語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ぼんやりと思いついたこと。
 
『クリーピー 偽りの隣人』がワケ解らない! っという感想を見かけた。
確かに、解りやすい作りでは無いように思える。
動機が無い連続殺人鬼がいて、いわゆる“普通”の社会通念とは違った倫理観を持ちながら、それが“違っている”とは自覚せずに常識的な行動として殺人を行っている。しかも、ちんちくりんでハンサムでもない到底魅力的とは思えない男に周囲の人たちは理由もなく従ってしまう。っという設定の人物は「解らない」だろう。
逆に言えば「解らない」というのが「答え」になっている。
 
たとえば本編劇中、香川照之竹内結子に「ボクと旦那さん、どっちが魅力的ですか?」と、よりにもよって西島秀俊と自分を天秤にかける質問をする。普通だったら1も2もなく西島秀俊だろう。男の私だってそう答える。ただ、私が答える場合には、ごく単純な「見た目」という要素でしか天秤にかけることが出来ない。
私を含め多くの人は香川照之にも、西島秀俊にも接点は無い。俳優としてテレビや映画館で観る2人は、それぞれ設定を持った役柄を演じている姿だから、真の姿だとは言えない。
西島秀俊もああ見えて実際には人をうんざりさせる様なイヤな奴かもしれないし、香川照之は必要最低限にしか口を開かない寡黙な人物でイメージとは違うかもしれない。しかし、私たちはそういった姿を知らないので、知っている範囲でしか判断できない。
知っている範囲でなら答えは西島秀俊の一拓になるのは、おそらく万国共通だろう。それが俳優が持っているイメージだし、本作でのキャスティングも、そのイメージを活かしたものである。
劇中に登場する2人、誠実で背が高くて頭が良い上に西島秀俊の顔を持った「高倉」と、変に人なつっこかったり、急につっけんどんになったり印象がコロコロ変わるし平日の昼から半ズボン着用でちんちくりんで香川照之の顔を持った「西野」。
大差がつく勝負でも、劇中の竹内結子は答えに窮する。つまり、スクリーンに映っていないところで答えに窮するような出来事があったと捉えるのが映画文脈になる。
何かがあった。でも、それは映っていない。
 
論理学の世界では、そういった描写されていない「行間」のようなものは「無い」とされている。
 
映画に限らず、文学や漫画について「行間に漂う緊張感が素晴らしい」といった「描かれていない」事柄を評する文を一度くらいは見かけたことがあると思う。しかし、そういった評は映画から鑑賞者自身が想像した事でしかない。
それがアリなら、たとえば文房具店のペンの試し書き用紙に残された「ああああああああ」といった意味の無い文字列の「行間」に壮大な物語があるかもしれない。村上春樹の傑作小説の行間には具にもつかないどーでも良い事柄な上に文法的にもメチャクチャな駄文があるかもしれない。
でも、実際には無い。無いものは評価のしようが無い。なので無い。よく考えてみればあたりまえのことだ。
余談だが、描写されていない“その後”が理由でえらく批難されたカフェオレのCMがあったが、批難した人それぞれのエロい想像力を押し付けただけの、傍目に恥ずかしいものであった。
 
『クリーピー』に話を戻すと、つまり香川照之が何故多くの人を自由自在に操り、西島秀俊という誰もが羨む旦那と天秤にかけても答えに窮させる理由は「不明」ということになる。
原作小説には明確な理屈があるのかもしれないが、映画『クリーピー』では、そこに理由があっても無くても、いずれにせよ「どうでもイイもの」だと定義つけられている。と、捉えるのが正しい。
 
スーパーマンが空を飛べる科学的根拠や、ジェームズ・ボンドがモテモテな理由同様。さらに言えば『ザ・コア』で地球の核が止まる理屈や、『アルマゲドン』の隕石に引力がある理由、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』で登場人物がびゅーんと飛んでいく理屈などなどなど。全部、「どうでもイイもの」だ。
ここで例に挙げたものたちは、比較的「虚構としてアリ」とされやすい「どうでもイイもの」だ。劇中世界の中で理由や理屈が無くても、映画を見る側からは「その方がケレン味が利いて楽しい」という“理由”がある。
 
黒沢清監督作が面白いのは、他の監督ならこだわりの理由を演出する部分を、あっさり切り捨ててしまうところだ。ミステリー映画やスリラー映画では「人を殺す」という様な強い決意が必要な行動の「理由」は語られてしかるべき題材になる。むしろ、その理由に映画自体のテーマを担わせることこそ多々ある。
 
『クリーピー』で割りと多く見かけたのは監督の過去作『CURE』との対比だ。『CURE』は誰かを殺してしまいたいという“殺意”がウィルスのように伝染していく物語だ。殺意の伝達に明確な理由や理屈は無く「そうされたら、そうなる」という映画内のルールがあるだけだ。
しかし『CURE』の場合は、そういった理屈の無い魔法の様なことが通じちゃう世の中になっちゃってるんじゃないだろうか? と、思わせる描写に溢れている。奥さんは気を病んでいて疲れるし、クリーニング屋ですれ違うサラリーマンの独り言は日に日にボリュームが増していて怖い。
『CURE』の劇中世界の様な、恐ろしい社会なら「殺意の伝染」なんていう魔法の様なことも起きるかもしれなくて怖いなー っというのが映画『CURE』がかもす恐怖だ。
 
『クリーピー』も同様に香川照之に命じられると、憑かれた様に隷属してしまうことに明確な理由や理屈は無い。

ただ、世の中には傍目に見れば意味不明なまでに人を隷属させる人物というのは存在する。尼崎の連続殺人死体遺棄事件の角田のばあさんとか。埼玉の愛犬家殺人事件の関根とか。『クリーピー』の元ネタと言われている北九州の監禁殺人事件もそうだ。オセロの中島知子を孤立させて寄生した占い師もこの類に入るだろう。

そういった事件を知っていればピンと来るし、実際の社会生活の中でも、これら事件化された出来事の犯人ほどでは無くとも、妙に圧の強い人物というのはいる。そんな人物と関わり合った経験があれば「あぁ、この香川照之はアノ人っぽい人物なのかもしれないな。それは恐ろしい……」と思いあたるかもしれない。
 
ただ『クリーピー』の場合、あまりに香川照之がそういったタイプの「異常に圧の強い人物」を演じすぎて、磨耗している感じがある。それらの作品では、たいていラストで“圧”を跳ね除けられて屈服し、土下座しちゃっていたりするし。
そういった「香川照之の使って減ってきちゃった感」が『クリーピー』を大絶賛できない所以だ。
 
大変楽しんだし面白かったんだが、「逆転満塁ホームラン」の面白さを期待したら「3点リードでダメ押しのソロホームラン」くらいだった。という感じか。
 
とかなんとか、ぼんやり考えた。