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木梨憲武とアート

私は「フミヤート」が誕生した瞬間を覚えている。その記憶がなぜ強く残っているのかといえば、当時人気だったグラフィックデザイナーのデザインにあまりに酷似…… というか、ほぼ完コピの作品に「フミヤート」の看板が掲げられていたショックからだ。
当時、まだそれほど一般的ではなかった「マッキントッシュを使ったデザイン」について、フミヤが当該人気デザイナーと交流があったことはそれなりに知られた話だった。なので、当然フミヤが「パクっている」ことは「暗黙の了解」もしくは「商取引成立」だという認識だった。それにしたって、あまりにアンマリそのまんまであったショックは今でも思い出せる
余談だが、あの当時フミヤがホストを務めた「藤井流」というトーク番組で工藤静香がゲスト出演した際に「僕たち絵が描けてよかったよね~」とカマした回はナンシー関に取り上げられている。


あれから十数年。 とんねるず木梨憲武の個展『木梨憲武展×20years Inspiration -瞬間の好奇心-』が、上野の森美術館での展示を終えて、金沢の21世紀美術館に場所を移して催されるそうだ。花や丸みのあるモチーフにカラフルな色使いなど、個々に見ればいかにもテレビでの「ノリさん」キャラクターがにじみ出た作品に見える。

しかし、私はこの展覧会の広告を見た時「フミヤート」を初めて見た時と同じ、もしくはそれ以上のショックを味わう羽目になった。
 
 
キャンバスに四角く色を塗っただけの抽象画はマーク・ロスコであろう。
ざっくりとした線で描いた木や、バランスの悪い動物イラストの横に英字のメッセージをコラージュするのはバスキア。
同じモチーフの繰り返しや馬簾に絵具を着けてポンポンとキャンバスにパンジーの花の様な模様を描くのは、ずばり小学生の図画工作の課題であり、ダミアン・ハーストのスピン・ドローイングと変わらぬ「簡単にカラフルな模様がそれっぽく描ける」情操教育だ(実際、馬簾アートは私も小学生のころやった記憶がある)。
キャンバスをビッチリと抽象的なモチーフで埋めていくのはジミー大西やアール・ブリュットなどの偏執的な作品の特徴だ。まぁ、木梨作品にはアール・ブリュットの持つ突拍子もない魅力は取り込めておらず、派手な包装紙程度の印象しか持てないが。


「絵を描く芸能人」は少なくない。上記した藤井フミヤ工藤静香ジミー大西古くは八代亜紀加山雄三片岡鶴太郎最近だとイラスト仕事もこなすしょこたんこと中川翔子などなど、枚挙に暇がない。
彼らと木梨には絶対的な違いがある。
工藤静香は写実的だがフェミニンでファンタジックな作品。ジミー大西は完全にアール・ブリュット(別名アウトサイダーアート)。八代、加山は写実の静止画や風景画。鶴太郎は水彩の日本画しょこたんはアニメ系イラスト。パクリから始まった「フミヤート」でさえ、PCで描く特有の無機質な線という独自のタッチが認められる。つまり、それぞれ作者の明確な記名性があるのが解る。
 

ウェブで見れる木梨作品はそれほど多くないのだが、それでも見れた数作で、それぞれのパクリ元が見つけられるという事態は『エクジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のMr.ブレインウォッシュそのままだ。
Mr.ブレインウォッシュはバンクシーや「OBEY」のシェパード・フェアリー、そして定番のアンディ・ウォーホルと臆面も無く喰い散らかし、それを隠そうともしない。むしろネタ元があることを前提とした創作活動をしている。
バンクシーも映画の中で、Mr.ブレインウォッシュの“作風”について苦言を呈している。自分も含めた各芸術家たちが、苦悩し、頭をひねり、試行錯誤を重ね、ようやくモノにした自分のスタイルを、料理のレシピかゲームの攻略本のように苦労もせずにさらって行く。そして、そのことに気付いてもなおMr.ブレインウォッシュの作品に価値があるとする現代アートを取り巻く世界の問題を提示する。


少し前に、ツイッターで美術館キュレーターだったか美術評論家だったかの言葉がリツイートで回ってきた。
金持ちの親で、自分の子供がどうにもならなさそうだったら、美術大学に放り込めば現代芸術家になれる。といった内容だった。どんなに馬鹿でも、芸術的な才能が無くても、金とヒマがあって、パクリや幼稚で凡庸な作品を胸張って発表する度胸と厚顔ささえあれば、あとは評論家がコンテキストをこねくりまわしてデッチあげ、見事新進気鋭の現代アーティストの誕生となる。
つまり、価値の無いものに対し、いかに価値があるかを後から文章で補うという構造こそが「現代アート」ということになる。

 
そう考えると「木梨アート」の空虚さは実に「木梨らしい」記名性があるように思える。
価値の無いものに価値があると嘯いて、架空の好景気に沸いたバブル時代の寵児とんねるず。そのメンバーの木梨憲武が描くのは、過去の偉大なアーティストが苦悩の末、もしくは超然的ひらめきの結果として生み出した技法を横から手を伸ばして奪ったパクリ作品。もちろんその成果物に芸術的な価値なんか無いが、価値の無いものに価値があると言い続けてきた木梨にとって苦労の末に自分独自のタッチを取得したり、木梨以外には考えつかない個性的なひらめきこそ無価値なのだ。
 
 
むろん。私は木梨作品が目の前にころがっていたら、またいで通り過ぎるのみだが。