益体の無い話

痩せた。

 
世の多くの女性や、腹の出た中年男性あたりは羨ましいところなのかもしれないが、きっかけは惨めなものだ。
風邪をひいて内臓を悪くして食欲が落ち、あまり食べない生活を続けていたら、あまり食べなくても腹がいっぱいになる体質に変わった。加えて、内臓の悪さは風邪が治ったあとでも整腸剤無しでは脂汗をかくほど痛くなるようになった。
という、老人そのものな理由からだ。
人間、痩せ始めるとまずアゴのラインから細くなっていく。次が尻、足、腕、脇腹と細くなっていく。なのでまだ腹はまだボヨボヨとした脂肪がついている。
奇妙な肉体になり、風呂に入る。全裸になる。ハタと思いつき、両肩を後ろに反らしてみる。そのまま陽の光をさえぎるように、手を目の上にかざしてみる。
 

f:id:samurai_kung_fu:20171117182110j:plain

ははははは! アポー!

悪いことしましョ!

職場が新宿で、事務所への往復にビックロティファニーの代理店が入ったビルの隙間を抜ける。その場所で、最近になって、ちょくちょく気味の悪い情景を見かける。

f:id:samurai_kung_fu:20170918194932j:plain

土地勘の無い人に少しだけ説明すると、くだんの道は、一応車道でもあるんだけど、ほぼ歩道として機能している。道もアスファルトむき出しでは無く、ブロックをタイル状に埋め込んだ、いかにも歩道然とした見栄えだ。しかし、この「ほぼ歩道」にも一応信号がある。新宿通りを挟んで伊勢丹駐車場へ続く道とで十字路に見立てた、アリバイ的な、ほとんど機能していない信号だ。
ところが、この信号を守る人がいるのだ。
もし車が来たとしても車1台がゆるっと通れる、2台ならキッツキツな狭い道路だ。ピョっとひとっ飛びすれば端に避けられる。それ以前に車が来てないし、来る気配も無いし、歩道っぽく利用されているから信号のある横断歩道以外のフローズンヨーグルト屋の前あたりには人がウロウロと歩いている。それなのに、横断歩道の信号を守って待ってる人がいるのだ。それも結構な人数が。
 
  ※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※〜※
 
今更ながら。カナザワ映画祭ブラックスプロイテーション映画につけた差別語タイトルについて。
まず、あの邦題はブラックスプロイテーションとは何たるかを全く理解していない『新感染』とか『バス男』などと同様のダサ邦題だというのは先に言っておこう。ダサい。クソだせえ。
で、差別語をタイトルに使用して良いか?
私は良いと考える。ただし、叱られるのもセットで。
表現の自由」というのは無制限であるべきだ。無制限、と言うからにはもちろん世に蔓延る嫌韓本も「表現の自由」の元、発表ないし発売されてしまうのもいたしかたない。ただし、バカ丸出しな本を出して批判されると「表現の自由の抑圧だ!」という百田ナニガシみたいな人の形をしたウンコとしか思えない、トイレに流していないのが不思議な物体のトンチンカンさ加減には腐った藻の臭いのため息を吹きかける他ない。
マヌケの大吟醸みたいな本を発表して良い「表現の自由」と同等に、マヌケ界の八海山を指標する本を批判する「表現の自由」も存在する。というようなことをイチイチ言わないと解らないのがレイシストという純度100%特濃バカの特徴なのであろう。
では、カナザワ映画祭の、あのタイトルをつけた主催者(たぶん、1度ならず何度かお会いしていると思うのだが、ごめんなさい。顔も名前も思い出せないです)に黒人を差別する意図があったか?
それは無かったであろう。おそらく、禁忌的な言葉になっている「クロンボ」を、禁忌的だというだけで文脈も考えずに露悪的につけた、悪フザケだ。
 
私は悪フザケが好きだ。
 
ただし、嫌韓本と同様に叱られるのもセットで。叱られるのは受け止めよう。受け止めるベキだ。
しかし今の世の中、「悪フザケ」が「悪フザケ」として受け止められない時代になっている。
 
たとえば「ナチス」。セックス・ピストルズで唯一死んだメンバー、シド・ビシャスハーケンクロイツのTシャツを着ていた。知る範囲でシド本人にナチス的な思想(ないし、いかなる思想)を持ってはおらず、おそらく「世の中の人がもっとも嫌っている象徴」としてハーケンクロイツを着用していたのだろう。つまり「パンク」だ。
今ではランシドみたいなクリーンで健康的なバンドもいて、かつての「パンク」と今の「パンク」には意味の齟齬があるだろう。シド(及びピストルズ)の「パンク」とは「悪フザケ」だ。
みんなが嫌がるから、怒るから、ハーケンクロイツのTシャツを着て、ろくすっぽ楽器も出来ないのにバンドを組んで「女王陛下ってな人じゃねえなwww」とか「俺はアンチクライストアナーキストだ! 道行く人を殴りたい!」と歌っていたのだ。
しかし、今では「コレぞ正義!」とばかりにハーケンクロイツを掲げ、外国人排斥をガナる、アソーナニガシとかタカスナニガシといった納豆菌を入れ忘れたまま腐らせた豆みたいな奴らがソコソコの人数いるのである。
これでは全くコチラの立つ瀬が無い。「悪フザケ」とは、叱られるようなことだという共通認識が無ければ成り立たない。叱られるようなこと、だからこそする。
多くの人がカナザワ映画祭主催者に叱責の声を上げた。それはそれでしょうがない。だって単なる露悪なんだから。叱られるのあたりまえでしょう。
しかし、主催者を叱責した多くの人は、車の通らない横断歩道の信号を守るように、「ダメだからダメ」というだけの理由で、怒っていた気がする(もちろん全員ではない)。
もちろんダメなんだけど、たとえば小説の中に「人種差別主義者で学の無いカッペ」という設定を持った人物が黒人を黒人だというだけでナジるセリフを言うとしたら、それは間違い無く「クロンボ」だ。
差別語ではあるが、使われるベキだ。
それは主催者本人もブログで書いているのだが後に続くのが「ゴムを付けていたので浮気ではない!」みたいな、牛が夢中になるくらいショッパい言い訳でどーしょーもない。
では『The Black Gestapo』や『Brotherhood of Death』『The Thing with Two Heads』にそれぞれ「クロンボ」呼称を含んだタイトルが相応しいのか?
それは実際に自分で観てから、自分で判断して欲しいところだ。全部ソフトを持っている私としては「ダメ」の焼きごてを押し付ける他ないのだが。
それ以前に致命的にダサいんだけど。
あと、未公開ブラックスプロイテーションなら突き抜けた『Black Shanpoo』や『Soul Vengeance』。ゾンビ映画では珍しくブードゥーゾンビが登場する『Sugar Hill』。良作な『Willie Dynamite』。近作の『Black Dynamite』とかいくらでもあるのに、なんでコレ選んだかね? とは強く思う。
そんなことを歩道化している道のすぐ脇にある横断歩道の信号を律儀に守っている人を見かけて思ったのだった。
モチロン、青になった瞬間に歩きだそうとする人の前で急に立ち止まりながら。

『HiGH & LOW THE MOVIE』をめぐる言説について。

評論家の仕事は総じて楽だ。リスクも少なく立場は常に有利だ。

作家と作品を批評するだけだし、辛口の批評ならばそれは我々にも読者にも愉快なものだ。
だが評論家は知るべきだ。
“平凡だ”と書く評論よりも、平凡な作品の方が意味深い事を。
だが、我々もリスクを冒す時がある。
新しい物を発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため、支持者が必要だ。

~『レミーのおいしいレストラン』より~

 

『HiGH & LOW THE MOVIE』である。
まず、アクション・シーンは文句なく高レベルだ。終盤、両側をコンテナで限定した、細長く高低差のある空間で繰り広げられる大人数での格闘は画面に細かなメリハリを生んでいる。
例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』の合戦シーンは広大な場所で、しかもその場所を埋め尽くす人数が大合戦を繰り広げるが、広さゆえに印象は記号化して「一つの大きな戦い」に見える。世界大戦映画で地図の上を矢印が伸びていく、あの記号とほぼ同じだ。その中でギムリレゴラスがどんな戦いをしているのかは、クローズアップで確認することになる
一方、『HiGH & LOW THE MOVIE』の場合、大きなスクリーンのそこかしこで、山王や鬼邪高、RUDE BOYSなどなどがそれぞれのスタイルで戦っており、それぞれの姿が一つの画面の中に混在している。スクリーンのアッチやコッチをキョロキョロと見回し、大ケンカ・パノラマを楽しむことは映画館の大きなスクリーンでしか味わえない“映画的快楽”だろう。
 
さらに、その大モブ格闘を前フリにした、超大友情フラッシュバックがクライマックスとなる。マイティ・ウォリアーズとダウトにSWORDを襲わせていた琥珀さんに、MUGENの仲間だった九十九が、そして彼らにあこがれていた山王のヤマトとコブラが、それぞれがそれぞれの琥珀との思い出話をフラッシュバックで語っていく。
 
この場面はゲーム『逆転裁判』でのサイコ・ロックを壊していく風景を思い起こさせる。かつては人情味に溢れた琥珀さんが復讐のために非道な手段をとった、その心へ攻撃を加えていくようなイメージだ
琥珀さんにとって最大の負い目である「龍也の死」は最大限に利用され、クドいくらい繰り返し車に轢かれる瞬間が登場する。
さらに、この“人情攻撃”でうなだれる琥珀さんの様子は「琥珀が落ちた!」と、外で乱闘をする敵味方に伝えられる。すると、SWORDたちは勝どきを上げ、マイティ・ウォリアーズやダウトたちは舌打ちしつつ引き上げる。
普通、ケンカ対決と言えば、殴り倒して動かなくなるとか、死んでしまうとか、肉体的な屈服こそが勝敗の決め手になる。相手の弱みや良心をゆさぶることはあっても、むしろその心的な揺れをケンカに比喩するものだ。
 
その逆(というか、そのまんま表現)をすることで、それまでの大ケンカ・パノラマが、実は「琥珀さんのヤル気を削ぐ」というパーソナルな戦いであったことが解る。つまり琥珀さんのセカイ系戦争だったワケだ。
 
というのは、もちろん「穿った見方」になるのだが、一応物語として成立する。おそらく作り手はそういった見方をさせようとはしていない。もっと単純に「琥珀さんをケンカ的な表現以外で、かつての仲間に負けさせる方法」を突き詰めての展開であろう。その選択は作品に特出したいびつさを孕ませている。
 
映画において「特出したいびつさ」はソッコーでMEME化/ネタ化される。たとえば『ロッキー・ホラー・ショー』はキャンプないびつさがネタ化されたことで、従来の映画の楽しみ方とは違った「参加型映画」へと進化を遂げた。
石井輝男の『恐怖奇形人間』は日本で正式にソフト化されず長らく傷だらけのフィルム上映でしか見ることが叶わなかったことも合わさりMEME化した。おかーさーん!
ジョーン・クロフォード自伝の映画化『愛と憎しみの伝説』や、エドウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』などは、出来の悪いいびつさからMEME化した作品の代表だろう。ワイヤー!ハンガーを!つかうな!
 
『HiGH & LOW THE MOVIE』も出来の悪い作品である。しかし、上記したように素晴らしく出来の良い場面もある。このバランスを欠いた「特出したいびつさ」が多くの人を惹きつけている。終盤の大友情フラッシュバックのたたみかけがMEME化し、自分の強い思いをすべて琥珀さんに向けて叫ぶ(琥珀さんのせいにする)ネタとなっている。
主体的な参加によって、判官贔屓的心情が起こっているのも否めない。『HiGH & LOW THE MOVIE』を誉めそやす言葉全てに同意は出来ない。
 
しかし、貶す言葉にも同意出来ない。
出来の悪さは認めよう。だが「出来の悪さ」と「面白さ」は別ものだ。例えばブルース・リー主演映画はどれも映画としての出来は悪い方に区分されるが、面白さや作品の重要度は比類なく最高のものだ。
『HiGH & LOW THE MOVIE』がブルース・リー作品と同等だとは言えないが、それでも捨て置けない“何か”がある。それは間違いない。それが何か、今の私にはその語彙ボキャブラリーが無い。
 
しかし、あるったらある。そう言ったのは琥珀さん! あんたじゃないですか!

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ぼんやりと思いついたこと。
 
『クリーピー 偽りの隣人』がワケ解らない! っという感想を見かけた。
確かに、解りやすい作りでは無いように思える。
動機が無い連続殺人鬼がいて、いわゆる“普通”の社会通念とは違った倫理観を持ちながら、それが“違っている”とは自覚せずに常識的な行動として殺人を行っている。しかも、ちんちくりんでハンサムでもない到底魅力的とは思えない男に周囲の人たちは理由もなく従ってしまう。っという設定の人物は「解らない」だろう。
逆に言えば「解らない」というのが「答え」になっている。
 
たとえば本編劇中、香川照之竹内結子に「ボクと旦那さん、どっちが魅力的ですか?」と、よりにもよって西島秀俊と自分を天秤にかける質問をする。普通だったら1も2もなく西島秀俊だろう。男の私だってそう答える。ただ、私が答える場合には、ごく単純な「見た目」という要素でしか天秤にかけることが出来ない。
私を含め多くの人は香川照之にも、西島秀俊にも接点は無い。俳優としてテレビや映画館で観る2人は、それぞれ設定を持った役柄を演じている姿だから、真の姿だとは言えない。
西島秀俊もああ見えて実際には人をうんざりさせる様なイヤな奴かもしれないし、香川照之は必要最低限にしか口を開かない寡黙な人物でイメージとは違うかもしれない。しかし、私たちはそういった姿を知らないので、知っている範囲でしか判断できない。
知っている範囲でなら答えは西島秀俊の一拓になるのは、おそらく万国共通だろう。それが俳優が持っているイメージだし、本作でのキャスティングも、そのイメージを活かしたものである。
劇中に登場する2人、誠実で背が高くて頭が良い上に西島秀俊の顔を持った「高倉」と、変に人なつっこかったり、急につっけんどんになったり印象がコロコロ変わるし平日の昼から半ズボン着用でちんちくりんで香川照之の顔を持った「西野」。
大差がつく勝負でも、劇中の竹内結子は答えに窮する。つまり、スクリーンに映っていないところで答えに窮するような出来事があったと捉えるのが映画文脈になる。
何かがあった。でも、それは映っていない。
 
論理学の世界では、そういった描写されていない「行間」のようなものは「無い」とされている。
 
映画に限らず、文学や漫画について「行間に漂う緊張感が素晴らしい」といった「描かれていない」事柄を評する文を一度くらいは見かけたことがあると思う。しかし、そういった評は映画から鑑賞者自身が想像した事でしかない。
それがアリなら、たとえば文房具店のペンの試し書き用紙に残された「ああああああああ」といった意味の無い文字列の「行間」に壮大な物語があるかもしれない。村上春樹の傑作小説の行間には具にもつかないどーでも良い事柄な上に文法的にもメチャクチャな駄文があるかもしれない。
でも、実際には無い。無いものは評価のしようが無い。なので無い。よく考えてみればあたりまえのことだ。
余談だが、描写されていない“その後”が理由でえらく批難されたカフェオレのCMがあったが、批難した人それぞれのエロい想像力を押し付けただけの、傍目に恥ずかしいものであった。
 
『クリーピー』に話を戻すと、つまり香川照之が何故多くの人を自由自在に操り、西島秀俊という誰もが羨む旦那と天秤にかけても答えに窮させる理由は「不明」ということになる。
原作小説には明確な理屈があるのかもしれないが、映画『クリーピー』では、そこに理由があっても無くても、いずれにせよ「どうでもイイもの」だと定義つけられている。と、捉えるのが正しい。
 
スーパーマンが空を飛べる科学的根拠や、ジェームズ・ボンドがモテモテな理由同様。さらに言えば『ザ・コア』で地球の核が止まる理屈や、『アルマゲドン』の隕石に引力がある理由、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』で登場人物がびゅーんと飛んでいく理屈などなどなど。全部、「どうでもイイもの」だ。
ここで例に挙げたものたちは、比較的「虚構としてアリ」とされやすい「どうでもイイもの」だ。劇中世界の中で理由や理屈が無くても、映画を見る側からは「その方がケレン味が利いて楽しい」という“理由”がある。
 
黒沢清監督作が面白いのは、他の監督ならこだわりの理由を演出する部分を、あっさり切り捨ててしまうところだ。ミステリー映画やスリラー映画では「人を殺す」という様な強い決意が必要な行動の「理由」は語られてしかるべき題材になる。むしろ、その理由に映画自体のテーマを担わせることこそ多々ある。
 
『クリーピー』で割りと多く見かけたのは監督の過去作『CURE』との対比だ。『CURE』は誰かを殺してしまいたいという“殺意”がウィルスのように伝染していく物語だ。殺意の伝達に明確な理由や理屈は無く「そうされたら、そうなる」という映画内のルールがあるだけだ。
しかし『CURE』の場合は、そういった理屈の無い魔法の様なことが通じちゃう世の中になっちゃってるんじゃないだろうか? と、思わせる描写に溢れている。奥さんは気を病んでいて疲れるし、クリーニング屋ですれ違うサラリーマンの独り言は日に日にボリュームが増していて怖い。
『CURE』の劇中世界の様な、恐ろしい社会なら「殺意の伝染」なんていう魔法の様なことも起きるかもしれなくて怖いなー っというのが映画『CURE』がかもす恐怖だ。
 
『クリーピー』も同様に香川照之に命じられると、憑かれた様に隷属してしまうことに明確な理由や理屈は無い。

ただ、世の中には傍目に見れば意味不明なまでに人を隷属させる人物というのは存在する。尼崎の連続殺人死体遺棄事件の角田のばあさんとか。埼玉の愛犬家殺人事件の関根とか。『クリーピー』の元ネタと言われている北九州の監禁殺人事件もそうだ。オセロの中島知子を孤立させて寄生した占い師もこの類に入るだろう。

そういった事件を知っていればピンと来るし、実際の社会生活の中でも、これら事件化された出来事の犯人ほどでは無くとも、妙に圧の強い人物というのはいる。そんな人物と関わり合った経験があれば「あぁ、この香川照之はアノ人っぽい人物なのかもしれないな。それは恐ろしい……」と思いあたるかもしれない。
 
ただ『クリーピー』の場合、あまりに香川照之がそういったタイプの「異常に圧の強い人物」を演じすぎて、磨耗している感じがある。それらの作品では、たいていラストで“圧”を跳ね除けられて屈服し、土下座しちゃっていたりするし。
そういった「香川照之の使って減ってきちゃった感」が『クリーピー』を大絶賛できない所以だ。
 
大変楽しんだし面白かったんだが、「逆転満塁ホームラン」の面白さを期待したら「3点リードでダメ押しのソロホームラン」くらいだった。という感じか。
 
とかなんとか、ぼんやり考えた。

 

映画見ていない自慢のナゾ

私はスター・ウォーズ好きだ。

とはいえ、コスプレ衣装の一つも持っていないし、ファンクラブ的なグループにも入っていない。一応、過去の映像作品(本編6本とアニメ作品など)はほぼ観賞済み。自慢の品は数年前に日本で行われたスターウォーズのイベントでマーク・ハミルやピーター・メイヒューなど出演者に寄せ書き的にサインをいただいた日本版ポスター。
日本語翻訳の出ているコミックは読んでいるけど小説版はほぼ読んでいない。グッズ類は特に気に行った数点を残し、100体以上持っていたフィギュアは全て売り払ってしまった。
スターウォーズは好きか?」と問われれば、普通のテンションで「好きですよ。」と答えるくらいの、相対的には「中の下」くらいのファンだ。
 
この程度でもSW好きだと「私はスターウォーズを1本も見ていない!」と言われることがよくある。
オリジナル3部作は30年以上前のシリーズだし、プリクエル3部作ですら10年経過している。民放テレビの映画放映枠がすっかり無くなった今では、何の気なしにスターウォーズの放映を見始めてしまうということも無いのだろう。20代で、まだ見ていない人がいるのはそれほど珍しく無い。
 
ただ、見ていないことを声高に私に伝える人は、私が落胆するか怒りだすか、いずれにせよ感情を強く揺さぶられる様子を待っている。上記した通り、別にそんな人は珍しくもなんともない。もしも今まで1本もスターウォーズシリーズを見ていなくて、その上で興味を持って見てみようと言うのなら「あぁ、これからあの世界に初めて触れられるのは羨ましいことだなぁ……」と思ったり言うくらいだ。
「へー、見たらイイですよ。面白いですよ。」と、平穏に伝えるとなんだか肩すかしを食ったような顔をされる。サービスとして泣きながら怒鳴りつけて、ビンタの一つもくれてやった方が良かったのだろうか?
 
映画だと、この手の言説に事欠かない。
「私は未だに黒澤明を見たことが無い。」
もしくは、成瀬を見てない。小津を見てない。『市民ケーン』を見ていない。フェリーニを見ていない。ゴダールを見ていない。などなどなど…………
傑作/名匠の作る作品を、ことさら胸を張って「見ていない!」と強く訴える人は、それらが「古典」で「有名」で「多くの人が見ている」ことに反発しているのであろう。それほど胸を張れることでは無いが、何故か不思議と彼らは自慢げだ。
 
そして、言われたところで「はぁ、そうですか。」としか言い様が無い。
何と言ってあげればイイんだろう?
わからないから「はぁ、そうですか。」と言い続けるのみである。
 

「予告上映取り下げについて」のブクマコメが類型的なのでまとめて答える

・「ゾーニング」って言ってる人

日本における映画宣伝のための予告篇は、全てレイティングカテゴリ「G」になる。
当然『グリーン・インフェルノ』予告もキチンと映倫を通しているものならば、全年齢が見ても良いと映倫が判断したものになる。コンテンツにおける「ゾーニング」は「見たくないものを見せないルール」のことではない。どこまで都合のいい解釈してるんだ? ずんの飯尾か?

・何をもって「キチガイクレーマー」なのか?

予告がイヤだから見せるな!とリプを飛ばす。 目を反らせばいいだけの話に、わざわざ劇場に文句言うのがキチガイじゃないなら何なんだ? 「頭のねじの締め具合に遊びがある人」じゃ長い。

・「表現の自由」って言ってる人

そんなこと言ってないし書いてないし意味が解らない。

・前回エントリ「映画館上映前のマナーCMについて」とダブスタだと言っている人

 「蹴って来る後ろの客に「蹴るな!」と直々に文句を言え。わざわざCMに文句言うな。」
「映画の予告が不快なら俯いて画面が見えないようにしろ。わざわざ映画館にCM変えさせるな。」
自分で出来る範囲のことは自分でしなさいね。ってほぼ同じ事言ってんだけど…… 「ダブスタ」って最近覚えた言葉を使いたがってるのかな?

キチガイクレーマーはお前だ!と言ってる人

私は立川シネマシティのアカウントにリプ飛ばしてるワケじゃないし、「お前のとこではもう見ない!」と脅しているワケじゃない。私が「キチガイクレーマー」と言っているのは正に「キチガイクレーマー」に対してであって、違う人は違う。 怒ってるのは自覚がある人なのかな?

・映画ファンはキチガイだと言う人

別に映画ファン代表とか一言も言ってない。連帯責任とか好きだよね。おれは大キライ。
 
……えーっと、こんなところかな?

立川シネマシティ『グリーン・インフェルノ』予告上映取り下げについて

 

『食人族』アマゾン取り扱い中止に続き、立川シネマシティで『グリーン・インフェルノ』予告編にクレームが入り、上映が取り止め=別の予告編に差し替えとなった。
シネマシティ・アカウントによると「劇場としての総合的な判断」ということであり、キチガイじみたモンスター・クレーマーの影響だけでは無いということだ。
 

 

『グリーン・インフェルノ予告に替わって別のアニメ映画予告が流れるそうだ。もちろんアニメ映画を見に来ている客に対して「次、またアニメやりますよ!」という予告を流すのはマーケティングとして当たり前だし、その方が宣伝効果は高いだろう。
 
ただ、いただけないのは予告差し替えに至る流れだ。
 
11月21日(土)公開のアニメ映画上映前の『グリーン・インフェルノ』予告にクレームが入り、批難やクレームツイートが散見され、その日のうちに差し替え決定。クレーマーへ冗談まじりとはいえ「構成担当者を大説教ですわ……( ̄▽ ̄;)」「大変申し訳ございませんでした…」など謝罪ツイートまでしている。
 
立川シネマシティは大手シネコンとは別の、独立した劇場で、それ故に企画性の高い上映が出来たり、かつては日本で数少ないTHXシステムを有するスクリーンがあったりと、独自なスタンスの営業がなされている。
当たれば一人勝ちだが外すと一人負けとなる。
 
「予告に『グリーン・インフェルノ』がある限り立川では(リピートで)もう見ない」というクレームツイートも見かけた。それらツイートに対し謝罪をしてしまっている以上、クレームは予告取り止め=差し替え決定に充分な影響力があったとされても、否定は出来ない。
彼らキチガイクレーマーにとっては「勝訴!」てなもんだ。実際「総合的な判断」とツイートしていることは、クレームが予告差し替えの要因では無いと言い切れない証拠だ。
 
ただ、これはキチガイクレーマーに対するポーズでもあるだろう。
「アナタ様の言う通りでございます。言われた通りにいたしますから、見ないとか言わないで引き続き立川シネマシティに来てくださいね♡」客商売である以上、キチガイでも金を出す人ならお客様であり、タダで下げられる頭くらいはいくらでも下げようという、商人として自然な行為だ。
 
そこまでは理解できる。しかし「クレームによって予告を取り下げる前例」を作ってしまった罪(あえて罪と言いたい)はデカイ。いくら立川シネマシティ側が「クレームは大きな要因では無い!」と言っても「大なり小なりクレームが原因だ」と受け取られかねない言動をしてしまっているのも事実だ。
 
そして、ハッキリと言明しないことで、真意や事実は捻じ曲げられて伝わるハズだ。
「伝言ゲーム」がゲームとして成立するのは、人がものごとを正確に人へ伝達出来ない前提があるからだ。
その結果として「ホラー映画はトラブルの元」としてホラー映画全般の上映も危ぶまれる事態になるのではないだろうか?
 
妄想だとヌカすマヌケには、宮崎勤事件の言いがかりでホラー映画がやり玉に挙げられ、テレビやレンタル店の店頭からホラー映画が一斉に姿を消したことを教えよう。本当に、まったくの言いがかりで、ホラー映画がタブーになった経験が日本にはある。
 
立川シネマシティが、この「罪」を贖罪できる方法は限られている。
例えば。当該アニメ映画制作者による『グリーン・インフェルノ』上映後トークショーを開催するとか。当該アニメ映画の半券で立川での『グリーン・インフェルノ』観賞料金を割り引きするとか。
それくらいの挽回策でも実行しない限り、ホラー映画が衰退するような事態になった時には、その要因として今回の予告取り下げは強く記憶されるだろう。