本当は怖い江戸しぐさ

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「傘かしげ」「こぶし腰うかせ」など、江戸の街で暮らす人々が互いを思いやるしぐさ「江戸しぐさ」が、道徳の授業に取り入れられるそうだ。しかし、非常に恣意的な取捨により、紹介されていない“しぐさ”も多い。それらも他のしぐさ同様に現在の社会生活へ取り入れられるべきだと考える。
これから、道徳の授業から切り捨てられている、重要な「江戸しぐさ」を紹介する。
 
●冷死す人 (れいしすと)
「えた」「ひにん」らにいわれのない罵詈雑言を浴びせた者や、隔離政策を進めようと言う学者は、粘度が出るまで煮た油を全身に塗られ、その上から鶏の羽を付けた。その状態で猿ぐつわを噛ませ、鹿やイノシシの猟場に放置した。獣に間違われて矢を射られたり罠にはまったり、また野生の熊に襲われるなど、生還できた者はいないとされる。
 
 
●簀非璃豚 (すぴりぶた)
四谷怪談や番町皿屋敷など、幽霊譚は江戸の町でも娯楽として語り継がれていた。しかし、先祖の霊や守護霊を持ち出して脅し、不安につけこみ法外な金銭を要求した者は、藁で簀巻きにして浅草から隅田川へ流した。その際、河口まで生きていられることを彼ら自身の守護霊に誓わせ存在を実証させた。しかし、そういった者の多くはよく肥えていたため、両国までもたなかった。
 
 
●輪荼毘 (わだび)
奉公の小僧や手代を、劣悪な環境下で長時間重労働させた番頭は、火の見やぐらの上に軟禁され、半紙100枚に書けるかぎり小さな字でなるべく多く「ありがとう」と書かされる。しぐさをさせられる者は1日24時間3交代で監視される。その際、監視者が「ここから飛び降りろ」と怒鳴りつけ続ける。それが「輪荼毘」の「有難い蒐集」である。
 
 
●傲慢釜市中 (ごーまんかましちゅう)
郷土への過剰な愛を他人に強要する者は、剃毛した上で全裸で磔され、江戸市中を10日間以上かけてくまなく引きまわして局部をさらされた。このしぐさをさせられる者の多くが、なぜか極端に小さな陰茎の持ち主だったことから別名「御坊釜」(おぼうかま)がなまった「おぼうちゃま」と呼ばれた。また、しぐさ途中に同じしぐさをする者とすれちがった場合、その尻と尻を合わせ、互いの陰茎を握り合わせた。その光景は「友だ珍交」と呼ばれ、多くの子供がマネをしたことで問題になった。
 
 
●百田と慎太 (ひゃくでんとちんた)
「戦国時代は良かった」「若者は一度は戦(いくさ)に出るべきだ」など、自分自身ですら体験したことの無い戦国時代や戦へのあこがれを語る者は、「関ヶ原軍団」と呼ばれた暴力集団による矢の一斉射撃や花火火薬を使った爆撃にさらされた。生き残った者は遊郭の下働きとして引き取られる。彼らは「百田と慎太」の恐怖で常に蒼ざめていたことから「屋敷低人の従藍」(やしきてかじんのじゅうあい)と呼ばれた。
 
これら「江戸しぐさ」は道徳の授業に使われるという「江戸しぐさ」と全く同様の信ぴょう性と歴史を持った由緒正しいものだ。是非これらも同等に授業で使用されることを願う。
 
また、上記した江戸しぐさについては空飛ぶスパゲティモンスター教の精神的な協力によって発見できたことを特別に記しておく。
 
ラーメン

 

Joe Talk

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世に蔓延る常套句について。
新作『スター・ウォーズ フォースの覚醒』の公開が迫り、ティーザー予告も公開され、制作についての裏話も少しづつメディアに報じられだした。中でも「クリエイティブ・コンサルタント」のジョージ・ルーカスのストーリー案がJ・J・エイブラムスに却下されたニュースは多くの賛同をもって迎えられている。
 
監督業からはほぼ引退していたルーカスが再びメガホンを取ったSWプリクウェルシリーズ三部作は多くのSWファンさえも落胆させたし、インディ・ジョーンズもルーカスの選んだ脚本で作られた最新作は酷いものだった。それらのことが今回の「ルーカス案却下」賛同の要因であろう。
 
しかし、ルーカスの残したSWオリジナル三部作や『THX1138』『アメリカン・グラフィティは単にヒット作というだけでなく、映画史に残るエポック・メイキングな作品だ。
対してJ・J・エイブラムスのフィルモグラフィといえば、トム・クルーズの『ミッション:インポッシブルやSWに双肩する人気を誇る『スタートレック』のリブートなど、最初から立派な看板ありきのスタジオ主導のシリーズだ。唯一のオリジナル作『スーパー8』もエンドクレジットのオマケ8ミリ映画ほどは本編に興奮できなかった。どれをとってもルーカスの残した傑作を越える映画など1本も無い
 
J・J・エイブラムスは、複雑で大きなプロジェクトの現場をそつなく回せる「優れた進行管理係」として重宝されているだけだろう。誰も思いつかなかった表現を編み出すとか、今まで映画では描かれたことの無い情景を見せてやろうという心意気は無く、期間内にあらかじめ想定した様式で仕事を終わらせるだけ。そんな「最近ヒット作に関わってイキっている進行管理係」風情がルーカスの案を却下したことに、賛同の声が出ること自体、(たとえ近年の業績が振るわなかったとしても)理解に苦しむ。
 
また、プリクウェル三部作でことあるごとに取り沙汰されるジャージャービンクス/グンガン族だが、ルーカスが彼らに込めたオマージュの一つも知らない輩がピーピーと下した腹のようなことをぬかすのも腹立たしい。
別にプリクウェル3作が傑作だとは言っていない。ジャージャーはあれはあれで見慣れてくれば可愛い奴だが嫌われているのも解る。ただ、評判の悪いプリクウェルシリーズやジャージャーなら無条件で貶して良い! と記号的にその名前を出し、何か気の効いたジョークでも飛ばしたとばかりに鼻の穴おっぴろげているブレイン・レスな輩にはあきれ果てる他ない。
 
 
インド映画に対する「3時間以上あって長い」だの「唐突に始まるミュージカルがバカバカしい」だのという常套句も同じだ。
実際にはインド映画には「3時間以上ある作品」と、「そこまで長くない作品」が当たり前のようにあり、その割合は圧倒的に「3時間以下」の方が多い。近年では2時間弱が主流になっている。
加えて、「インド映画といえば」といった話題で必ず取りあげられる古典的名作、サタジット・レイのオプー三部作からして『大地のうた』(2時間5分)、『大河のうた』(1時間42分)、『大樹のうた』(1時間38分)と、どれも3時間以下どころか、2本については2時間を切ってさえいる。
たとえば黒澤明の映画を考えてみればいい。「世界の黒澤」と言われるほどの巨匠で、日本を代表する映画監督と言ってさしつかえ無いだろう。その黒澤の『七人の侍』(3時間27分)、『赤ひげ』(3時間5分)、『影武者』(2時間59分)を取り上げて「日本映画は長い!」と言う奴がいたとすれば真のマヌケだ。
 
「唐突に始まるミュージカル」となると、もはや意味すらわからない。はたして「徐々に始まるミュージカル」があるのだろうか? 一人づつ少しづつ唄い始めるミュージカルはあるかもしれないが、唄い出した時点で「唐突」だろう。もしくは歌い出す直前に「さぁ!これからミュージカル・ナンバーを披露します!」とアナウンスするミュージカル映画は興ざめもいいところだ。広い世の中、そんなミュージカル映画もあるのかもしれない。しかし、それがいつからメインストリームになったのか、私は寡黙にして知らない。
 
 
常套句はたいがい、門外漢がよく知らない世界のことを語っているだけだ。よく知らないから他の言葉で言い表せず、繰り返して同じ言葉が人々の口を転々と伝っていく。だから「常套句」なのだろう。
 
映画を趣味以上の範囲で見ている人の多くはJ・J・エイブラムスがルーカスを越える名監督だなんて、少なくとも今のところは思っていないだろう。インド映画をよく見ている人は「インド映画は3時間以上あって、唐突に始まるミュージカルがバカバカしい」と言ってる人が、1本もインド映画を見ていないだろうし、ミュージカル映画さえ大して見ていないと知っている。
 
「人」という字は、右側の「人」が左側の「人」を支えているから「人」たりえる。決して互いに支え合っているワケではない事は、見れば解る。世の中で流通する常套句は、だいたいそんな程度なんじゃないだろうか?
 
少なくとも、常套句は疑ってかかるべきであろう。
 

 

アンハッピーエンド・オブ・ザ・ワールド

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小西康晴2014年度映画観賞リストを見て思ったこと。

10歳くらいの頃。古本屋でぶっ倒れたことがある。気分や体調が悪かったワケでは無い。2メートルほどの高さいっぱいまで伸びた、ぎっしりと本の詰まった本棚の壁に挟まれた幅50センチほど、奥行き2メートル程度の通路に立ち、ふと並ぶ本を見上げ「この壁に詰まっているのは、まだ読んだことの無い話が印刷された本……」と思った瞬間に気が遠くなって倒れた。
 
小西康晴の700本を越える、2014年度の観賞リストが自身のブログに上がっている。(http://blog.honeyee.com/ykonishi/archives/2015/02/07/post-21.htmlズラリと並ぶタイトルは確かに圧巻だが、一つ一つタイトルを見ていくと、そのほとんどが渋谷シネマヴェーラ神保町シアターなど、名画座で特集上映された古い邦画中心なのが解る。
もともと、ピチカート・ファイブはスウィンギング・ロンドンやイエイエなどを90年代に再提示し評価されたグループで、そのフロントマンの小西が古い映画に惹かれるのは、まったくスジが通っている。
しかし、それにしてもこのリストを見るに「あぁ!もったいない!」という思いが溢れてしまう。私自身が貧乏性から劇場で何度も同じ映画を見ないのもあるが、果たしてこのリストの中で、小西自身が「2014年度に初めて目にした映画」が何本あるのだろうか? と思ってしまう。
当該ブログには以下のよう記されている。


何本か二回繰り返して観ているものがある。それは以前に観たことを忘れていたもの。いつも始まってから、コレこの前観た、と気づく。けれども大抵の映画は二度観てもやはり面白い。あまりにも情報量が多過ぎるのが映画というものだ。
 
 
1/3くらいは同意できる。確かに1度見ただけでは観賞しきったと思えない映画はある。しかし、そんな濃度のある映画は多く無い。私も繰り返し映画を見ることはあるが、ほとんどの場合、動きの快楽や知っている展開を同じように味わいたいからで、一度見た映画から、気付けなかった未知の何某かを得ようという意図で見ることはあまり無い。
加えて、小西のリストには『ダーティハリー』に『狩人の夜』、成瀬、深作、石井輝男、イマヘー、カサベテスにチャップリンの長編まで、絶対に1度や2度は目にしているであろう映画もかなり多く含まれている。「二回繰り返して観ているものがある」どころか3度目、4度目の映画もあるだろう。
 
私は小西康晴とは映画に求めるものが全く違うのだなぁ。
 
現在、ヒューマントラストシネマ渋谷で開催されている「未体験ゾーンの映画たち」に出来るだけ通っている。良い評判の映画はもちろんチェックするのだが、海のものとも山のものとも知れない、完全ノーマークな作品との出会いが楽しい。
「未体験ゾーン」は今年で4回目になる。それまでの3回は約20作ほどを日替わりで上映していたのだが、今回は全49作もある。ラッキー・マッキーアベルフェラーラマイケル・ウィンターボトムロン・ハワード(!ドキュメンタリーだけど)の新作まである。しかし、ラインアップの中には全く素生の知れない映画の方が多い。それら知らない映画を「箱の中身はなんじゃろな?」方式で鬼が出るか蛇が出るか盲滅法に見ていく。だいたいファール。良くてポテンヒットだが、稀に観賞した日の印象を底上げするような映画にも出会う。
 
この数年、インド映画に傾倒しているのも全然事情を知らない世界だからというのは大きな要因だ。今でこそ出演者や監督、プロデューサーなどのクレジットから、作品の傾向が知れるものもあるが、それでもまだまだ底知れない映画に出会う。最近の作品はかなり垢ぬけてきているが、ビックリするような奇想天外さを持った映画に出くわす事も多い。
 
新宿ビデオマーケットさんに通うのも同じ理由だ。アメリカはもとより、イタリアやドイツの自主制作ホラー映画や中国の見知らぬカンフー映画に女囚バイオレンス映画。インドネシアパキスタンのホラー映画。埋もれていた70年代ブラックスプロイテーション映画。日本ではリリースされていない日本の映画ソフト。
ツタヤやGAOに並んでいるような映画を、食品衛生法に則って滅菌された、有名メーカーの加工冷凍食品だとすると、新宿ビデオマーケットさんに並んでいるのは、喧騒の中でテントを広げて営業する個人店のクセの強い逸品だ。しかも、行けば必ず、今まで一度も目にしたことの無い映画のソフトが置いてある。そのどれもがホラーかカンフー、どちらでもなければナチかセックスか、いずれかのエクスプロイテーション映画だ。初めてお店へ行った時には幼少のころにぶっ倒れた古本屋を思い出さずにはいられなかった。
 
長い時間を経て研究分析や語る言葉も出尽くして評価の固まった名作を、さらに改めて見て、語りつくされて確定した感想を抱き直すという行為は、子供用にガーターを埋めたレーンでのボウリングのように楽しいものだろう。対して全く知らない世界の映画を見るのは、その観賞時間を丸々損した気持ちになる可能性をそれなりに多く含んだ行為だと言える。
 
私はそれでも知らない映画が見てみたい。

ほなどないせえゆうね/INU

フランスの風刺雑誌シャルリー・エブド社襲撃事件について思ったこと。

目につく意見は以下2つ。
・シャルリー・エプド襲撃犯は殺人罪の罪を償わなければならない。
 >犯人の主義主張と、犯した罪を切り離して考えなければいけない。つまり「イスラム教徒によるテロ」ではなく「犯罪者による殺人」だと認識すべき。
・シャルリー・エプドの言論の自由は絶対に守られなければいけない。
 >それはそれとして、シャルリー・エプドのジョークはあまりに幼稚過ぎて笑えない。
というところだ。
 
大方の論理はその2点をふまえた上で「どんなに屈辱的で幼稚な挑発でも、言論に対しては言論で立ち向かわなければならず、テロは言語道断」と結論している。しかし、なぜか思考はそこで止まってしまい、それ以上の何かを考えようという流れはあまり見られない。さらに、少しでもテロに与するように見える意見は何のエクスキューズも無く「バカ」と罵られている。
 
 
 
たとえば。犬の頭を延々となで続ける。最初のうちこそ尻尾を振ってよろこんでいるかもしれない。しかし、犬だってなでられ飽きてくれば嫌にもなるだろう。水も飲みたいし走ってストレス発散もしたい。それでもなで続けたら。犬は怒って噛みつくだろう。
その犬に対して「なでられるのが嫌ならコッチが嫌になるまでなで返せ!」というのはナンセンスだ。
 
いかに下品で幼稚でくだらなくても、表現の自由は絶対に守られなければいけない。それには同意する。しかし、テロ行為はある種の「表現」ではないだろうか? なで続けられるのが嫌な犬が噛みつく以外の意思表現方法を取れないように「私はシャルリー・エブドに関わる奴らを殺すほどの怒りを持っている」というメッセージを襲撃することでしか表せなかったと見れないだろうか?
 
もちろん取り返しがつかない殺人犯罪を犯しているのは解っている。犯人は犯した犯罪を償わなければいけないと思う。私はISILやイスラム過激派、アルカイダの言動にコレっぽっちも賛同できない。それでもなお、彼らの「意思表明表現としてのテロ」に対して、現状の方法以外で向き合わなければいけない気がする。
 
 
 
年末の選挙で自民党議席を減らしながらも政権与党の座は確保し続けた。その結果を受け、白紙委任を取り付けたとばかりに暴走する自民党安倍政権を「野党が弱いからだ」と非難する声をニュースなどでよく聞く。しかし、強い側が横暴なのを、弱い側の弱さのせいにするっておかしくないだろうか? 
 
私自身、今はまだ裕福とは言えないながらも、日々の食事にも困る程の貧困に陥らず、それなりの文化を享受して生活している。今はまだ、この生活を大事にしたい。しかし、この生活を今の政権はおびやかしている。隣国を挑発し、富裕層がより富める税制を敷き、ムダで危険な施設を作ろうとしている。それには反対したい。しかし、その手立ては無い。
選挙に行けだ? 行ってるけれども私自身の「民意」とやらが反映されたためしなど一度だって無い。
自分で選挙に出ろだ? その費用と基盤を用意してくれれば、今いる奴らよりはるかに良い結果を出してやる。だから金出せ! と言ったところで出す奴なんていないだろ?
今の政権が横暴なのを私の政治力の無さや、私の支持する野党の弱さのせいにしたところで、何も変わらない。事態は悪くなるだけだ。
 
もしも、今の生活が崩壊し、家を追われ、食べるものにも窮したら。黙っていたってそのまま餓死する。歯向かって誰かを襲ったって、すぐに捕まるだろう。獄中で生活を続けられるほどの根性は私には無い。だったら、そんな状況へ陥れた奴らを、なるべく多くぶっ殺してやりたい。気が済むまでぶっ殺したら自決するのもイイし、捕まっても日本には死刑制度がまだ残っているから、なるべく多く殺すことが出来ればそれだけ早く殺してくれるだろう
 
私はテロリストになるかもしれない。
 
だから、もうちょっと「テロは言語道断」の先を考えて欲しい。その考えをむやみに「バカ」と言わないでほしい。シャルリー・エブド社襲撃事件は決して対岸の火事では無い。今、火種か燻り出した日本の問題でもあるから。
その証拠が在特会ハーケンクロイツを掲げた奇妙な行進だし、カウンターのファッション的プロテストだ。彼らは互いにそれ以外の「意思表明表現」が無いと思い込んでいるように見える。
私は犬では無い。在特会やカウンターだってそうだ。自民党党員や彼らを支持する人々も犬では無い。ならば、今よりもっとマシな手段があるハズだ。
 
犬になりたいと言うなら、それはまた別の話だが。

信じ難いバカの話

麻生太郎副総理が「高齢者問題で、高齢者が悪いという人もいるが、子供を産まない方が悪い」という発言をし、問題になった。本人による弁明・謝罪会見に加え、幹事長だかも(わすれた)「麻生くんは「てにをは」をよく間違える」と弁護。確かに本人による謝罪会見でも「(時間が少なかったので詳しく説明する)手が抜けてしまった」と言っていた。もちろん正しくは「手を抜いてしまった」だ。「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだことも併せて、彼の日本語能力は未だに小学生くらいと見積もって良いだろう。
国際会議か何かで「英語が達者だとされる」麻生の英語スピーチを見たことがある。コチラはドリフのコントでいかりや長介がふざけて極端なカタカナ英語をしゃべっているようにしか見えない大爆笑ものだった。おそらく、英語スピーチを書いた人が全てカタカナにした原稿を読んでいただけで、麻生は自分で自分が何を言っているのかも理解していなかったであろう。聞いている方も、おそらく誰ひとりとして彼の英語を聴きとれた人はいなかっただろう。
 
 
私の職場では、多くの派遣社員さんに来てもらっている。すごく仕事の出来る人はかなり少ない。割合で言うと1割程度。まあまあ出来る「普通の人」が残りの4割。間違いが多かったり、遅刻が多かったり、変につっかかてきて騒ぎ出したりする「比較的使えない人」が5割くらい。そんな中で、ごく稀に「びっくりするほど何も出来ない人」というのが出てくる。ミスが多い。遅刻が多い。それに加えて、とにかく清々しいほど何も出来ない。
「そういうものかと思って」エントリーシートでは使ったことの無いソフトが使えることになっている。
言ったことを忘れる。メモしたことも忘れる。作業自体も忘れる。「これお願い」と書類を渡した瞬間に、特に他に何もしていないのに、その書類と依頼そのものを完全に忘れてボーっとしている。
大事なデータを高確率で消去する。「もうゴミ箱をカラにしないでね」と念を押した次の瞬間にゴミ箱をカラにする。
失敗の報告書を書かせると小学生の反省文のような「ごめんなさい」を連呼した代物が上がってくる。書き直せとつっかえすとヘラヘラ笑いながら「どう書いたらいいんですかね?」と言うので、過去の報告書を見せてやると「このデータもらえませんか?」とコピペする気を隠そうともしない申請をしてくる。
などなどなど。とにかく仕事をさせている間、すべての言動を注視しなくてはならなくなり、忙しくても仕事を振ることは出来なくなり、試用期間が終了すると同時に契約は解除させていただくこととなる

 
麻生からは、彼らと同じ臭いがぷんぷんする。そして、安倍晋三総理大臣からも同じ臭いがする。追及されるとキレて声を荒立てて癇癪を起こす。その様子はおしめが濡れている不快感も空腹も背中が蒸れて暑いのも、とにかく泣いて騒いで待ってるだけの赤ちゃんを思わせる。麻生と安倍が並んで話をしている光景を見ていると『ミスター・ダマー』のジム・キャリージェフ・ダニエルズのように見える。おそらく2人の会話は「今日からおしめを卒業してトレーニング・パンツになった。」とか「レゴブロックは赤色がおいしい。」といった話題であろう。
 
 
今の世の中。金持ちがさらに大金持ちになれる税制や制度が執行され、貧乏人はより貧乏になり、学を得る機会を失い、そのまま自民党のシンパとなっている。これは、もの凄いシステムだと思う。人間性を一切欠いた、恐ろしく、凄まじく高い完成度のシステムだ。そんな凄まじいシステムを、麻生とか安倍といった、未だにツツジの花を見るとちぎって蜜を吸っているようなバカが考えつけるハズが無い。
 
 
続きはまたいつか。

新品派? 使いなじみ派?

野球帽の人気メーカーニューエラ(NEWERA)。今の流行りは、ピンと真っ平らなツバに、サイズ表記のシールを剥がさずつけっぱなしにしておき、汗どめのドゥラグをかぶってその上に深いタイプをデカめなサイズで形を崩さないようにかぶるスタイル。これは黒人アーティストの影響であろう。
値札をつけっぱなしにするとか、売っていたときのままにするのは「新品」を好む黒人特有の、昨日今日始まったワケでは無い、けっこう前からの趣向だ。
24年前。1990年のデジタル・アンダーグラウンドのデビューシングル「Humpty Dance」プロモーション・ビデオで鼻メガネのハンプティ・ハンプがモコモコの毛皮の帽子のプライスタグを外さずにプラプラさせている。
 
スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)で、厄介者の黒人バギンアウトが真っ白なエア・ジョーダン4を踏まれたと白人に因縁をふっかける場面がある。この場面でも「踏まれて痛い」から怒っているのでは無く、真っ白なスニーカーが汚れたというのが実に黒人らしい。
 
ステレオタイプな理由として「貧しい育ちの黒人たちは、新品であることが誇らしく、中古でもおさがりでも無いのがうれしいから出来るだけ新品の状態を保とうとする。」という言い草がある。
 
それとは対照的な場面を見たことがある。ビースティ・ボーイズ1992年のアルバム「チェック・ユア・ヘッド」リリース後の日本ツアー時に撮影されたバックステージ・ドキュメンタリー番組。アドロックが買ったばかりのまっさらなギターに紙やすりをかけて、いかにも使い古したようなダメージを付けていた。
 
パンク・ファッション、で思い浮かべるのは膝が破けたタイトなジーンズではないだろうか? ラフィン・ノーズのボーカル、チャーミーのズッタズタに破けたジーンズの中にもう1本別のジーンズを合わせる重ね着にはあこがれたものだ。
 
ダメージ・ジーンズは昔は自分で年季を入れて膝が抜けるよう、それこそビースティ・ボーイズのアドロックじゃないが、膝で畳の目にひっかけるように、ずりずりと歩いたり、剣山で引っかいたりしたものだ。今では最初から破けて横糸だけ残した「新品のダメージ・ジーンズ」という矛盾したような商品が売っている。
 
ボク自身は黒人文化は好きだけど、ジーンズは履きならした感じの方が好きだし、野球帽はツートーンのメッシュキャップのツバをかまぼこ型にならして深くかぶる。白黒ごっちゃなワケだ。
 
しかし、その点で言えば、今の若者たちはデニムのダメージ加工したサルエルパンツに、ピッカピカのニューエラかぶっているのだから、白人黒人イスラム系のごった煮状態だ。そういう根無しっぽいスタイルが日本人という感じで凄く好きなんだけど、自分では出来ない。
 
自分では出来ない理由は、サルエル・パンツはボクの世代ではMCハマーのアイコンであり、ダサくて履けない。ダメージ・ジーンズは単に貧乏そうに見えやしないか不安で履けない。ニューエラの新品かぶりは「ほらほら、シール貼りっぱなしよぉ…… だらしないんだからぁ!」と言う人の方が周囲に多いので説明するのが面倒臭い。
 
と、おもに年齢由来の理由で悲しくなるわけだが。
 

「さよく」ってだれ?

少し前の話。 保守/右翼/差別主義の方々が、自分たちのバカげた主張に反対する人々を「左翼」とか「ブサヨ(ブサイク+サヨク)と揶揄するような風潮に対し、友人が「いまどき左翼なんかいねえよ!」と言っていた。
ナルホド。今、自民党の強引なやりくちや、好戦的な姿勢、石器時代から進歩の無い旧態依然とした女性蔑視などに対してデモをする人々がいるが、彼ら彼女らには70年安保で国会を包囲したデモ隊たちがインターナショナルを歌ったような共通した思想性は無い。もちろん、ゴリゴリの共産主義マルキストも中にはいるのかもしれないが数は多く無いだろう。
 
 
ソビエト連邦崩壊、東西ドイツ統一も今は昔。中国がむちゃくちゃお金大好きな超自由なメガトン級の資本主義なことはバレてるし、北朝鮮は恐怖政治の独裁国だしで、共産主義を掲げた国で未だに健在なのはキューバベトナムくらいか。
要は国民や政治にかかわる人々が非常に高潔で正しくて利他的であるという前提でしか「共産主義は成り立たないことが証明されてしまっている。いかにもインテリが考えつきそうな、机上でなら良いが実践が出来ない「機能しない制度」だ。
今の「日本共産党」だって、仮に政権を握ったとしても日本を共産主義国にはしないだろう。資本主義国として真っ当と思える程度に金持ちの税率を上げ、貧乏人の税率を下げるくらいがせいぜい。
それで充分なんだけど。
 
 
そもそも「左翼」という言葉、本来の意味としては広義で「体制側に反対する勢力」らしいので、今であれば自民党のバカさ、無神経さに対して反対している人たちが「左翼」で間違いはない。
 
 
「右翼」と言った場合、政治なら自民党だ。少し前なら自民党にも中道右派も多かったが、今の主流は好戦的なゴリゴリの、いわゆるバカ右翼である。
そのバカ自民党員を中心として、寄り添うようにネトウヨや右翼ヤクザ団体、差別主義者団体が存在しており、それぞれ対立無く共存している。自民党員は核も念頭に入れた武装をしたくてしょうがないし、北朝鮮や韓国、中国を嫌い、好戦的である。右翼ヤクザ団体も外国人排除を叫び、有りもしない「在日特権を糾弾している。差別主義者は金持ち優遇政策や原子力発電、自分たちが大好きなエロゲを弾圧することになる児童ポルノ規制法にすら賛成している。
右翼と呼ばれる人たちは、それがたとえ自分の生活を苦しめる結果になろうとも。世界の中で孤立して当の自分たちが忌み嫌う北朝鮮のような国になろうとしていても。とにかく大樹にしなだれて「エライ先生方」に白紙委任することで「考える」ことから解放されて安息する、ありていに言えば大々的にオツムの足らん人々であることが解る。
 
 
全く無条件で結束してしまう「右翼」に対して、「左翼」はバラバラだ。
70年代安保時代の大学生だった現引退間近の日教組系、共産党員系のマジ「左翼」。
ネトウヨたちが揶揄する自民党政権に対して批判的な人々も「左翼」だ。ネトウヨからは「在日」の「ブサヨ」と呼ばれる。これが一番広義の「左翼」で、私も「在日」認定はされている。
原発集団的自衛権に反対でデモに参加する程の意識の持ち主でも、選挙では確実に捨て票になる共産党を選ばない人が多いであろう。
そんなバラバラな中でも特に意味が解らないのが「へサヨ」だ。「ヘイトスピーチに反対する会、的な左翼」の略で、レイシストをしばき隊の現「C.R.A.C」メンバーが名付けたそうだが、双方ともヘイト・スピーチには反対しているのだが、たがいにいがみ合っている。
 
 
先日、ウチの最寄り駅の駅前で市議選に立候補した民主党の候補者が口角泡飛ばし演説をしていた。のぼりには「安部政権を倒せ!」とある。
共産党集団的自衛権に反対していますが個別的自衛権には賛成なんです! 近隣での武力行使には賛成なんです! こんな人気取りみたいなこと言っている党なんです!」と気炎を吐くと、シンパのおっさんが「そうだ!そうだ!」とガナりたてる。
この候補者やシンパのおっさんは胎児の時に脳みそになるべき細胞が全部耳たぶか盲腸などに変化してしまったに違いない。
自民党/安部政権の打倒を掲げて共産党Disってどうする?
本来なら「いかに自民党がうそつき集団であるか」を主張して、自民党の票を取り込んで、自民党からの候補者を落選させるのが「打倒!安部政権!」なハズなのに、共産党に流れた僅かな票を取りに行っているのだ。

 
70年安保で国会を囲んだ学生たちの共産主義革命の機運を木端微塵に粉砕したのは、誰あろう「革命戦士」である彼ら自身だ。
あさま山荘事件と山岳ベースにおける総括リンチ殺人事件は、「赤軍」「革命」などへの一般の人々の認識を一気にひっくり返してしまった。
丁度、オウム真理教麻原彰晃とんねるず北野武と共演する程度に軽い存在だと思われていたところでサリン事件が起こり、一般の人々の認識が一気に「キチガイ邪教集団オウム」へと変わったように。
 
 
今回の安部政権の暴走に対し、まだ何も爪痕を残せていないのに、さっそく内ゲバに勤しむ人々を見ると、件の友人が言ったように「いまどき左翼なんかいねえ」のかもしれない。