評論家の仕事は総じて楽だ。リスクも少なく立場は常に有利だ。
作家と作品を批評するだけだし、辛口の批評ならばそれは我々にも読者にも愉快なものだ。
だが評論家は知るべきだ。
“平凡だ”と書く評論よりも、平凡な作品の方が意味深い事を。
だが、我々もリスクを冒す時がある。
新しい物を発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため、支持者が必要だ。~『レミーのおいしいレストラン』より~
『HiGH & LOW THE MOVIE』である。
まず、アクション・シーンは文句なく高レベルだ。終盤、両側をコンテナで限定した、細長く高低差のある空間で繰り 広げられる大人数での格闘は画面に細かなメリハリを生んでいる。
例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』の合戦シーンは広大な場所 で、しかもその場所を埋め尽くす人数が大合戦を繰り広げるが、広 さゆえに印象は記号化して「一つの大きな戦い」に見える。世界大戦映画で地図の上を矢印が伸びていく、あの記号とほぼ同じだ。その中でギムリやレゴラスがど んな戦いをしているのかは、クローズアップで確認することになる 。
一方、『HiGH & LOW THE MOVIE』の場合、大きなスクリーンのそこかしこで、山王や鬼 邪高、RUDE BOYSなどなどがそれぞれのスタイルで戦っており、それぞれの姿が一つ の画面の中に混在している。スクリーンのアッチやコッチをキョロ キョロと見回し、大ケンカ・パノラマを楽しむことは映画館の大き なスクリーンでしか味わえない“映画的快楽”だろう。
さらに、その大モブ格闘を前フリにした、超大友情フラッシュバッ クがクライマックスとなる。マイティ・ウォリアーズとダウトにS WORDを襲わせていた琥珀さんに、MUGENの仲間だった九十九が 、そして彼らにあこがれていた山王のヤマトとコブラが、それぞれ がそれぞれの琥珀との思い出話をフラッシュバックで語っていく。
琥珀さんにとって最大の負い目である「龍也の死」は最大限に利用され、クドいくらい繰り返し車に轢かれる瞬間が登場する。
さらに、この“人情攻撃”でうなだれる琥珀さんの様子は「琥珀が落ちた!」と、 外で乱闘をする敵味方に伝えられる。すると、SWORDたちは勝 どきを上げ、マイティ・ウォリアーズやダウトたちは舌打ちしつつ 引き上げる。
普通、ケンカ対決と言えば、殴り倒して動かなくなるとか、死 んでしまうとか、肉体的な屈服こそが勝敗の決め手になる。相手の 弱みや良心をゆさぶることはあっても、むしろその心的な揺れをケ ンカに比喩するものだ。
というのは、もちろん「穿った見方」になるのだが、一応物語として成立する。おそらく作り手はそういっ た見方をさせようとはしていない。もっと単純に「 琥珀さんをケンカ的な表現以外で、かつての仲間に負けさせる方法」を突き詰めての展開であろう。その選択は作品に特出したいびつさを孕ませている。
映画において「特出したいびつさ」はソッコーでMEME化/ネタ化される。たとえば『ロッキー・ホラー・ショー』はキャンプないびつさがネタ化されたことで、従来の映画の楽しみ方とは違った「参加型映画」へと進化を遂げた。
ジョーン・クロフォード自伝の映画化『愛と憎しみの伝説』や、エドウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』などは、出来の悪いいびつさからMEME化した作品の代表だろう。ワイヤー!ハンガーを!つかうな!
『HiGH & LOW THE MOVIE』も出来の悪い作品である。しかし、上記したように素晴らしく出来の良い場面もある。このバランスを欠いた「特出したいびつさ」が多くの人を惹きつけている。終盤の大友情フラッシュバックのたたみかけがMEME化し、自分の強い思いをすべて琥珀さんに向けて叫ぶ(琥珀さんのせいにする)ネタとなっている。
主体的な参加によって、判官贔屓的心情が起こっているのも否めない。『HiGH & LOW THE MOVIE』を誉めそやす言葉全てに同意は出来ない。
しかし、貶す言葉にも同意出来ない。
出来の悪さは認めよう。だが「出来の悪さ」と「面白さ」は別ものだ。例えばブルース・リー主演映画はどれも映画としての出来は悪い方に区分されるが、面白さや作品の重要度は比類なく最高のものだ。
しかし、あるったらある。そう言ったのは琥珀さん! あんたじゃないですか!