「小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?」はいかに駄文か。

 
この世の中にとって全く価値の無いもの。あるとすれば、その筆頭に挙げられるのが小野寺系の映画評だろう。『セブン』がハッピーエンドだと評した文はその好例だ。あてずっぽう。あてこすり。無意味。で、無価値。
その小野寺がスター・ウォーズ(以下SW)の新作「最後のジェダイ」評を「リアル・サウンド」にアップした(http://realsound.jp/movie/2017/12/post-141136.html)。
相変わらず全く読む価値の無い代物だが、「最後のジェダイ」ダメだった人々には「藁にもすがる」その「藁」となっているようだ。
世の中にはもうちょっとしっかりした「板」とか「浮き輪」とか、なんだったら「船」もあるが、何故か、この「藁」にすがる人々は後をたたない。
そこで、この「藁」がいかに「藁」なのか、むしろ「錨」であるかを書いていく。
この作業のバカバカしさはまったくやりきれないものだが、こういうことを怠けたおかげで世の「ネトウヨ」なるバカを生み出してきた過去がある。少しづつだか書き進めていくつもりだ。
それにつけてもバカバカしい……
 
前段
オリジナル3部作、プリクエル3部作(小野寺はそれぞれ「旧3部作」「新3部作」と表記)について語っている前段はいったん無視する。細かな認識間違いと知識不足が露呈されているのみだ。多少でもSWに興味があって、成り立ちや制作過程の記事を読んだことのある人なら、ひたすらイライラさせられる文章になっている。
 
「最後のジェダイ」について
今回の「最後のジェダイ」について。上記したように小野寺はSWに興味も無ければ知識も無いまま書き進めていく。

 

 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。

 

>「生々しい殺陣」
Ep4。モスアイズリー港のカンティーナ酒場でルークにケンカを売ろうとした、アゴがお尻(ポンダ・バーバ)の手を切り落とす。以降、オリジナルシリーズでは毎回誰かの手が切り落とされる。ep5ではルークの手。ep6ではダースベイダーの両手。プリクエル3部作では、ダースモール真っ二つ。ドゥークー伯爵の首チョンパ(&ゴロゴロ首)。アナキンの手足を切り落としたオビ=ワンは、その体を溶岩に突き落とすでも助けあげるでもなく、微妙な位置に放置しジリジリと溶岩による遠赤外線加熱で焼けるがままに帰ってしまう。これを残酷と言わずして何を残酷と言おうか!? ちなみに、人体破壊が描かれなかったのはep7のみになる。


>「「特攻」すら辞さない」
オリジナル3部作、反乱軍による攻撃は常に不利な状況だ。ep4、数十機のX-ウィングで向かったデス・スター攻撃だったが、ラストでミレニアム・ファルコン号と共に帰路につくのは数えられる程度である。ep6のデススター攻撃では、バリア破壊を前提とした総攻撃で思った時間にバリアは解除されず、しかもパルパタインによるワナ(It's a Trap!)まで仕掛けられ、タイファイターによる総攻撃に合う。『ローグ・ワン』となると正に「特攻作戦」で登場人物は全員死ぬ。
また、シリーズそれぞれの作品で「死なば諸共」的な描写は度々登場する。どの作品のどの場面でもそうだが日本の「神風特攻隊」のように、はなから特攻が作戦に組み込まれたことは無い(ローグ・ワンの面々も帰るつもりではいた)。それは「最後のジェダイ」でも同様である。

>「ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍」
そもそもep4でのルークはローズよりも「反乱軍の戦士」から遠い存在だった。平凡とされる存在による勇敢な戦いぶりや、上記た残酷な描写はSWシリーズにおける「革新」ではなく「原点回帰」だ。

>「『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。」
しかし、何度読んでも解りづらい文章だ。おそらく「SWファンの象徴的な存在カイロ・レンがダースベイダーのコスプレめいたマスクを捨てた」の意味であろう。だとすれば、この部分には「そうかもね」と言ってあげられるが、しかし読みづらい。
 
 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。

一見、意味があるように思えるこの文章だが実はただただ混乱しているだけの駄文だ。
ここで言われている「表面的なストーリー」とは「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく様子を描いたもので、その「背後に存在するライアン・ジョンソン督の作家宣言」とは、すなわち「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく「表面的なストーリー」で表現されているものだ*1
「三層の構造」ということにして「評価する層が違うから賛否が別れている」と言いたいのかもしれないが、実は同じものを見て評価している。
これ、あたりまえの話だから!
 

そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。

確かにep1で語られるアナキン誕生秘話は聖母マリアの「処女懐胎」なのかもしれない。しかし、「最後のジェダイ」の「「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描く」ってどの場面のこと?
カジノの惑星カント・バイトの、犬っぽいクリチャー、ファジアーの厩舎のこと? 「奇跡」ってホウキを手元にフォースで寄せる場面? それって、あまりに雑な解釈じゃね?
例えば、ファジアーの厩舎で子供が生まれているとか、3人の“賢者”っぽい誰かによる祝福があったとか、それくらいやってようやく「あぁ、これはキリストだね」と言ってあげられるだろう。
もしも、当該ファジアーの厩舎の場面だけで「キリスト誕生」だと言うなら、みずぼらしい場所に子供がいるだけで「キリスト誕生」をなぞった場面ということになってしまう。
 
マジで勘弁してほしい……
この小野寺系というバカの特徴は「表象として現れていない、裏の部分に作品の真意がある」とか「キリスト教になぞらえた何某」みたいなカッコいいことを言おうとして大失敗するところである。理由は明白で、小野寺自身に作品ないしキリスト教についての知識が語れるほど無いのだ。
『セブン』の「神学的な勝利を描いている(から『セブン』はハッピーエンド)」というアゴが外れるような無知を露呈するのも然り。SWでは度々ある肉体破損や特攻場面を「革新的」だと言ってしまうのも然り。
 
この後の段落ではディズニーによる過度なコントロールが悪いと書きながらライアン・ジョンソン作家主義の暴走だ、と一貫性を欠いた文章が続くんだが……
もう、語るまでも無いグダグダ文なんだよなぁ……

*1:私自身はそれほど作家主義が表出しているとは思えないけど