残念な人々

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おそらく私はこのコメント主よりも多くスターウォーズを観ているが、スターウォーズ世界の宇宙船内が無重力だった描写は寡聞にして記憶にない。
カイロ・レンとルークの対決場面、幻影だと知ったレンにルークはこう言う「See You Round,Kid!」(じゃ、また。小僧!)
ルークにとってカイロ・レンはまだまだ「Kid」で、全身全霊を賭ける相手では無いという心象が現れてくる場面だ。
死ぬほど全身全霊掛けてたじゃん!というかもしれないが、ジェダイにとって肉体の死は、通過点の一つでしか無い。ep4でダース・ベイダーとライトセーバーを交えたオビ=ワンはその「肉体の死」の直前、こう言う「ベイダーよ、お前は勝利できぬ。いくら打ちのめされようと、私はお前の想像を越える力を得て蘇る(You can't win, Darth. If you strike me down I will become more powerful than you could possibly imagine.)」。ジェダイにとって「肉体の死」はそれほど問題では無く、むしろチートな存在に上がっちゃう、という話だ。その設定の好き嫌いはあると思うけど。

 

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これは堀田ナニガシとかいうベテランSWニワカのツイートの受け売り、劣化コピーであろう。
 

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R2ユニットの最盛期はep1~3までの時代で、ep4ではジャンク品扱い。プリンターやコピー機などで、10年以上持ったけどとうとう壊れて修理に出して「部品が無い」と言われるような経験が無い、社会生活すら希薄なニワカ特有の言いがかりでしかない。

 

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これはむしろep1のアナキンのスカウトとか、ep2でのジェダイ寺院の描写といった、ディズニー移行前の方が当たっている気がするし、当該アトラクションはep8公開前からすでにあるしで、やはり言いがかり。

 

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あるよ。「帝国の逆襲」っていうサブタイトルの続編映画だけど。前作で「ダースベイダーがお前の父親を殺した」と言った当のオビ=ワンが「お前の父はフォースの暗黒面に誘惑され、アナキン・スカイウォーカーでなくなった。善の心を破壊されたのだ。観方によっては殺されたに等しい。」と苦しめな言い訳で返す。ニワカはそんなセリフまで覚えていないか。

 

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これについてはコチラを参照。http://amzn.asia/0qwDrnU
ハーバード大ロースクールの教授でスターウォーズのファンが書いスターウォーズ論。すごく面白い。スカイウォーカー一家のサーガになったのは偶発的な機転によってで、ep4の時点では、そこまで考えていなかった。という裏付けが書いてある。
 

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これは単にレイシストだと告白してるだけのツイート。ゲー!

 

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ルークにはダース・ベイダーのライト・サイドが見えていたからこそ説得に向かったんだろうし、ベン・ソロ/カイロ・レンの救いようの無い暗黒面への転落が見えてしまえば、甥っ子であることへの葛藤の中、一瞬気が迷うこともあるだろう。「ブッ殺しちゃる!」へ転換したワケでなし。それに、一貫した性格しか持たないキャラクターってバンダムとかセガール映画の主人公くらいでしょ。

 

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自分の息子がグレた上にヤクザの大親分になったので、由緒正しい嫁の家系から距離を取って、息子の責任を一人で背負う。というドラマ的展開は、ストンと腑に落ちるだろう。

 

 

「小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?」はいかに駄文か。

 
この世の中にとって全く価値の無いもの。あるとすれば、その筆頭に挙げられるのが小野寺系の映画評だろう。『セブン』がハッピーエンドだと評した文はその好例だ。あてずっぽう。あてこすり。無意味。で、無価値。
その小野寺がスター・ウォーズ(以下SW)の新作「最後のジェダイ」評を「リアル・サウンド」にアップした(http://realsound.jp/movie/2017/12/post-141136.html)。
相変わらず全く読む価値の無い代物だが、「最後のジェダイ」ダメだった人々には「藁にもすがる」その「藁」となっているようだ。
世の中にはもうちょっとしっかりした「板」とか「浮き輪」とか、なんだったら「船」もあるが、何故か、この「藁」にすがる人々は後をたたない。
そこで、この「藁」がいかに「藁」なのか、むしろ「錨」であるかを書いていく。
この作業のバカバカしさはまったくやりきれないものだが、こういうことを怠けたおかげで世の「ネトウヨ」なるバカを生み出してきた過去がある。少しづつだか書き進めていくつもりだ。
それにつけてもバカバカしい……
 
前段
オリジナル3部作、プリクエル3部作(小野寺はそれぞれ「旧3部作」「新3部作」と表記)について語っている前段はいったん無視する。細かな認識間違いと知識不足が露呈されているのみだ。多少でもSWに興味があって、成り立ちや制作過程の記事を読んだことのある人なら、ひたすらイライラさせられる文章になっている。
 
「最後のジェダイ」について
今回の「最後のジェダイ」について。上記したように小野寺はSWに興味も無ければ知識も無いまま書き進めていく。

 

 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。

 

>「生々しい殺陣」
Ep4。モスアイズリー港のカンティーナ酒場でルークにケンカを売ろうとした、アゴがお尻(ポンダ・バーバ)の手を切り落とす。以降、オリジナルシリーズでは毎回誰かの手が切り落とされる。ep5ではルークの手。ep6ではダースベイダーの両手。プリクエル3部作では、ダースモール真っ二つ。ドゥークー伯爵の首チョンパ(&ゴロゴロ首)。アナキンの手足を切り落としたオビ=ワンは、その体を溶岩に突き落とすでも助けあげるでもなく、微妙な位置に放置しジリジリと溶岩による遠赤外線加熱で焼けるがままに帰ってしまう。これを残酷と言わずして何を残酷と言おうか!? ちなみに、人体破壊が描かれなかったのはep7のみになる。


>「「特攻」すら辞さない」
オリジナル3部作、反乱軍による攻撃は常に不利な状況だ。ep4、数十機のX-ウィングで向かったデス・スター攻撃だったが、ラストでミレニアム・ファルコン号と共に帰路につくのは数えられる程度である。ep6のデススター攻撃では、バリア破壊を前提とした総攻撃で思った時間にバリアは解除されず、しかもパルパタインによるワナ(It's a Trap!)まで仕掛けられ、タイファイターによる総攻撃に合う。『ローグ・ワン』となると正に「特攻作戦」で登場人物は全員死ぬ。
また、シリーズそれぞれの作品で「死なば諸共」的な描写は度々登場する。どの作品のどの場面でもそうだが日本の「神風特攻隊」のように、はなから特攻が作戦に組み込まれたことは無い(ローグ・ワンの面々も帰るつもりではいた)。それは「最後のジェダイ」でも同様である。

>「ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍」
そもそもep4でのルークはローズよりも「反乱軍の戦士」から遠い存在だった。平凡とされる存在による勇敢な戦いぶりや、上記た残酷な描写はSWシリーズにおける「革新」ではなく「原点回帰」だ。

>「『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。」
しかし、何度読んでも解りづらい文章だ。おそらく「SWファンの象徴的な存在カイロ・レンがダースベイダーのコスプレめいたマスクを捨てた」の意味であろう。だとすれば、この部分には「そうかもね」と言ってあげられるが、しかし読みづらい。
 
 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。

一見、意味があるように思えるこの文章だが実はただただ混乱しているだけの駄文だ。
ここで言われている「表面的なストーリー」とは「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく様子を描いたもので、その「背後に存在するライアン・ジョンソン督の作家宣言」とは、すなわち「平凡な人々が力を合わせ」て戦っていく「表面的なストーリー」で表現されているものだ*1
「三層の構造」ということにして「評価する層が違うから賛否が別れている」と言いたいのかもしれないが、実は同じものを見て評価している。
これ、あたりまえの話だから!
 

そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。

確かにep1で語られるアナキン誕生秘話は聖母マリアの「処女懐胎」なのかもしれない。しかし、「最後のジェダイ」の「「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描く」ってどの場面のこと?
カジノの惑星カント・バイトの、犬っぽいクリチャー、ファジアーの厩舎のこと? 「奇跡」ってホウキを手元にフォースで寄せる場面? それって、あまりに雑な解釈じゃね?
例えば、ファジアーの厩舎で子供が生まれているとか、3人の“賢者”っぽい誰かによる祝福があったとか、それくらいやってようやく「あぁ、これはキリストだね」と言ってあげられるだろう。
もしも、当該ファジアーの厩舎の場面だけで「キリスト誕生」だと言うなら、みずぼらしい場所に子供がいるだけで「キリスト誕生」をなぞった場面ということになってしまう。
 
マジで勘弁してほしい……
この小野寺系というバカの特徴は「表象として現れていない、裏の部分に作品の真意がある」とか「キリスト教になぞらえた何某」みたいなカッコいいことを言おうとして大失敗するところである。理由は明白で、小野寺自身に作品ないしキリスト教についての知識が語れるほど無いのだ。
『セブン』の「神学的な勝利を描いている(から『セブン』はハッピーエンド)」というアゴが外れるような無知を露呈するのも然り。SWでは度々ある肉体破損や特攻場面を「革新的」だと言ってしまうのも然り。
 
この後の段落ではディズニーによる過度なコントロールが悪いと書きながらライアン・ジョンソン作家主義の暴走だ、と一貫性を欠いた文章が続くんだが……
もう、語るまでも無いグダグダ文なんだよなぁ……

*1:私自身はそれほど作家主義が表出しているとは思えないけど

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を罵る人々

私自身の話になってしまうが。とはいえ、ことさらこの場所では私自身の話以外書いたことは無い。と、改めて記しておこう。
 
まず。今回の『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』私のファースト・インプレッションは「面白かった」である。
どのレベルで「面白かった」のか? といえば、例えば『ビッグゲーム 大統領と少年ハンター』やキング原作の方の『セル』、『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』と同じくらい。と言えば解ってもらえるだろうか? とにかく「面白かった」。
 
しかし、これは「スター・ウォーズ」の新作である。「面白かった」では終われない。何しろ私はスター・ウォーズを「愛している」からだ。
 
特定の作品を「愛している」と言った場合、愛に値するほど面白い作品だと思うからこそ、その作品を愛するのであろう。しかし、私のスターウォーズ関連作品に対する愛は少し違う。スターウォーズのシリーズで言えば、最初の『スターウォーズ』、今で言う「エピソード4 新たなる希望」以外は「愛に値するほど」面白いとは思えていない。
 
逆に言えばエピソード1〜3、5〜8の“正史”に加え、『ローグ・ワン』、CGアニメシリーズ、スピンオフのイウォークにレゴなどの映像作品、コミック、ゲームあたりまで(小説はまだ手を出していない)ならまとめて“愛せる”ほど「エピソード4 新たなる希望」が好きなのだ。
今でこそ傑作扱いされている「エピソード5 帝国の逆襲」も公開当時は「パロディだ」と貶されたし「エピソード6 ジェダイの復讐(現:帰還)」もイウォークの登場に「ガキ向けの甘ったるい体に悪い原色のお菓子」だと揶揄された。
当時はまだ小学生だったから、もしかしたらその貶す言葉や揶揄が正しいのかもしれないと思っていた。今ではそれらの言葉を理解はするが、何しろ、アノ「エピソード4」の続きなんだから、それはもう「エピソード4」じゃないか!
 
つまり。例えば。ある人物を好きになる。その人の何から何まで全てが好きでたまらないという人は、あまり多くは無いのではないだろうか?
もちろん、その人の多くの部分に惹かれたからこそ、その人を「好き」だと思っているのだろうが、たとえば「イビキがすごい」とか「たまに人の言ってることを聞いてない」とか、ちょっとカチンと来るところもあるだろう。
しかし、それも含めて「その人」なワケで、ゲームのアビリティのように他人が勝手に「その人」の特徴を挿げ替えられるワケでなし。気に入らない部分だって、引き裂くことの出来ない「その人」の「パーソナリティ」なのだ。
 
と、考えれば『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』に向けられた貶す言葉や揶揄がどういった性質のものなのか理解できるだろう。
 
別れた相手を、こと別れた後に口さがなく罵る人というのがいる。アイツのことだ。

益体の無い話

痩せた。

 
世の多くの女性や、腹の出た中年男性あたりは羨ましいところなのかもしれないが、きっかけは惨めなものだ。
風邪をひいて内臓を悪くして食欲が落ち、あまり食べない生活を続けていたら、あまり食べなくても腹がいっぱいになる体質に変わった。加えて、内臓の悪さは風邪が治ったあとでも整腸剤無しでは脂汗をかくほど痛くなるようになった。
という、老人そのものな理由からだ。
人間、痩せ始めるとまずアゴのラインから細くなっていく。次が尻、足、腕、脇腹と細くなっていく。なのでまだ腹はまだボヨボヨとした脂肪がついている。
奇妙な肉体になり、風呂に入る。全裸になる。ハタと思いつき、両肩を後ろに反らしてみる。そのまま陽の光をさえぎるように、手を目の上にかざしてみる。
 

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ははははは! アポー!

悪いことしましョ!

職場が新宿で、事務所への往復にビックロティファニーの代理店が入ったビルの隙間を抜ける。その場所で、最近になって、ちょくちょく気味の悪い情景を見かける。

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土地勘の無い人に少しだけ説明すると、くだんの道は、一応車道でもあるんだけど、ほぼ歩道として機能している。道もアスファルトむき出しでは無く、ブロックをタイル状に埋め込んだ、いかにも歩道然とした見栄えだ。しかし、この「ほぼ歩道」にも一応信号がある。新宿通りを挟んで伊勢丹駐車場へ続く道とで十字路に見立てた、アリバイ的な、ほとんど機能していない信号だ。
ところが、この信号を守る人がいるのだ。
もし車が来たとしても車1台がゆるっと通れる、2台ならキッツキツな狭い道路だ。ピョっとひとっ飛びすれば端に避けられる。それ以前に車が来てないし、来る気配も無いし、歩道っぽく利用されているから信号のある横断歩道以外のフローズンヨーグルト屋の前あたりには人がウロウロと歩いている。それなのに、横断歩道の信号を守って待ってる人がいるのだ。それも結構な人数が。
 
  ※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※
 
今更ながら。カナザワ映画祭ブラックスプロイテーション映画につけた差別語タイトルについて。
まず、あの邦題はブラックスプロイテーションとは何たるかを全く理解していない『新感染』とか『バス男』などと同様のダサ邦題だというのは先に言っておこう。ダサい。クソだせえ。
で、差別語をタイトルに使用して良いか?
私は良いと考える。ただし、叱られるのもセットで。
表現の自由」というのは無制限であるべきだ。無制限、と言うからにはもちろん世に蔓延る嫌韓本も「表現の自由」の元、発表ないし発売されてしまうのもいたしかたない。ただし、バカ丸出しな本を出して批判されると「表現の自由の抑圧だ!」という百田ナニガシみたいな人の形をしたウンコとしか思えない、トイレに流していないのが不思議な物体のトンチンカンさ加減には腐った藻の臭いのため息を吹きかける他ない。
マヌケの大吟醸みたいな本を発表して良い「表現の自由」と同等に、マヌケ界の八海山を指標する本を批判する「表現の自由」も存在する。というようなことをイチイチ言わないと解らないのがレイシストという純度100%特濃バカの特徴なのであろう。
では、カナザワ映画祭の、あのタイトルをつけた主催者(たぶん、1度ならず何度かお会いしていると思うのだが、ごめんなさい。顔も名前も思い出せないです)に黒人を差別する意図があったか?
それは無かったであろう。おそらく、禁忌的な言葉になっている「クロンボ」を、禁忌的だというだけで文脈も考えずに露悪的につけた、悪フザケだ。
 
私は悪フザケが好きだ。
 
ただし、嫌韓本と同様に叱られるのもセットで。叱られるのは受け止めよう。受け止めるベキだ。
しかし今の世の中、「悪フザケ」が「悪フザケ」として受け止められない時代になっている。
 
たとえば「ナチス」。セックス・ピストルズで唯一死んだメンバー、シド・ビシャスハーケンクロイツのTシャツを着ていた。知る範囲でシド本人にナチス的な思想(ないし、いかなる思想)を持ってはおらず、おそらく「世の中の人がもっとも嫌っている象徴」としてハーケンクロイツを着用していたのだろう。つまり「パンク」だ。
今ではランシドみたいなクリーンで健康的なバンドもいて、かつての「パンク」と今の「パンク」には意味の齟齬があるだろう。シド(及びピストルズ)の「パンク」とは「悪フザケ」だ。
みんなが嫌がるから、怒るから、ハーケンクロイツのTシャツを着て、ろくすっぽ楽器も出来ないのにバンドを組んで「女王陛下ってな人じゃねえなwww」とか「俺はアンチクライストアナーキストだ! 道行く人を殴りたい!」と歌っていたのだ。
しかし、今では「コレぞ正義!」とばかりにハーケンクロイツを掲げ、外国人排斥をガナる、アソーナニガシとかタカスナニガシといった納豆菌を入れ忘れたまま腐らせた豆みたいな奴らがソコソコの人数いるのである。
これでは全くコチラの立つ瀬が無い。「悪フザケ」とは、叱られるようなことだという共通認識が無ければ成り立たない。叱られるようなこと、だからこそする。
多くの人がカナザワ映画祭主催者に叱責の声を上げた。それはそれでしょうがない。だって単なる露悪なんだから。叱られるのあたりまえでしょう。
しかし、主催者を叱責した多くの人は、車の通らない横断歩道の信号を守るように、「ダメだからダメ」というだけの理由で、怒っていた気がする(もちろん全員ではない)。
もちろんダメなんだけど、たとえば小説の中に「人種差別主義者で学の無いカッペ」という設定を持った人物が黒人を黒人だというだけでナジるセリフを言うとしたら、それは間違い無く「クロンボ」だ。
差別語ではあるが、使われるベキだ。
それは主催者本人もブログで書いているのだが後に続くのが「ゴムを付けていたので浮気ではない!」みたいな、牛が夢中になるくらいショッパい言い訳でどーしょーもない。
では『The Black Gestapo』や『Brotherhood of Death』『The Thing with Two Heads』にそれぞれ「クロンボ」呼称を含んだタイトルが相応しいのか?
それは実際に自分で観てから、自分で判断して欲しいところだ。全部ソフトを持っている私としては「ダメ」の焼きごてを押し付ける他ないのだが。
それ以前に致命的にダサいんだけど。
あと、未公開ブラックスプロイテーションなら突き抜けた『Black Shanpoo』や『Soul Vengeance』。ゾンビ映画では珍しくブードゥーゾンビが登場する『Sugar Hill』。良作な『Willie Dynamite』。近作の『Black Dynamite』とかいくらでもあるのに、なんでコレ選んだかね? とは強く思う。
そんなことを歩道化している道のすぐ脇にある横断歩道の信号を律儀に守っている人を見かけて思ったのだった。
モチロン、青になった瞬間に歩きだそうとする人の前で急に立ち止まりながら。

『HiGH & LOW THE MOVIE』をめぐる言説について。

評論家の仕事は総じて楽だ。リスクも少なく立場は常に有利だ。

作家と作品を批評するだけだし、辛口の批評ならばそれは我々にも読者にも愉快なものだ。
だが評論家は知るべきだ。
“平凡だ”と書く評論よりも、平凡な作品の方が意味深い事を。
だが、我々もリスクを冒す時がある。
新しい物を発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため、支持者が必要だ。

~『レミーのおいしいレストラン』より~

 

『HiGH & LOW THE MOVIE』である。
まず、アクション・シーンは文句なく高レベルだ。終盤、両側をコンテナで限定した、細長く高低差のある空間で繰り広げられる大人数での格闘は画面に細かなメリハリを生んでいる。
例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』の合戦シーンは広大な場所で、しかもその場所を埋め尽くす人数が大合戦を繰り広げるが、広さゆえに印象は記号化して「一つの大きな戦い」に見える。世界大戦映画で地図の上を矢印が伸びていく、あの記号とほぼ同じだ。その中でギムリレゴラスがどんな戦いをしているのかは、クローズアップで確認することになる
一方、『HiGH & LOW THE MOVIE』の場合、大きなスクリーンのそこかしこで、山王や鬼邪高、RUDE BOYSなどなどがそれぞれのスタイルで戦っており、それぞれの姿が一つの画面の中に混在している。スクリーンのアッチやコッチをキョロキョロと見回し、大ケンカ・パノラマを楽しむことは映画館の大きなスクリーンでしか味わえない“映画的快楽”だろう。
 
さらに、その大モブ格闘を前フリにした、超大友情フラッシュバックがクライマックスとなる。マイティ・ウォリアーズとダウトにSWORDを襲わせていた琥珀さんに、MUGENの仲間だった九十九が、そして彼らにあこがれていた山王のヤマトとコブラが、それぞれがそれぞれの琥珀との思い出話をフラッシュバックで語っていく。
 
この場面はゲーム『逆転裁判』でのサイコ・ロックを壊していく風景を思い起こさせる。かつては人情味に溢れた琥珀さんが復讐のために非道な手段をとった、その心へ攻撃を加えていくようなイメージだ
琥珀さんにとって最大の負い目である「龍也の死」は最大限に利用され、クドいくらい繰り返し車に轢かれる瞬間が登場する。
さらに、この“人情攻撃”でうなだれる琥珀さんの様子は「琥珀が落ちた!」と、外で乱闘をする敵味方に伝えられる。すると、SWORDたちは勝どきを上げ、マイティ・ウォリアーズやダウトたちは舌打ちしつつ引き上げる。
普通、ケンカ対決と言えば、殴り倒して動かなくなるとか、死んでしまうとか、肉体的な屈服こそが勝敗の決め手になる。相手の弱みや良心をゆさぶることはあっても、むしろその心的な揺れをケンカに比喩するものだ。
 
その逆(というか、そのまんま表現)をすることで、それまでの大ケンカ・パノラマが、実は「琥珀さんのヤル気を削ぐ」というパーソナルな戦いであったことが解る。つまり琥珀さんのセカイ系戦争だったワケだ。
 
というのは、もちろん「穿った見方」になるのだが、一応物語として成立する。おそらく作り手はそういった見方をさせようとはしていない。もっと単純に「琥珀さんをケンカ的な表現以外で、かつての仲間に負けさせる方法」を突き詰めての展開であろう。その選択は作品に特出したいびつさを孕ませている。
 
映画において「特出したいびつさ」はソッコーでMEME化/ネタ化される。たとえば『ロッキー・ホラー・ショー』はキャンプないびつさがネタ化されたことで、従来の映画の楽しみ方とは違った「参加型映画」へと進化を遂げた。
石井輝男の『恐怖奇形人間』は日本で正式にソフト化されず長らく傷だらけのフィルム上映でしか見ることが叶わなかったことも合わさりMEME化した。おかーさーん!
ジョーン・クロフォード自伝の映画化『愛と憎しみの伝説』や、エドウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』などは、出来の悪いいびつさからMEME化した作品の代表だろう。ワイヤー!ハンガーを!つかうな!
 
『HiGH & LOW THE MOVIE』も出来の悪い作品である。しかし、上記したように素晴らしく出来の良い場面もある。このバランスを欠いた「特出したいびつさ」が多くの人を惹きつけている。終盤の大友情フラッシュバックのたたみかけがMEME化し、自分の強い思いをすべて琥珀さんに向けて叫ぶ(琥珀さんのせいにする)ネタとなっている。
主体的な参加によって、判官贔屓的心情が起こっているのも否めない。『HiGH & LOW THE MOVIE』を誉めそやす言葉全てに同意は出来ない。
 
しかし、貶す言葉にも同意出来ない。
出来の悪さは認めよう。だが「出来の悪さ」と「面白さ」は別ものだ。例えばブルース・リー主演映画はどれも映画としての出来は悪い方に区分されるが、面白さや作品の重要度は比類なく最高のものだ。
『HiGH & LOW THE MOVIE』がブルース・リー作品と同等だとは言えないが、それでも捨て置けない“何か”がある。それは間違いない。それが何か、今の私にはその語彙ボキャブラリーが無い。
 
しかし、あるったらある。そう言ったのは琥珀さん! あんたじゃないですか!

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ぼんやりと思いついたこと。
 
『クリーピー 偽りの隣人』がワケ解らない! っという感想を見かけた。
確かに、解りやすい作りでは無いように思える。
動機が無い連続殺人鬼がいて、いわゆる“普通”の社会通念とは違った倫理観を持ちながら、それが“違っている”とは自覚せずに常識的な行動として殺人を行っている。しかも、ちんちくりんでハンサムでもない到底魅力的とは思えない男に周囲の人たちは理由もなく従ってしまう。っという設定の人物は「解らない」だろう。
逆に言えば「解らない」というのが「答え」になっている。
 
たとえば本編劇中、香川照之竹内結子に「ボクと旦那さん、どっちが魅力的ですか?」と、よりにもよって西島秀俊と自分を天秤にかける質問をする。普通だったら1も2もなく西島秀俊だろう。男の私だってそう答える。ただ、私が答える場合には、ごく単純な「見た目」という要素でしか天秤にかけることが出来ない。
私を含め多くの人は香川照之にも、西島秀俊にも接点は無い。俳優としてテレビや映画館で観る2人は、それぞれ設定を持った役柄を演じている姿だから、真の姿だとは言えない。
西島秀俊もああ見えて実際には人をうんざりさせる様なイヤな奴かもしれないし、香川照之は必要最低限にしか口を開かない寡黙な人物でイメージとは違うかもしれない。しかし、私たちはそういった姿を知らないので、知っている範囲でしか判断できない。
知っている範囲でなら答えは西島秀俊の一拓になるのは、おそらく万国共通だろう。それが俳優が持っているイメージだし、本作でのキャスティングも、そのイメージを活かしたものである。
劇中に登場する2人、誠実で背が高くて頭が良い上に西島秀俊の顔を持った「高倉」と、変に人なつっこかったり、急につっけんどんになったり印象がコロコロ変わるし平日の昼から半ズボン着用でちんちくりんで香川照之の顔を持った「西野」。
大差がつく勝負でも、劇中の竹内結子は答えに窮する。つまり、スクリーンに映っていないところで答えに窮するような出来事があったと捉えるのが映画文脈になる。
何かがあった。でも、それは映っていない。
 
論理学の世界では、そういった描写されていない「行間」のようなものは「無い」とされている。
 
映画に限らず、文学や漫画について「行間に漂う緊張感が素晴らしい」といった「描かれていない」事柄を評する文を一度くらいは見かけたことがあると思う。しかし、そういった評は映画から鑑賞者自身が想像した事でしかない。
それがアリなら、たとえば文房具店のペンの試し書き用紙に残された「ああああああああ」といった意味の無い文字列の「行間」に壮大な物語があるかもしれない。村上春樹の傑作小説の行間には具にもつかないどーでも良い事柄な上に文法的にもメチャクチャな駄文があるかもしれない。
でも、実際には無い。無いものは評価のしようが無い。なので無い。よく考えてみればあたりまえのことだ。
余談だが、描写されていない“その後”が理由でえらく批難されたカフェオレのCMがあったが、批難した人それぞれのエロい想像力を押し付けただけの、傍目に恥ずかしいものであった。
 
『クリーピー』に話を戻すと、つまり香川照之が何故多くの人を自由自在に操り、西島秀俊という誰もが羨む旦那と天秤にかけても答えに窮させる理由は「不明」ということになる。
原作小説には明確な理屈があるのかもしれないが、映画『クリーピー』では、そこに理由があっても無くても、いずれにせよ「どうでもイイもの」だと定義つけられている。と、捉えるのが正しい。
 
スーパーマンが空を飛べる科学的根拠や、ジェームズ・ボンドがモテモテな理由同様。さらに言えば『ザ・コア』で地球の核が止まる理屈や、『アルマゲドン』の隕石に引力がある理由、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』で登場人物がびゅーんと飛んでいく理屈などなどなど。全部、「どうでもイイもの」だ。
ここで例に挙げたものたちは、比較的「虚構としてアリ」とされやすい「どうでもイイもの」だ。劇中世界の中で理由や理屈が無くても、映画を見る側からは「その方がケレン味が利いて楽しい」という“理由”がある。
 
黒沢清監督作が面白いのは、他の監督ならこだわりの理由を演出する部分を、あっさり切り捨ててしまうところだ。ミステリー映画やスリラー映画では「人を殺す」という様な強い決意が必要な行動の「理由」は語られてしかるべき題材になる。むしろ、その理由に映画自体のテーマを担わせることこそ多々ある。
 
『クリーピー』で割りと多く見かけたのは監督の過去作『CURE』との対比だ。『CURE』は誰かを殺してしまいたいという“殺意”がウィルスのように伝染していく物語だ。殺意の伝達に明確な理由や理屈は無く「そうされたら、そうなる」という映画内のルールがあるだけだ。
しかし『CURE』の場合は、そういった理屈の無い魔法の様なことが通じちゃう世の中になっちゃってるんじゃないだろうか? と、思わせる描写に溢れている。奥さんは気を病んでいて疲れるし、クリーニング屋ですれ違うサラリーマンの独り言は日に日にボリュームが増していて怖い。
『CURE』の劇中世界の様な、恐ろしい社会なら「殺意の伝染」なんていう魔法の様なことも起きるかもしれなくて怖いなー っというのが映画『CURE』がかもす恐怖だ。
 
『クリーピー』も同様に香川照之に命じられると、憑かれた様に隷属してしまうことに明確な理由や理屈は無い。

ただ、世の中には傍目に見れば意味不明なまでに人を隷属させる人物というのは存在する。尼崎の連続殺人死体遺棄事件の角田のばあさんとか。埼玉の愛犬家殺人事件の関根とか。『クリーピー』の元ネタと言われている北九州の監禁殺人事件もそうだ。オセロの中島知子を孤立させて寄生した占い師もこの類に入るだろう。

そういった事件を知っていればピンと来るし、実際の社会生活の中でも、これら事件化された出来事の犯人ほどでは無くとも、妙に圧の強い人物というのはいる。そんな人物と関わり合った経験があれば「あぁ、この香川照之はアノ人っぽい人物なのかもしれないな。それは恐ろしい……」と思いあたるかもしれない。
 
ただ『クリーピー』の場合、あまりに香川照之がそういったタイプの「異常に圧の強い人物」を演じすぎて、磨耗している感じがある。それらの作品では、たいていラストで“圧”を跳ね除けられて屈服し、土下座しちゃっていたりするし。
そういった「香川照之の使って減ってきちゃった感」が『クリーピー』を大絶賛できない所以だ。
 
大変楽しんだし面白かったんだが、「逆転満塁ホームラン」の面白さを期待したら「3点リードでダメ押しのソロホームラン」くらいだった。という感じか。
 
とかなんとか、ぼんやり考えた。