人がスターウォーズを愛することのどうしようもなさ『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』

 

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』を観た。
 
私は映画好きで、最近は忙しくてそれほど本数は観れていないが、それでも月に6〜7本は劇場で映画を観るし、好きが高じて映画ライターのようなこともしている。スター・ウォーズについてはギャラの発生する文章を書いたこともある。
その上でスター・ウォーズ作品について「評価をする」ような文章を書くことは、躊躇せざるをえない。プリクエル/シークエルについては特にそうだ。
 
プリクエル/シークエルの「映画」としての出来について「映画ライター」の立場で評価をすれば、それなりに厳しい言葉が並ぶものになる。そうしなければ「映画ライター」としての信用が無くなってしまうからだ。
しかし、私はスター・ウォーズを愛している。愛している対象について厳しい言葉をかけるのは、自分自身を痛めつけるようなものだ。
良いところだけを書けば良いのであれば、私にとっては気持ちの良いものになるが「批評」ないし「良い評文」にはならない。だからしたくない。
 
これが私の「スター・ウォーズについて書く」ことについての偽らざる心境だ。
 
ツイッターで『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の感想が視界に飛び込んでくる。「良かった!」「感慨一入!」といった言葉には、目を細め、心穏やかに眺めている。
しかし、厳しい言葉も少なくない。他人が一般公開された映画について、何をどう語ろうと自由だ。しかし、やはり口さがない言葉には心を痛めてしまう。
特に、認識不足、誤認、いいがかり、あてこすりの“しょーもない言葉”には、その浅薄さを力いっぱいに殴りつけてやりたいという衝動に駆られる。
 
私はこの先、何度も『スカイウォーカーの夜明け』を観るだろう。それは『スカイウォーカーの夜明け』が好きだからではない。スター・ウォーズが好きなのに『スカイウォーカーの夜明け』のことを素直に、愛してあげることが出来ていないからだ。
 
「愛」という言葉を、多くの人は誤解しているような気がする。
「愛」は一目惚れのような感覚では無い。「一目惚れ」は「愛」へのきっかけにはなるが「愛」そのものでは無い。
好ましいと思う対象を見つけ、もっと良く知りたいと思い、対象と深く付き合っていく。すると大概、好きだと思う気持ちを揺るがすような欠点も見えてくる。そこで「好き」という感情を辞めてしまう人もいる。バックラッシュ的に「嫌い」へ舵を切り直す人もいる。しかし、その欠点も踏まえて「好き」であろうと決める人もいる。
そういった人の、対象に対する「好き」な想いが「愛」だ。
 
「愛」とは「好き」も「嫌い」も含めた上で、その対象を「好き」で居続けようとする想いだ。なので「こんなヒドいところがある」といった言葉は、対象を愛する人にとって「え!そうなの! じゃあ、もう好きで居続けるのは辞めだ!」とはならない。
「知ってるよ。でも好きだ。」という想いこそが「愛」だからだ。
 
これは家族や長く連れ添ったパートナーに対する想いに似ているだろう。
家族、特に親であれば付き合いも長い。自分に対して良くしてくれていることも実感しているが「あぁイヤだな」と思うことだってある。時には愚痴として誰かにこぼすこともあるだろう。
だからと言って、自分以外の人が家族やパートナーに対して口さがない言葉を言っていたり、聞かされたりしたら、それなりにイヤなものだ。それが“しょーもない言葉”だったら尚のこと。
 
この先『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』について思ったことをツイッターなどで発信する人も多いだろう。中には否定的なものもあることは想像に難しくない。しかし、その否定的な言葉は多くの場合、スター・ウォーズを愛している人にとって、思いもよらない発見的なまでに新しいものでは無い。
「もう、それわかっているから。何を今さら鼻の穴おっぴろげてミジメなクリシェを開陳してんだ。」と。その程度のものだ。誰かにとっては愛を揺るがすようなものかもしれない。それは、その人の愛がそこまでのものだったダケだ。
 
上記した通り、誰が何をどう語ろうと自由だ。しかしスター・ウォーズに関して言えば、その言葉はいたずらに私を痛めつけるもので、“しょーもない言葉”であった場合には、私の手の届く範囲にいれば、比喩では無く、力いっぱいに殴りつけるだけのこと。
手が届かなければ、比喩表現として「力いっぱいに殴りつける」だろう。
 
「愛」とは外側から見れば不可解で理不尽なものなのだ。