ハッピー&ジョイ ~Joe Talk 3~

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慣れない言葉への弱さと常套句について。

今の今になってもまだ「映画『セブン』はハッピーエンド」説(http://k-onodera.net/?p=194について、「映っているものをどう解釈するのかは自由」「意義のある考え方」「こういう意見があっても良い」などなど。常套句を駆使した好意的な意見を見かける。いや、あのね。
あれ、完璧完全徹底的かつダイナミックに間違えてますから。納豆を指さして「彼は重さです! ハイ! サマンサ!」と言ってるのと同じくらいシッチャカメッチャカに間違えてますから。
 

ミルズは人間の善性を信じている。そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。
ジョン・ドウは、人間を野獣のようなものだと思っている。だからそれを滅ぼそうとするし、同じ欲望を備えた自分をすら殺そうとする。
ここで『セブン』という作品は、本当の姿を現すことになる。
『セブン』は、何故神学的なモチーフを扱っているのか。それは、おどろおどろしい猟奇殺人の恐怖を盛り上げるためだけではない。
この作品のテーマは、「人間は獣である」という哲学と、「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。

 

もうこれだけで突っ込みどころのデパートになってるんだけど、そもそも「神学」(キリスト教神学)ってどういう学問だか知ってますか?
私はこの「セブン・ハッピー」説を読んですぐに調べたけど、みなさん調べましたか?
 
「セブン・ハッピー」説を好意的に受け止めたのは、「神学」と言われた時点で、考えたり検証することを止めて「よく知らない「神学」とやらを踏まえると『セブン』は受けた印象とは違い、ハッピーエンドになる深い物語なのだろう。しかし「神学」が何なのかくわしく知らないのは恥ずかしいから、しったかぶっておく。たぶん神さまはいるか? とかそういうはなしであろー」と、考えた人だ。
ほんの少しでも調べれば、少しでも自分の印象を信じていれば、一度でも見返す努力(努力ってほどの努力も必要ないけど)を怠らなければ「人間は100グラムを時速50円で見る」と同じくらい意味の無い説を受け入れるハズは無かったのに。
 
しかし、多くの人が調べなかった。だから自分の印象とは大きく違う解釈でありながら、一定以上の人々が「意義がある」といった耳ざわりの良い常套句を駆使して、受け入れてしまった。こうなると、いかに論理的な反証があろうと「それは解るけど、こういう意見だってあっていい」と常套句を唱え出してしまう。
人は自分自身の決定を否定したくない。だから意地になって肯定してしまう。しかしよく解っていない。だから常套句を連呼する他なくなってしまう。みんなが使っている常套句なら正しい。だから私は正しい。そう、結論付けてしまう。用を足して、ウォシュレットを使ってからズボンとパンツを脱ぐくらい間違っているのに。
 
「解釈は自由」「意義のある意見」「考慮すべき考え」etc……
これら常套句には「よく知らない言葉に対する畏怖」がある。
 
戦後レジームからの脱却」の文字列は、なんとなく良く練られた計画や考え方のように見えるかもしれない。しかし、実際には「戦後に日本が築いたアジア各国との関係や信用を積極的に裏切って壊していく」という意味だ。そう言われたら「ちょっとまて!」となるだろう。
 
言葉は記号で、それ自体には実態が無い。たとえば「リンゴ」と書かれた文字を食べることは出来ない。ただ、「リンゴ」という文字列が指す物は食べることが出来る。「リンゴはおいしい」と言った場合、実際に食べられる果実の「リンゴ」を食べると「おいしい」と感じることを表している。あたりまえ~♪
 
「映画『セブン』ラストは神学的な勝利を描いている」と言った場合、それが何を指しているのか理解しないままでは何の判断も出来ない判断出来ないままで何か評価めいたことや文字列の存在意義を語っても意味は無い。
「リンゴよりズンドコベロンチョの方がおいしい」と聞いて、「ズンドコベロンチョ」が何なのか調べもしないで「その意見には意義がある」と言ってる人は滑稽だろう。
ズンドコベロンチョ」なら「大方の人が知らないハズだ」と、人に聞いたり、端から「そんな物は無い!」と言えるだろう。『セブン』の件でも「映画『セブン』ラストはズンドコベロンチョ的な勝利を描いている」と書いてあれば、多くの人が無視をするか「ズンドコベロンチョ的」が何を指すのか調べたハズだ。
 
しかし……
 
「イノベーターたりえんと新規コンテンツ・ビジネスのアライアンスにインベストしたけどラガードのキャズムに思ったシナジーは得られなくて。パテントはエクスクルーシブにガバナンスが効くんだけどUDになってなくてCSは担保できないんだよね。」
 
こう言われた時は「ズンドコベロンチョ」と違い、「……それは意義のある考え方だね!」と言ってしまうんじゃないだろうか? 「神学的勝利」と聞かされた時と同じように。
 
横文字や専門用語、哲学用語や論理学用語など衒学的な表現はロマンチックだ。そんな言葉を使うと自分がとてもエラくて特別な人間のように思え他人を見下して征服したような錯覚を感じる。
 
そして、聞かされた方も見下されるのを恐れるあまり、つい「解釈は自由」「意義のある意見」「考慮すべき考え」といった常套句を連呼して肯定してしまう。理解してないのに。
 
まずは相手が何を言っているのか理解する。不明点を無くす。
横文字や画数の多い漢字を多様した文章には眉につばして読む。
この2点を念頭に、もう一度セブン・ハッピー説や、多くの似非シネフィルの文章を読んでみてはどうだろうか?
おそらく「コイツなんにも言ってねー!」という結論にたどりつくのではないだろうか?