ほなどないせえゆうね/INU

フランスの風刺雑誌シャルリー・エブド社襲撃事件について思ったこと。

目につく意見は以下2つ。
・シャルリー・エプド襲撃犯は殺人罪の罪を償わなければならない。
 >犯人の主義主張と、犯した罪を切り離して考えなければいけない。つまり「イスラム教徒によるテロ」ではなく「犯罪者による殺人」だと認識すべき。
・シャルリー・エプドの言論の自由は絶対に守られなければいけない。
 >それはそれとして、シャルリー・エプドのジョークはあまりに幼稚過ぎて笑えない。
というところだ。
 
大方の論理はその2点をふまえた上で「どんなに屈辱的で幼稚な挑発でも、言論に対しては言論で立ち向かわなければならず、テロは言語道断」と結論している。しかし、なぜか思考はそこで止まってしまい、それ以上の何かを考えようという流れはあまり見られない。さらに、少しでもテロに与するように見える意見は何のエクスキューズも無く「バカ」と罵られている。
 
 
 
たとえば。犬の頭を延々となで続ける。最初のうちこそ尻尾を振ってよろこんでいるかもしれない。しかし、犬だってなでられ飽きてくれば嫌にもなるだろう。水も飲みたいし走ってストレス発散もしたい。それでもなで続けたら。犬は怒って噛みつくだろう。
その犬に対して「なでられるのが嫌ならコッチが嫌になるまでなで返せ!」というのはナンセンスだ。
 
いかに下品で幼稚でくだらなくても、表現の自由は絶対に守られなければいけない。それには同意する。しかし、テロ行為はある種の「表現」ではないだろうか? なで続けられるのが嫌な犬が噛みつく以外の意思表現方法を取れないように「私はシャルリー・エブドに関わる奴らを殺すほどの怒りを持っている」というメッセージを襲撃することでしか表せなかったと見れないだろうか?
 
もちろん取り返しがつかない殺人犯罪を犯しているのは解っている。犯人は犯した犯罪を償わなければいけないと思う。私はISILやイスラム過激派、アルカイダの言動にコレっぽっちも賛同できない。それでもなお、彼らの「意思表明表現としてのテロ」に対して、現状の方法以外で向き合わなければいけない気がする。
 
 
 
年末の選挙で自民党議席を減らしながらも政権与党の座は確保し続けた。その結果を受け、白紙委任を取り付けたとばかりに暴走する自民党安倍政権を「野党が弱いからだ」と非難する声をニュースなどでよく聞く。しかし、強い側が横暴なのを、弱い側の弱さのせいにするっておかしくないだろうか? 
 
私自身、今はまだ裕福とは言えないながらも、日々の食事にも困る程の貧困に陥らず、それなりの文化を享受して生活している。今はまだ、この生活を大事にしたい。しかし、この生活を今の政権はおびやかしている。隣国を挑発し、富裕層がより富める税制を敷き、ムダで危険な施設を作ろうとしている。それには反対したい。しかし、その手立ては無い。
選挙に行けだ? 行ってるけれども私自身の「民意」とやらが反映されたためしなど一度だって無い。
自分で選挙に出ろだ? その費用と基盤を用意してくれれば、今いる奴らよりはるかに良い結果を出してやる。だから金出せ! と言ったところで出す奴なんていないだろ?
今の政権が横暴なのを私の政治力の無さや、私の支持する野党の弱さのせいにしたところで、何も変わらない。事態は悪くなるだけだ。
 
もしも、今の生活が崩壊し、家を追われ、食べるものにも窮したら。黙っていたってそのまま餓死する。歯向かって誰かを襲ったって、すぐに捕まるだろう。獄中で生活を続けられるほどの根性は私には無い。だったら、そんな状況へ陥れた奴らを、なるべく多くぶっ殺してやりたい。気が済むまでぶっ殺したら自決するのもイイし、捕まっても日本には死刑制度がまだ残っているから、なるべく多く殺すことが出来ればそれだけ早く殺してくれるだろう
 
私はテロリストになるかもしれない。
 
だから、もうちょっと「テロは言語道断」の先を考えて欲しい。その考えをむやみに「バカ」と言わないでほしい。シャルリー・エブド社襲撃事件は決して対岸の火事では無い。今、火種か燻り出した日本の問題でもあるから。
その証拠が在特会ハーケンクロイツを掲げた奇妙な行進だし、カウンターのファッション的プロテストだ。彼らは互いにそれ以外の「意思表明表現」が無いと思い込んでいるように見える。
私は犬では無い。在特会やカウンターだってそうだ。自民党党員や彼らを支持する人々も犬では無い。ならば、今よりもっとマシな手段があるハズだ。
 
犬になりたいと言うなら、それはまた別の話だが。