『HiGH & LOW THE MOVIE』をめぐる言説について。

評論家の仕事は総じて楽だ。リスクも少なく立場は常に有利だ。

作家と作品を批評するだけだし、辛口の批評ならばそれは我々にも読者にも愉快なものだ。
だが評論家は知るべきだ。
“平凡だ”と書く評論よりも、平凡な作品の方が意味深い事を。
だが、我々もリスクを冒す時がある。
新しい物を発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため、支持者が必要だ。

~『レミーのおいしいレストラン』より~

 

『HiGH & LOW THE MOVIE』である。
まず、アクション・シーンは文句なく高レベルだ。終盤、両側をコンテナで限定した、細長く高低差のある空間で繰り広げられる大人数での格闘は画面に細かなメリハリを生んでいる。
例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』の合戦シーンは広大な場所で、しかもその場所を埋め尽くす人数が大合戦を繰り広げるが、広さゆえに印象は記号化して「一つの大きな戦い」に見える。世界大戦映画で地図の上を矢印が伸びていく、あの記号とほぼ同じだ。その中でギムリレゴラスがどんな戦いをしているのかは、クローズアップで確認することになる
一方、『HiGH & LOW THE MOVIE』の場合、大きなスクリーンのそこかしこで、山王や鬼邪高、RUDE BOYSなどなどがそれぞれのスタイルで戦っており、それぞれの姿が一つの画面の中に混在している。スクリーンのアッチやコッチをキョロキョロと見回し、大ケンカ・パノラマを楽しむことは映画館の大きなスクリーンでしか味わえない“映画的快楽”だろう。
 
さらに、その大モブ格闘を前フリにした、超大友情フラッシュバックがクライマックスとなる。マイティ・ウォリアーズとダウトにSWORDを襲わせていた琥珀さんに、MUGENの仲間だった九十九が、そして彼らにあこがれていた山王のヤマトとコブラが、それぞれがそれぞれの琥珀との思い出話をフラッシュバックで語っていく。
 
この場面はゲーム『逆転裁判』でのサイコ・ロックを壊していく風景を思い起こさせる。かつては人情味に溢れた琥珀さんが復讐のために非道な手段をとった、その心へ攻撃を加えていくようなイメージだ
琥珀さんにとって最大の負い目である「龍也の死」は最大限に利用され、クドいくらい繰り返し車に轢かれる瞬間が登場する。
さらに、この“人情攻撃”でうなだれる琥珀さんの様子は「琥珀が落ちた!」と、外で乱闘をする敵味方に伝えられる。すると、SWORDたちは勝どきを上げ、マイティ・ウォリアーズやダウトたちは舌打ちしつつ引き上げる。
普通、ケンカ対決と言えば、殴り倒して動かなくなるとか、死んでしまうとか、肉体的な屈服こそが勝敗の決め手になる。相手の弱みや良心をゆさぶることはあっても、むしろその心的な揺れをケンカに比喩するものだ。
 
その逆(というか、そのまんま表現)をすることで、それまでの大ケンカ・パノラマが、実は「琥珀さんのヤル気を削ぐ」というパーソナルな戦いであったことが解る。つまり琥珀さんのセカイ系戦争だったワケだ。
 
というのは、もちろん「穿った見方」になるのだが、一応物語として成立する。おそらく作り手はそういった見方をさせようとはしていない。もっと単純に「琥珀さんをケンカ的な表現以外で、かつての仲間に負けさせる方法」を突き詰めての展開であろう。その選択は作品に特出したいびつさを孕ませている。
 
映画において「特出したいびつさ」はソッコーでMEME化/ネタ化される。たとえば『ロッキー・ホラー・ショー』はキャンプないびつさがネタ化されたことで、従来の映画の楽しみ方とは違った「参加型映画」へと進化を遂げた。
石井輝男の『恐怖奇形人間』は日本で正式にソフト化されず長らく傷だらけのフィルム上映でしか見ることが叶わなかったことも合わさりMEME化した。おかーさーん!
ジョーン・クロフォード自伝の映画化『愛と憎しみの伝説』や、エドウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』などは、出来の悪いいびつさからMEME化した作品の代表だろう。ワイヤー!ハンガーを!つかうな!
 
『HiGH & LOW THE MOVIE』も出来の悪い作品である。しかし、上記したように素晴らしく出来の良い場面もある。このバランスを欠いた「特出したいびつさ」が多くの人を惹きつけている。終盤の大友情フラッシュバックのたたみかけがMEME化し、自分の強い思いをすべて琥珀さんに向けて叫ぶ(琥珀さんのせいにする)ネタとなっている。
主体的な参加によって、判官贔屓的心情が起こっているのも否めない。『HiGH & LOW THE MOVIE』を誉めそやす言葉全てに同意は出来ない。
 
しかし、貶す言葉にも同意出来ない。
出来の悪さは認めよう。だが「出来の悪さ」と「面白さ」は別ものだ。例えばブルース・リー主演映画はどれも映画としての出来は悪い方に区分されるが、面白さや作品の重要度は比類なく最高のものだ。
『HiGH & LOW THE MOVIE』がブルース・リー作品と同等だとは言えないが、それでも捨て置けない“何か”がある。それは間違いない。それが何か、今の私にはその語彙ボキャブラリーが無い。
 
しかし、あるったらある。そう言ったのは琥珀さん! あんたじゃないですか!

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ぼんやりと思いついたこと。
 
『クリーピー 偽りの隣人』がワケ解らない! っという感想を見かけた。
確かに、解りやすい作りでは無いように思える。
動機が無い連続殺人鬼がいて、いわゆる“普通”の社会通念とは違った倫理観を持ちながら、それが“違っている”とは自覚せずに常識的な行動として殺人を行っている。しかも、ちんちくりんでハンサムでもない到底魅力的とは思えない男に周囲の人たちは理由もなく従ってしまう。っという設定の人物は「解らない」だろう。
逆に言えば「解らない」というのが「答え」になっている。
 
たとえば本編劇中、香川照之竹内結子に「ボクと旦那さん、どっちが魅力的ですか?」と、よりにもよって西島秀俊と自分を天秤にかける質問をする。普通だったら1も2もなく西島秀俊だろう。男の私だってそう答える。ただ、私が答える場合には、ごく単純な「見た目」という要素でしか天秤にかけることが出来ない。
私を含め多くの人は香川照之にも、西島秀俊にも接点は無い。俳優としてテレビや映画館で観る2人は、それぞれ設定を持った役柄を演じている姿だから、真の姿だとは言えない。
西島秀俊もああ見えて実際には人をうんざりさせる様なイヤな奴かもしれないし、香川照之は必要最低限にしか口を開かない寡黙な人物でイメージとは違うかもしれない。しかし、私たちはそういった姿を知らないので、知っている範囲でしか判断できない。
知っている範囲でなら答えは西島秀俊の一拓になるのは、おそらく万国共通だろう。それが俳優が持っているイメージだし、本作でのキャスティングも、そのイメージを活かしたものである。
劇中に登場する2人、誠実で背が高くて頭が良い上に西島秀俊の顔を持った「高倉」と、変に人なつっこかったり、急につっけんどんになったり印象がコロコロ変わるし平日の昼から半ズボン着用でちんちくりんで香川照之の顔を持った「西野」。
大差がつく勝負でも、劇中の竹内結子は答えに窮する。つまり、スクリーンに映っていないところで答えに窮するような出来事があったと捉えるのが映画文脈になる。
何かがあった。でも、それは映っていない。
 
論理学の世界では、そういった描写されていない「行間」のようなものは「無い」とされている。
 
映画に限らず、文学や漫画について「行間に漂う緊張感が素晴らしい」といった「描かれていない」事柄を評する文を一度くらいは見かけたことがあると思う。しかし、そういった評は映画から鑑賞者自身が想像した事でしかない。
それがアリなら、たとえば文房具店のペンの試し書き用紙に残された「ああああああああ」といった意味の無い文字列の「行間」に壮大な物語があるかもしれない。村上春樹の傑作小説の行間には具にもつかないどーでも良い事柄な上に文法的にもメチャクチャな駄文があるかもしれない。
でも、実際には無い。無いものは評価のしようが無い。なので無い。よく考えてみればあたりまえのことだ。
余談だが、描写されていない“その後”が理由でえらく批難されたカフェオレのCMがあったが、批難した人それぞれのエロい想像力を押し付けただけの、傍目に恥ずかしいものであった。
 
『クリーピー』に話を戻すと、つまり香川照之が何故多くの人を自由自在に操り、西島秀俊という誰もが羨む旦那と天秤にかけても答えに窮させる理由は「不明」ということになる。
原作小説には明確な理屈があるのかもしれないが、映画『クリーピー』では、そこに理由があっても無くても、いずれにせよ「どうでもイイもの」だと定義つけられている。と、捉えるのが正しい。
 
スーパーマンが空を飛べる科学的根拠や、ジェームズ・ボンドがモテモテな理由同様。さらに言えば『ザ・コア』で地球の核が止まる理屈や、『アルマゲドン』の隕石に引力がある理由、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』で登場人物がびゅーんと飛んでいく理屈などなどなど。全部、「どうでもイイもの」だ。
ここで例に挙げたものたちは、比較的「虚構としてアリ」とされやすい「どうでもイイもの」だ。劇中世界の中で理由や理屈が無くても、映画を見る側からは「その方がケレン味が利いて楽しい」という“理由”がある。
 
黒沢清監督作が面白いのは、他の監督ならこだわりの理由を演出する部分を、あっさり切り捨ててしまうところだ。ミステリー映画やスリラー映画では「人を殺す」という様な強い決意が必要な行動の「理由」は語られてしかるべき題材になる。むしろ、その理由に映画自体のテーマを担わせることこそ多々ある。
 
『クリーピー』で割りと多く見かけたのは監督の過去作『CURE』との対比だ。『CURE』は誰かを殺してしまいたいという“殺意”がウィルスのように伝染していく物語だ。殺意の伝達に明確な理由や理屈は無く「そうされたら、そうなる」という映画内のルールがあるだけだ。
しかし『CURE』の場合は、そういった理屈の無い魔法の様なことが通じちゃう世の中になっちゃってるんじゃないだろうか? と、思わせる描写に溢れている。奥さんは気を病んでいて疲れるし、クリーニング屋ですれ違うサラリーマンの独り言は日に日にボリュームが増していて怖い。
『CURE』の劇中世界の様な、恐ろしい社会なら「殺意の伝染」なんていう魔法の様なことも起きるかもしれなくて怖いなー っというのが映画『CURE』がかもす恐怖だ。
 
『クリーピー』も同様に香川照之に命じられると、憑かれた様に隷属してしまうことに明確な理由や理屈は無い。

ただ、世の中には傍目に見れば意味不明なまでに人を隷属させる人物というのは存在する。尼崎の連続殺人死体遺棄事件の角田のばあさんとか。埼玉の愛犬家殺人事件の関根とか。『クリーピー』の元ネタと言われている北九州の監禁殺人事件もそうだ。オセロの中島知子を孤立させて寄生した占い師もこの類に入るだろう。

そういった事件を知っていればピンと来るし、実際の社会生活の中でも、これら事件化された出来事の犯人ほどでは無くとも、妙に圧の強い人物というのはいる。そんな人物と関わり合った経験があれば「あぁ、この香川照之はアノ人っぽい人物なのかもしれないな。それは恐ろしい……」と思いあたるかもしれない。
 
ただ『クリーピー』の場合、あまりに香川照之がそういったタイプの「異常に圧の強い人物」を演じすぎて、磨耗している感じがある。それらの作品では、たいていラストで“圧”を跳ね除けられて屈服し、土下座しちゃっていたりするし。
そういった「香川照之の使って減ってきちゃった感」が『クリーピー』を大絶賛できない所以だ。
 
大変楽しんだし面白かったんだが、「逆転満塁ホームラン」の面白さを期待したら「3点リードでダメ押しのソロホームラン」くらいだった。という感じか。
 
とかなんとか、ぼんやり考えた。

 

映画見ていない自慢のナゾ

私はスター・ウォーズ好きだ。

とはいえ、コスプレ衣装の一つも持っていないし、ファンクラブ的なグループにも入っていない。一応、過去の映像作品(本編6本とアニメ作品など)はほぼ観賞済み。自慢の品は数年前に日本で行われたスターウォーズのイベントでマーク・ハミルやピーター・メイヒューなど出演者に寄せ書き的にサインをいただいた日本版ポスター。
日本語翻訳の出ているコミックは読んでいるけど小説版はほぼ読んでいない。グッズ類は特に気に行った数点を残し、100体以上持っていたフィギュアは全て売り払ってしまった。
スターウォーズは好きか?」と問われれば、普通のテンションで「好きですよ。」と答えるくらいの、相対的には「中の下」くらいのファンだ。
 
この程度でもSW好きだと「私はスターウォーズを1本も見ていない!」と言われることがよくある。
オリジナル3部作は30年以上前のシリーズだし、プリクエル3部作ですら10年経過している。民放テレビの映画放映枠がすっかり無くなった今では、何の気なしにスターウォーズの放映を見始めてしまうということも無いのだろう。20代で、まだ見ていない人がいるのはそれほど珍しく無い。
 
ただ、見ていないことを声高に私に伝える人は、私が落胆するか怒りだすか、いずれにせよ感情を強く揺さぶられる様子を待っている。上記した通り、別にそんな人は珍しくもなんともない。もしも今まで1本もスターウォーズシリーズを見ていなくて、その上で興味を持って見てみようと言うのなら「あぁ、これからあの世界に初めて触れられるのは羨ましいことだなぁ……」と思ったり言うくらいだ。
「へー、見たらイイですよ。面白いですよ。」と、平穏に伝えるとなんだか肩すかしを食ったような顔をされる。サービスとして泣きながら怒鳴りつけて、ビンタの一つもくれてやった方が良かったのだろうか?
 
映画だと、この手の言説に事欠かない。
「私は未だに黒澤明を見たことが無い。」
もしくは、成瀬を見てない。小津を見てない。『市民ケーン』を見ていない。フェリーニを見ていない。ゴダールを見ていない。などなどなど…………
傑作/名匠の作る作品を、ことさら胸を張って「見ていない!」と強く訴える人は、それらが「古典」で「有名」で「多くの人が見ている」ことに反発しているのであろう。それほど胸を張れることでは無いが、何故か不思議と彼らは自慢げだ。
 
そして、言われたところで「はぁ、そうですか。」としか言い様が無い。
何と言ってあげればイイんだろう?
わからないから「はぁ、そうですか。」と言い続けるのみである。
 

「予告上映取り下げについて」のブクマコメが類型的なのでまとめて答える

・「ゾーニング」って言ってる人

日本における映画宣伝のための予告篇は、全てレイティングカテゴリ「G」になる。
当然『グリーン・インフェルノ』予告もキチンと映倫を通しているものならば、全年齢が見ても良いと映倫が判断したものになる。コンテンツにおける「ゾーニング」は「見たくないものを見せないルール」のことではない。どこまで都合のいい解釈してるんだ? ずんの飯尾か?

・何をもって「キチガイクレーマー」なのか?

予告がイヤだから見せるな!とリプを飛ばす。 目を反らせばいいだけの話に、わざわざ劇場に文句言うのがキチガイじゃないなら何なんだ? 「頭のねじの締め具合に遊びがある人」じゃ長い。

・「表現の自由」って言ってる人

そんなこと言ってないし書いてないし意味が解らない。

・前回エントリ「映画館上映前のマナーCMについて」とダブスタだと言っている人

 「蹴って来る後ろの客に「蹴るな!」と直々に文句を言え。わざわざCMに文句言うな。」
「映画の予告が不快なら俯いて画面が見えないようにしろ。わざわざ映画館にCM変えさせるな。」
自分で出来る範囲のことは自分でしなさいね。ってほぼ同じ事言ってんだけど…… 「ダブスタ」って最近覚えた言葉を使いたがってるのかな?

キチガイクレーマーはお前だ!と言ってる人

私は立川シネマシティのアカウントにリプ飛ばしてるワケじゃないし、「お前のとこではもう見ない!」と脅しているワケじゃない。私が「キチガイクレーマー」と言っているのは正に「キチガイクレーマー」に対してであって、違う人は違う。 怒ってるのは自覚がある人なのかな?

・映画ファンはキチガイだと言う人

別に映画ファン代表とか一言も言ってない。連帯責任とか好きだよね。おれは大キライ。
 
……えーっと、こんなところかな?

立川シネマシティ『グリーン・インフェルノ』予告上映取り下げについて

 

『食人族』アマゾン取り扱い中止に続き、立川シネマシティで『グリーン・インフェルノ』予告編にクレームが入り、上映が取り止め=別の予告編に差し替えとなった。
シネマシティ・アカウントによると「劇場としての総合的な判断」ということであり、キチガイじみたモンスター・クレーマーの影響だけでは無いということだ。
 

 

『グリーン・インフェルノ予告に替わって別のアニメ映画予告が流れるそうだ。もちろんアニメ映画を見に来ている客に対して「次、またアニメやりますよ!」という予告を流すのはマーケティングとして当たり前だし、その方が宣伝効果は高いだろう。
 
ただ、いただけないのは予告差し替えに至る流れだ。
 
11月21日(土)公開のアニメ映画上映前の『グリーン・インフェルノ』予告にクレームが入り、批難やクレームツイートが散見され、その日のうちに差し替え決定。クレーマーへ冗談まじりとはいえ「構成担当者を大説教ですわ……( ̄▽ ̄;)」「大変申し訳ございませんでした…」など謝罪ツイートまでしている。
 
立川シネマシティは大手シネコンとは別の、独立した劇場で、それ故に企画性の高い上映が出来たり、かつては日本で数少ないTHXシステムを有するスクリーンがあったりと、独自なスタンスの営業がなされている。
当たれば一人勝ちだが外すと一人負けとなる。
 
「予告に『グリーン・インフェルノ』がある限り立川では(リピートで)もう見ない」というクレームツイートも見かけた。それらツイートに対し謝罪をしてしまっている以上、クレームは予告取り止め=差し替え決定に充分な影響力があったとされても、否定は出来ない。
彼らキチガイクレーマーにとっては「勝訴!」てなもんだ。実際「総合的な判断」とツイートしていることは、クレームが予告差し替えの要因では無いと言い切れない証拠だ。
 
ただ、これはキチガイクレーマーに対するポーズでもあるだろう。
「アナタ様の言う通りでございます。言われた通りにいたしますから、見ないとか言わないで引き続き立川シネマシティに来てくださいね♡」客商売である以上、キチガイでも金を出す人ならお客様であり、タダで下げられる頭くらいはいくらでも下げようという、商人として自然な行為だ。
 
そこまでは理解できる。しかし「クレームによって予告を取り下げる前例」を作ってしまった罪(あえて罪と言いたい)はデカイ。いくら立川シネマシティ側が「クレームは大きな要因では無い!」と言っても「大なり小なりクレームが原因だ」と受け取られかねない言動をしてしまっているのも事実だ。
 
そして、ハッキリと言明しないことで、真意や事実は捻じ曲げられて伝わるハズだ。
「伝言ゲーム」がゲームとして成立するのは、人がものごとを正確に人へ伝達出来ない前提があるからだ。
その結果として「ホラー映画はトラブルの元」としてホラー映画全般の上映も危ぶまれる事態になるのではないだろうか?
 
妄想だとヌカすマヌケには、宮崎勤事件の言いがかりでホラー映画がやり玉に挙げられ、テレビやレンタル店の店頭からホラー映画が一斉に姿を消したことを教えよう。本当に、まったくの言いがかりで、ホラー映画がタブーになった経験が日本にはある。
 
立川シネマシティが、この「罪」を贖罪できる方法は限られている。
例えば。当該アニメ映画制作者による『グリーン・インフェルノ』上映後トークショーを開催するとか。当該アニメ映画の半券で立川での『グリーン・インフェルノ』観賞料金を割り引きするとか。
それくらいの挽回策でも実行しない限り、ホラー映画が衰退するような事態になった時には、その要因として今回の予告取り下げは強く記憶されるだろう。

映画上映前のマナーCMについて。

 

blog.goo.ne.jp

TOHOシネマ系列で映画上映前に流れるマナーCMでは効果が疑わしいから、ドラマ仕立てにして、おしゃべりや座席を蹴ると“被害者”が出てくるというアピールをしたらどうか? というエントリー。
 
結論から言ってしまうと、ドラマも現状のCMも効果は変わらないだろう。
TOHOのニコチャン大王っぽいキャラクターがイスを蹴ったり、おしゃべりしたり、携帯を点けたりというマナー違反をして「ノー!ノイズ! ノー!キッキーン!」というあれは、正にドラマを圧縮記号化したものだ。
ニコチャン大王が蹴られてたたらを踏もうが、子供が暗い面持ちで沈んでいようが、記号としての意味は同じだし、現状の告知を見ても尚蹴るし喋る人にとって、告知の手法が変わろうと通じないものは通じない。
 
当該エントリーで指摘している「イスを蹴るのは「蹴る」という漢字が読めていないハズの小学生が多いから伝わらない。」という指摘だが、そもそも、「蹴る」はマンガでも出てくる率は高そうだし、読めない子供はマンガも読めないくらいの子供、ということになる。「蹴る」が読めないほどの子供なら隣に保護者がいるハズ。
それでも蹴られたのなら「ノー!キッキーン!」は「蹴る」が読める保護者の大人にも伝わっていないということだ。
小学生だけが来場して後ろでイスを蹴ってきたら「蹴るな!」とドヤしつければイイこと。何もいちいち東宝の劇場に「あのマナー広告では小学生に伝わらない!」というのはまわりくどすぎるし、上映中蹴られっぱなしなのもいただけない。
 
私の経験上だと、実際イスを蹴ったり携帯を見るのは小学生以上、中高生~大学生くらいの似非Bボーイなギャングスタ気取りとか、キチガイじみた奴が多い。ドラマで悲しそうな子供を見せて変わるくらいなら、世の中は善意で溢れかえっているハズだ。
 
メジャー邦画を見に行くと、高確率でマナー違反に出くわすが、そもそもメジャー邦画はめったに見ない。新宿のシネコンは土日避けている。行ったとしても座る場所は前寄り、ブロックが別れていれば外側を選んでいる。これでかなり被害は防げていると思う。
前寄りなら観客の多くは死角になる後ろにいるということになるので携帯を点灯させても見えない。うるさい奴というのは、えてして劇場の真ん中あたりを選ぶから外側なら遠い。
最近出来たシネコンは傾斜が強めで背もたれは高く作られているから、すぐ前の座席でも手元は見えないし、最前列で無い限りスクリーンが見えずらいということもあまり無い
むしろ、前寄りはスクリーンがより大きく見えて迫力があるからオススメすら出来る。
 
もっと「そもそも」遡れば。
自分以外の人間が自分の思った通りに行動するハズが無いので、期待はしていない。人間がいれば大なり小なりうっとおしいものだし、それが赤の他人なら尚更。人に何かを訴えて変えようと思うより、自分で避けた方が早い。
1800円払って、そんなうざったい経験しか出来ないと言う人もいると思うが、割引制度を活用すれば安くて1000円から、高くても1500円で見られる。
 
発券後に座席は変えられないとアナウンスされるが、私は結構移動する。だって、臭い奴とか脇腹を肘でつついてくる奴にイチイチつっかかってたら映画が楽しめないし、そういう客が隣に来るのは予測できない。
上映前に臭い奴が隣に来たとか、空いているのにピッチリ横の席とる奴がいるのが解ってれば、係の人を呼んで事情を説明して、移動する。上映が始まっていれば勝手に移る。
全く盲で座席を選ばせておいて「移動するな」という方が不条理だ。劇場だって上映中にトラブルが発生するくらいなら、事前に避けてもらった方が「発券後の移動不可」の意味不明なルールを守り通すよりイイだろう。
 
私の場合。
隣のおしゃべりが煩ければ「黙ってください」と言うし、それも普通のトーンでずーっと喋っている奴とか、よっぽどの時のみ。
携帯を見ている奴がいたら。座席が空いていれば自分が席を移動する。空いていなくて隣なら手で光が視界に入らないよう遮る(隣だと画面自体を覆う形になるが)。遠くでコッソリ見てるなら大して気にならないし、丁度視覚に入って、よっぽどうっとおしければチラシを丸めて投げつける。
マナー違反の注意喚起をしたところで、する奴はする。する奴は何を言っても絶対にするし、何をどう工夫してもする。だから、自分で解決するか避けるかしかない。
 
ただ、マナー広告が全くムダかと言えば、そんなことは無い。「ノー!セルフォン!」で「あ、スマホ切ってなかった……」と気付くこともある。
つまりは、マナー広告とはマナーの存在を知っている人にリマインドする意味しか無い。
 
雑感。
この話もそうなんだけど、世の中はあまりにシステムに依存し過ぎな気がする。マナー違反をする人がいるからと、自分でどうにかする以外の手立てから先に考えるというのは、まわりくどい。なんでその場で注意しないのか理解できない。
 
例えば、車の飲酒運転やスピードオーバーは法律違反だが、する奴はする。法的に裁かれるのは違反者だが、轢かれて痛いのはコッチだ。なので車には常に注意をするべきだし、私はそうしている。
同様に、車が全然いない閑散とした交差点の信号を守っても意味は無い。信号は目安でしかない。ケース・バイ・ケース/臨機応変/主体的に対応をしなければバカを見るのはコッチだ。
結局、自分を守るのは自分でしかない。人に任せればラクだけど自分の思い通りには絶対にならない。

【映画アプリWATCHA】で遊んでみた!

最近は月に1回、アリバイのように見た映画のことを書いているだけなのだが、アバウト10年以上は経っている「ゾンビ、カンフー、ロックンロール」の侍功夫です。

これだけ長いこと映画のことばっかり書いていると「試写見てね」とか、「こんなのどうですか?」みたいな話もいただくこともあったり。スマホの映画レビューアプリ「WATCHA」を紹介してくださいよ~ と、依頼があったワケです。
↓これ。ダータ。タダです。

https://goo.gl/AOCV3H

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ダウンロードしていきなり「映画」「ドラマ」「アニメ」の各ジャンルから何本か星取りしないといけない、というハードルが登場。映画はそこそこ見ているのでまぁ100本程度さらさらっと星取ってやったのだが、ドラマやアニメとなるとほとんど見ていない。洋ドラマとガンダム関連でようやくクリアして自分のホーム画面に到着。
 
各ジャンルのアクセス数が解る「ランキング」では、今だと映画は『キングスマン』が高いのね。とか、ドラマだと『相棒』佐藤可士和を襲うよう訓練された犬を飼うポイズン反町の注目度があるんだねー。とか、アニメのトップ10全部しらね~、とか楽しめるワケです。
 
「おすすめ」では、最初に星取りをして高得点を記した作品の関連作品や同傾向の映画を「こんなのどうですか?」と教えてくれる。しかし「『ジョーズ』好きなら」と『パイレーツ・オブ・リビアン』を勧めてきたり「『セッション』好きなら」と『カウボーイvsエイリアン』を勧めてきたり、イマイチ選定方法は解らない。
 
メインの作品評の欄は、作品名の下に出演者、監督以外にプロデューサーや脚本、撮影監督、衣装、音楽、字幕担当まで! かなり細かく区分されていて唸ったんだが、まだ映画の登録数が少ないのか、登録はされているけどリンクが間に合っていないのか。例えば「ヘザー・グラハム」の出演作はたった5本しか登録されていないけど、リストの外に『キリング・ミー・ソフトリー』はあって、出演者情報がカラのまま。
とか、『テッド』は『テッド』と『テッド アンレイテッド・バージョン』『テッド 大人になるまで待てないバージョン』の3種類が登録されていたり、精査が全くされていない感じ。
 
ただ、そんな中でも、このアプリの白眉と言えるのが虫メガネマークの「検索」だろう。
検索に行くと、「受賞作一覧」という項目があって世界4大映画祭、アカデミー賞の作品賞。カンヌのパルムドール。ベルリンの金熊賞ベネツィア金獅子賞の受賞作品がリストされている。
ドラマだとゴールデン・グローブエミー賞、日本のギャラクシー賞、韓国のソウル・ドラマ・アワードがリストされている。
アニメは東京国際アニメフェア東京アニメアワードの2つだけなのだが、これは門外漢なので網羅されているのかどうかは知らない。アニー賞ってあるよね?

あとは参加者がテーマに沿った「まとめ記事」を作製できるようになっていたり、クイズがあったり、楽しいコンテンツがある。

のだが!
 
このアプリ最大の難点はホームに一発で戻れないところ。
たとえば「ブギーナイツ」→ヘザー・グラハム→「キリング・ミー・ソフトリー」→『テッド』とリンクをたどってサーフしていって、「ちょっくらホームに戻るか……」と思ったら
と順を遡らないといけない。面倒臭くて一度アプリを終了して再度立ち上げても丁寧にさっきの表示のまま。やっぱり一つ一つたどって戻らないといけない。
あと、基本的にスマホ・アプリでスマホ版しか無いから長文をPCで書きたい人には全く不向き。
さらに、何がいけないのか「ヘザー・グラハム」で検索かけると何もヒットしないけど、『ブギーナイツ』の出演者に「ヘザー・グラハム」がいたりと、ピーキーな検索設定。
 
と、紹介はしたけどまだ改善の余地がある「WATCHA」試してみてはいかがでしょうか?