聖なるペテン師の腐敗撫で斬り大無双『ベネデッタ』

『ベネデッタ』鑑賞。

 
どの業界でもそうなのかもしれないが、私のいるデザイン業界では大なり小なり胡散臭い人物と付き合うハメになる。
とある大手玩具メーカーと仕事をしていた頃にいたデザイン事務所では、初老の仲介役がそうだった。大ヒットした玩具はおおむね「あぁ、あれはオレが持ち込んだ企画だ。」と鼻を穴を広げ、当時まだ若かったコワッパの私を見下すように言ったものだ。
最初の内こそ「はぁ、そうなんですか。」と別に反論する知識も情報も無いので素直に感心していたが、なんぼなんでも何から何まで「オレが持ち込んだ」仕事だらけで、流石にいぶかしみ始めた。
ガンダムな。あれはオレが名付けた。当時チャールズ・ブロンソンの「マンダム」が流行ってたんで、そこから付けた。」
と言い出すに至り「あぁ、この人の話は全部ウソなんだな」と腑に落ちたものである。
 
『ベネデッタ』だ。ベネデッタが幼いうちに投げ込まれるように預けられた修道院は、その神聖さとはほど遠い、金と欺瞞に溢れた場所だった。その中で同性愛者としてのセクシャリティに目覚め、そのリビドーに従順に従っていたら、何だかメキメキと出世を果たす。という性欲版「無責任男」のような話だ。
 
まず、キリスト教は比較的歴史が浅く、その聖典はエジプト神話のエピソードを中心に編纂された当時の奴隷用の宗教だ、という話はよく聞くところだろう。
また、宗教画にあるような手の平に杭を打ち込む磔だと、自重で手を割いて取れてしまうので、手首に打ち込むのがキリストがいたとされる時代の「磔刑である。
 
このように、そもそもキリスト教というものが時の権力者の思惑に沿って作られ、勘違いによって補強された、作品中のベテデッタそのもののような宗教だと言える。
 
そのベネデッタを描いたのがポール・バーホーベンだ。
 
氷の微笑』や『ショーガール』などで、目的のためなら手段は選ばない女性を、下品な手段を選んで描写してきたバーホーベンである。
『ベネデッタ』では開幕早々、鳥のフンによる奇跡を描いた返す刀で、尻から火を吹く大道芸人を登場させる。クソから屁へ繋ぐ見事な構成だ。
 
さらに聖母マリア像にベネデッタを押し倒させると、すかさずベネデッタは聖母の乳首に吸い付く。さらに聖母は見事な聖具(せいぐ)へ姿を変える。
聖母にことごとくセックスのイメージをぶつけていくのだ。これは誤訳により「処女懐胎」の伝説を持ってしまった聖母マリア様の開放と言えるだろう。
 
また、バーホーベンはベネデッタの“奇跡”を必ず写さない。聖痕が現れる瞬間、必ずカメラはそっぽを向いている。その一方でベネデッタが見たと言うキリストとの出会いは克明に描いていく。キリストが悪人をバッタバッタと切り倒し、ベネデッタを抱き寄せキスまでする。
つまり、バーホーベンはベネデッタにガッチリ肩を組んで寄り添い、その“犯行”の手助けをしていると言えるだろう。
 
そうやって描くのは教会のたかり体質と腐敗だ。まず、ベネデッタの受け入れの持参金を競売のようにセリ上げる院長に始まり、聖痕が現れたと嘯くベネデッタを利用して収益アップと出世を狙う教区長。ペスト流行の中、愛人に子供を孕ませたことを隠そうともしない教皇大使。
彼らが対峙するベネデッタは、性に目覚めたものの神への愛も持ったまま、幻視と度胸と行動力で齟齬をうっちゃり続けていく。そして、共犯者バーホーベンはその様子を爽快感をもって描き、見事な快作として纏め上げているのである。
 
ちなみに。前出の自称ヒット作だいたい絡んでる仲介役は、実際に仕事を事務所にそうとう落としていった実績もあって、役員たちも軒並み頭の上がらない存在であった。