http://realsound.jp/movie/2017/01/post-3876_2.html
マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』。
私自身はキリスト教についての知識は通り一遍(かどうかも怪しい)程度しか無いが、少なくともこの映画が「神の沈黙」をテーマにしていることは理解している。
キリスト教において「神の沈黙」と言った場合、例えば酷い災害や信じられないような非道な人間による犯罪に対して「全知全能であるハズの神さまは、この事態をなぜ放っておくのか? なぜ沈黙したままなのか?」という問題のことだ。
で、これを踏まえて小野寺の評を振り返ってみると、ものの見事に「沈黙」の意味を履き違えているのが解るだろう。
遠藤周作は、キリストや神が、真に尊敬するべき存在であるとすれば、そういう者をこそ救ってくれるべきだと考えた。だから絵を踏む瞬間にだけキリストが沈黙を破り、「踏むがいい」と語りかけるのである。 そして、場合によっては、神の存在を声高に叫ぶことなく「沈黙」する行為にこそ、神と人が真につながることができるという結論へと、物語はたどり着く。
相変わらず自説のために史実や事実をネジ曲げがてら、とうとう勝手に遠藤周作を代弁しちゃっているwww 「救ってくれるべきだと考えた」じゃねえっつうのwww
そして、タイトルの「沈黙」を信者側の「沈黙」だと思い込んじゃっているwww
★今日の小野寺系
相変わらず、ルターや親鸞まで持ち出し、意味が有り気なことは書いているが、その実、まったく意味がない。しかも間違っている。勘違いしている。
相変わらず、ルターや親鸞まで持ち出し、意味が有り気なことは書いているが、その実、まったく意味がない。しかも間違っている。勘違いしている。
これらから、小野寺が『セブン』における「神学的勝利」とは何なのか、頑なに「沈黙」を守っている理由も見えてくるのではないだろうか?
つまり「知らなかった」のだ。
おお、神よ、彼は自分が何をしているのか理解していないのです!