小野寺系は今日も意味が無い 〜『バーフバリ 王の凱旋』篇〜

http://realsound.jp/movie/2018/01/post-145508.html

 

 音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレンドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」をかたちづくる。

 

ハイ! 出ました! インド映画における9つのナバラサ! これ、日本だけで流通している「インド映画論」で、日本のインド映画研究の第一人者がインド映画を語る際に言ってたりするので「そういうものがある」ように思われているけど、実は第一次ソース(英語・ヒンディー語での論文など)が存在していない。

ただ「日本のインド映画研究の第一人者」の用法をよく読むと、印象の比喩として使っているだけで、小野寺の用法は誤用なのが解る。
 
驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。
 
インド映画をそれなりに観ているひとにとって、この文章は失笑ものだろう。
最近は短くなってきているインド映画だが、インターミッションを挟んだ2部構成になっている作品はまだ多い。そんな作品は大概、映画冒頭で2部目のオープニングにあたる場面を描き、1部目ではその場面に至る回想を描く、いわゆる「次回へ引っ張る」サスペンスものの構成となっている。
「バーフバリ」は、そのインド映画的なサスペンス構造をなぞっているので、回想ばっかりだと言っても、特に珍しいものでは無い。
『きっと、うまくいく』を思い出してみればよく解るだろう。映画は「ランチョーが帰ってきた!」から始まるランチョー探しを軸としながら、メインは回想で語られる学生時代のエピソードだ。
 
母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。
 
言やぁイイってもんじゃないぞwww 意味が通じないんだよwww「シヴァガミへの忠節と献身」って古色蒼然としたインド的家族観の現れ(親と先祖に感謝しろ! 割り切れなくても感謝しろ!)なので「進歩的なグローバリズムの真逆だしwww なにが「圧倒的な「美」」だよwww
 
煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。
 
言やぁイイってもんじゃないぞシリーズ。心象風景を実景に作り込んでいるワケじゃないし、キメ絵がかっこいいのは「表現主義」じゃなくて、むしろ印象派じゃね?www 要は「ドイツ表現主義」とか言いたいだけなんだよねwww 「表現主義」が何なのかよくわかって無いのにwww
 
過激なまでに迷いなく娯楽表現への道を突き進む…そういう姿勢こそが、黒澤映画より受け継いだ『スター・ウォーズ』の本質ではないだろうか。
 
スターウォーズの新作を貶したいダケなんだろうけど、クロサワとかルーカスを引き合いに出すのは、彼にインド映画、ひいては映画を語る(原稿料を貰って書くプロとしての)素養が全く無い証左だ。
小野寺は果たしてインド娯楽映画をいかほど観ているのだろうか? 
近年のサンジャイ・リーラー・バンサーリー作品や古典的名作『偉大なるムガル帝国』は? わざわざボリウッド映画では無いと書き出したなら当の南インド画の王道、Jr NTRやビジャイなど南インドのスター映画は?
おそらくこれらの作品は観ていないだろう。
すくなくとも上記した作品“だけ”でも観ていれば「バーフバリ」が連綿と紡ぎ続けられた「インド娯楽作品の本質」を引き継ぎつつ、ハリウッド大作の外装(VFXやCG技術)を纏った、アップ・トゥ・デイトなインド的大作映画だという結論が出るハズ。
 
★今日の小野寺系
今回の『バーフバリ』の文章は彼のたくさんある悪癖がバランスよく配置された、実に「小野寺系らしい」文章である。
見識の無さと、それを補おうとしない厚顔さ。勘違い。文学的言い回しの誤用。知ったかぶり。
ちなみに『バーフバリ』連作は近年のツイ・ハーク作品に似た、娯楽性を最優先で通して道理と退屈を引っ込めた大傑作なので、観た方がイイです。そうすれば「インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」」なんていう文章は、水虫がこいた屁のように思えるから。