)の長きにおいて、プリンセスたちは主体的に行動し続けてきていたのだ。
 

中森氏のコラムはここから五里霧中の中へ飛び込んでいく。
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 さて、ここで私独自の見解を明らかにしよう。『アナと雪の女王』は、真実の愛=姉妹の愛を訴えた映画では、ない。雪の女王エルサと妹アナは、見かけは姉妹だが、実は一人の女の内にある二つの人格なのだ。
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これ、もっともらしく聞こえるかもしれないけれど、本作で描かれる“愛”を踏まえると、本当に何言ってんだかわっかんなくなる。
エルサは自らの能力のせいで、アナの“ハート”を氷漬けにしてしまう。魔法世界に詳しいトロールによると氷を溶かすには“真実の愛”が必要だと言われる。クライマックスで、身を呈してエルサを守り氷の塊となったアナ。エルサは自分のために死んでしまったアナを想い、涙を流すと、アナの氷が溶けて生き返る。
アナとエルサが「一人の女性に内在する2つの自我」だとすると“真実の愛”とは「自分のことを死ぬほど愛する」ということになってしまう。
現代女性は老いも若きも、自分自身だけを愛していれば良いのだと『アナ雪』に肯定されて清々しく劇場を後にしたのであれば、あまりにグロテスクだ。
 
 
本当の“真実の愛”とはなんたるか? をひも解くヒントは当然劇中にある。別に隠しているワケでも難解なワケでも無く、非常に解りやすくセリフとして語られもする。
エルサの冷気を“ハート”に浴びてしまい、しだいに弱まるアナ。エルサを追って自分の城に戻るが謀反を起こしたハンスにより、雪だるまのオラフと共に一室に幽閉されてしまう。オラフは彼女を温めるために暖炉に火をくべる。
オラフの身を呈した行動こそが、後のアナの行動に繋がり、“真実の愛”とは「自分以外の誰かのために死んでもイイと想う気持ち」だと語られるのだ。


コラムはさらに、吹き替え版アナの声優を務めた神田沙也加の母、松田聖子について、昔のことだから誰も解らないだろうと踏んだのか、かなりテキトーに続ける。
 
 
が、今日はこのくらいにしといたらぁ。

木梨憲武とアート

私は「フミヤート」が誕生した瞬間を覚えている。その記憶がなぜ強く残っているのかといえば、当時人気だったグラフィックデザイナーのデザインにあまりに酷似…… というか、ほぼ完コピの作品に「フミヤート」の看板が掲げられていたショックからだ。
当時、まだそれほど一般的ではなかった「マッキントッシュを使ったデザイン」について、フミヤが当該人気デザイナーと交流があったことはそれなりに知られた話だった。なので、当然フミヤが「パクっている」ことは「暗黙の了解」もしくは「商取引成立」だという認識だった。それにしたって、あまりにアンマリそのまんまであったショックは今でも思い出せる
余談だが、あの当時フミヤがホストを務めた「藤井流」というトーク番組で工藤静香がゲスト出演した際に「僕たち絵が描けてよかったよね~」とカマした回はナンシー関に取り上げられている。


あれから十数年。 とんねるず木梨憲武の個展『木梨憲武展×20years Inspiration -瞬間の好奇心-』が、上野の森美術館での展示を終えて、金沢の21世紀美術館に場所を移して催されるそうだ。花や丸みのあるモチーフにカラフルな色使いなど、個々に見ればいかにもテレビでの「ノリさん」キャラクターがにじみ出た作品に見える。

しかし、私はこの展覧会の広告を見た時「フミヤート」を初めて見た時と同じ、もしくはそれ以上のショックを味わう羽目になった。
 
 
キャンバスに四角く色を塗っただけの抽象画はマーク・ロスコであろう。
ざっくりとした線で描いた木や、バランスの悪い動物イラストの横に英字のメッセージをコラージュするのはバスキア。
同じモチーフの繰り返しや馬簾に絵具を着けてポンポンとキャンバスにパンジーの花の様な模様を描くのは、ずばり小学生の図画工作の課題であり、ダミアン・ハーストのスピン・ドローイングと変わらぬ「簡単にカラフルな模様がそれっぽく描ける」情操教育だ(実際、馬簾アートは私も小学生のころやった記憶がある)。
キャンバスをビッチリと抽象的なモチーフで埋めていくのはジミー大西やアール・ブリュットなどの偏執的な作品の特徴だ。まぁ、木梨作品にはアール・ブリュットの持つ突拍子もない魅力は取り込めておらず、派手な包装紙程度の印象しか持てないが。


「絵を描く芸能人」は少なくない。上記した藤井フミヤ工藤静香ジミー大西古くは八代亜紀加山雄三片岡鶴太郎最近だとイラスト仕事もこなすしょこたんこと中川翔子などなど、枚挙に暇がない。
彼らと木梨には絶対的な違いがある。
工藤静香は写実的だがフェミニンでファンタジックな作品。ジミー大西は完全にアール・ブリュット(別名アウトサイダーアート)。八代、加山は写実の静止画や風景画。鶴太郎は水彩の日本画しょこたんはアニメ系イラスト。パクリから始まった「フミヤート」でさえ、PCで描く特有の無機質な線という独自のタッチが認められる。つまり、それぞれ作者の明確な記名性があるのが解る。
 

ウェブで見れる木梨作品はそれほど多くないのだが、それでも見れた数作で、それぞれのパクリ元が見つけられるという事態は『エクジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のMr.ブレインウォッシュそのままだ。
Mr.ブレインウォッシュはバンクシーや「OBEY」のシェパード・フェアリー、そして定番のアンディ・ウォーホルと臆面も無く喰い散らかし、それを隠そうともしない。むしろネタ元があることを前提とした創作活動をしている。
バンクシーも映画の中で、Mr.ブレインウォッシュの“作風”について苦言を呈している。自分も含めた各芸術家たちが、苦悩し、頭をひねり、試行錯誤を重ね、ようやくモノにした自分のスタイルを、料理のレシピかゲームの攻略本のように苦労もせずにさらって行く。そして、そのことに気付いてもなおMr.ブレインウォッシュの作品に価値があるとする現代アートを取り巻く世界の問題を提示する。


少し前に、ツイッターで美術館キュレーターだったか美術評論家だったかの言葉がリツイートで回ってきた。
金持ちの親で、自分の子供がどうにもならなさそうだったら、美術大学に放り込めば現代芸術家になれる。といった内容だった。どんなに馬鹿でも、芸術的な才能が無くても、金とヒマがあって、パクリや幼稚で凡庸な作品を胸張って発表する度胸と厚顔ささえあれば、あとは評論家がコンテキストをこねくりまわしてデッチあげ、見事新進気鋭の現代アーティストの誕生となる。
つまり、価値の無いものに対し、いかに価値があるかを後から文章で補うという構造こそが「現代アート」ということになる。

 
そう考えると「木梨アート」の空虚さは実に「木梨らしい」記名性があるように思える。
価値の無いものに価値があると嘯いて、架空の好景気に沸いたバブル時代の寵児とんねるず。そのメンバーの木梨憲武が描くのは、過去の偉大なアーティストが苦悩の末、もしくは超然的ひらめきの結果として生み出した技法を横から手を伸ばして奪ったパクリ作品。もちろんその成果物に芸術的な価値なんか無いが、価値の無いものに価値があると言い続けてきた木梨にとって苦労の末に自分独自のタッチを取得したり、木梨以外には考えつかない個性的なひらめきこそ無価値なのだ。
 
 
むろん。私は木梨作品が目の前にころがっていたら、またいで通り過ぎるのみだが。