ネタバレ解説『ボーはおそれている』

漫画家、根本敬の代表作のひとつ『生きる 村田藤吉寡黙日記』。ただただひたすらに、寡黙で気弱で学も無く、子供がいるのに童貞で、信じられないほど不器用な男、村田藤吉と彼の家族が陰惨な目に遭い続けるだけの漫画である。
その「陰惨な目」も生半可では無い。殴られる蹴られるは比較的ぬるい方で、家族そろって別の家族に(性的な)イタズラを受けていたり、ちょくちょく殺されるし、気が狂うほど追い詰められもする。
さらにSF的な加虐にも会う。物質転送機に入った村田と彼の永遠の加虐者である吉田佐吉は当然合体してしまうのだが、村田の顔が吉田の尻にくっつき、口が吉田の肛門の役割を担ってしまう。吉田はその境遇を大して気にせず「まぁ、さすけねっぺ(しょうがない)」と、ブリブリ用を足す。
1986年に刊行された本作は大人気となり、村田はパルコのCMキャラクターにまでなった。
 
読者は村田の陰惨な状況を笑って楽しんだのだ。
 
根本の絵が「技巧的」ではなかったのも笑える要因の一つであっただろう。太くウネウネとした荒っぽい線で描かれた村田は、共感や寄り添おうという気にさせず、常に「漫画を読んでいる」という意識を読者に持たせた。
根本の漫画は手塚治虫同様「スター・システム」が採用されており、常に加虐される村田藤吉に、常に彼を虐める吉田佐吉。レイプ魔の鈴木定吉あまりにバカ故にチンポに体の主導権を奪われる「逆さの男」など。基本的には一話読切で、さまざまな状況で村田が虐めを受けるのも、笑える程度に読者を突き放すことに成功していた。
 
ありえない程の陰惨な目に遭う村田の様子は、それが虚構だと強く認識させられればさせられるほど笑えたのである。
 
『ボーはおそれている』序盤。ボーの住む街は道端に腐乱死体が転がり、目玉にまで刺青を入れた男が炊き出しのスープを貰ってスグに「アチい!」と地面に叩きつけ、レスラーのような大男が誰かの目に指を突き立てて、ニュースでは全裸で人を殺しまくる連続殺人鬼が報じられ、ボーの住む娼館のようなアパートには「アナル・ファックでハメ殺す」等カースワードだけの文章が壁を覆い、張り紙で毒グモの発生が告知されている。
さらにそれらを捉えるカメラはカンフー映画のようなズームや、ウェスタンのようなクローズ・アップ、優美なスローモーションなど、肉眼では不可能な映像表現が取り入れられている。
また、アパートに駆け込む様子は建物の中の俯瞰映像だったり、狭い廊下を歩く場面では真横からボーを捉えるなど、スタジオセットも駆使されている。
 
ウソの作り物のフィクションだと丁寧に念を押して語られるのは、ステレオタイプな「ユダヤ人」である。
 
(ここから映画の終盤についても書きます。本作はいわゆる映画的な三幕構成で作られていないので、初見を驚きをもって鑑賞したい人は今スグ劇場へ!)
 
まず、野蛮な隣人に家から締め出され、実家へ向かう。という『ボーはおそれている』そのものが、ローマ帝国に国を滅ぼされて、約束の地へ向かうというユダヤ人の境遇と重なる。
劇中で語られる「あったかもしれないボーの人生」の大洪水や、いたかもしれない子供たちは「ノアの方舟」や「ヨブ記」であろう。
実家の屋根裏部屋に隠された“父親”や、ボーが置かれた幼いままで成長を止められた状態はユダヤ人作家フィリップ・ロスの作品からの影響だと監督自身が告白している。
幽閉された家の監視カメラのチャンネル「78」はユダヤの法則。
ラストで行われる公開裁判は、悪いと判決が出れば地獄で、良いと出れば天国で、永久に過ごすと言われるユダヤ教版の「最後の審判」。
そして、ボーを溺愛し執拗に管理した母親は、英語の慣用句で、その名もまんまな「ジューイッシュ・マザー」である。
 
などと知った風に書いてはいるが聖書については『誰も教てくれない聖書の読み方』とロバート・クラムの漫画版『旧約聖書』でしか知らないし、読んだことのあるフィリップ・ロス作品はタイトルに惹かれた『乳房になった男』だけ。なので、解説のマネゴトはここまでしか出来ない。
 
それでも『ボーはおそれている』の3時間を楽しく観られたのは、根本敬メソッドであくまでフィクションだと常に突き放されたからであろう。ボーは手始めにフィジカルな痛みを与えられ、次にバツ悪い生活を強いられ、罪悪感に苛まれ、無力感に支配され、微かな希望を踏みにじられる。
アリ・アスターはそれらの苦行を意地悪なコメディ的演出で魅せていく。しかし、本当は、それらの苦行は手の届く範囲に実際にある苦行である。
理不尽な暴力や、抑圧は日常的に、ユダヤ人では無い我々も経験しているものだ。それらを突き放し、カリカチュアして笑い飛ばすという自己防衛的な快感が本作にはある。
 
『ボーはおそれている』楽しかったよ!

『ノセボ』効果の恐怖を体感!呪いと祈りが交錯するオカルトの世界

『ノセボ』鑑賞。

タイトルの「ノセボ」とは偽薬がもたらす「プラシーボ」に相反する効果で、本来悪い効果が無いものを服用したのに、不安から悪い効果をもたらしてしまう事態を指す言葉だ。

本作の劇中で繰り返し言及されるのは「祈り」や「呪い」など、日常に浸透したオカルトについてである。
悪態としての「ジーザス」やゲン担ぎのおまじない。ラッキーアイテム。これらは本来、何の(本当に全く何も)効果も無い、信心が無ければ気休めにもならない行動だ。

子供向けファスト・ファッションのデザイナー、クリスティーンは皮膚が醜く爛れた野犬から飛び散るマダニに全身を這い回られる悪夢に取り憑かれてしまい、それ以来慢性的な体の痙攣や痺れを抱えてしまう。
夫のフェリックスはそんな妻を気遣うポーズはするものの「気の病い」だと、どこか無下にするような態度を取る。
娘のロバータは、両親のひんやりとした関係を感じ取り、塞ぎ込んだ性格になり学校でも居場所が無さそうだ。
そこへ、東南アジアから来た家政婦として小柄な女性ダイアナが現れる。クリスティーンには頼んだ覚えが無いが、病気で記憶があやふやで知らないうちに依頼をしていたかもしれないと、彼女を招き入れる。

登場人物の名前「クリスティーン」はクリスチャン:キリスト教徒を語源に持つ名前だ。夫の「フェリックス」はラテン語の「芳醇」から「成功」や「富」が込められている。娘の「ロバータ」はロバートの女性名で、由来としては古いドイツ語「古高ドイツ語」のループレヒトで「光で闇を照らし、将来を予見し、進むべき道を予知する」といった意味を持っている。

そして家政婦の「ダイアナ」はワンダーウーマンの「ダイアナ・プリンス」と同じで、猟犬を携えて野山を駆ける「狩猟の女神」である。
 
名付けるという行為が「日常に浸透したオカルト」そのものであり、映画『ノセボ』のタイトルが示す本作のテーマの一つでもある。
 
クリスティーンがロバータの悪態「ジーザス!」を嗜めるのは、旧約聖書モーセ十戒にもある「主は、み名をみだりに唱なえるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20:7)に準拠している。
出エジプト記の、この直前「20:6」にはこう書かれている。「わたしを愛し、わたしの戒を守るものには、恵を施して、千代に至るであろう。」
要は脅しである。ルールを守れば良いことが起きますよ。守らなければ罰を与えますよ。と、誓いへの祝福は戒律破りの呪いもセットになって成立しているのだ。

キリスト教の信仰は「恐怖で服従を促す支配」と言い換えられる。ここにプラシーボ、ないしノセボが出現する心的なスキが生まれる。
 
ダイアナが登場する前のクリスティーンの体の不調はクリスティーンの「罪の意識」に所以した「ノセボ」効果の現れであろう。寝付きが悪いのを呼吸障害だと思い込みマスクをして寝ているが、要因はおそらくそこに無い。
罪の意識を思い出させる「人種」であるダイアナの登場と彼女への信頼と民間療法が「プラシーボ」効果になるも、終盤のダイアナの途中退出で「ノセボ」がバックラッシュとして強く現れる。
 
ただ、本作の意地の悪さはダイアナに超自然的なパワーと、明確な目的を持たせているところだ。タイトルを無視し、スクリーンに現れるものだけを映った通りに解釈すれば、単純なジャンル話に落ち着く。
しかし、この物語に『ノセボ』のタイトルを冠することで、非常に面倒臭い疑問符を観る者につきつける。
 
 

大戦の雪辱戦としての『ゴジラ -1.0』

ゴジラ -1.0』鑑賞。

 
本作の主題は「大戦の雪辱戦」であろう。
第二次世界大戦で日本は人命を捧げて気合で勝とう! という日本の伝統的精神論バカの考えた愚策で戦いに望み、大敗を喫する。
生き残った人々は焼け野原となった日本へ戻り、それでもなお生き続けようと奮闘する。1954年の『ゴジラ』が大戦そのものの恐怖の象徴であったのに対し、『ゴジラ -1.0』は復興の困難さの象徴だ。
バカな政府が日本を破壊しつくしている現在に、このテーマでゴジラを作ろうという気概はアッパレという他無い。
 
ただ気概だけでは映画はできない。
 
本作は悪いところやダメなところが、真っ黒なテーブルに直に置かれた豆腐のように、分かり易く露呈している。
可読性が無く何と呼べば良いのか分からないタイトルに始まり、穴だらけの脚本、感情の起伏が声の大きさで現される演出、ネジ込まれた恋愛&ゴジ泣き要素……
 
とはいえ、映画としてつまらないというワケでも無い。
大戸島でのティラノサウルスサイズ時に『ジュラシック・パークの人間丸かじりを見せ、巨大化した後の機雷掃海艇とのチェイスでは『ジョーズをやってみせる。放射熱線はギャレス・エドワーズ版をバージョンアップしたカウントダウン方式だが、ギャレ・ゴジには無かった背ビレの動きは、巨大な機械が正確に動くような爽快感がある。
ゴジラの畏怖も見事に表現出来ていた。知性の欠片も無く、替わりに気狂いじみた殺意を撒き散らし東京を蹂躙する姿は、映画的なスペクタクルに溢れている。また、ゴジラの登場場面は出し惜しみ無く、おなかいっぱいにゴジラを堪能出来た。
 
ゴジラ-1.0』には看過できない「0点」と、見事な「100点」が混ざらずに同居しており、全体評価がしづらい仕上がりになっている。
0点では無いが、100点でもない。間を取って「50点」だと50点の場面が続く印象になるが、そうでは無い。
この印象は、まさしく多くのゴジラ映画で感じた感覚ではある。ガイガンメカゴジラの造形は素晴らしいが作品自体は非常に退屈だ。『モスラ対ゴジラ』は作品としては面白いのだが、イモムシや蛾は巨大化してもカッコよくない。
私は昭和期のゴジラを愛しているが、そういった瑕疵も含めて愛している。
私が『ゴジラ-1.0』を愛してあげられるのは、いつになるだろうか?
まだミレニアムゴジラを愛せない私が。
 
 

サグいフォレスト・ガンプのハード・ノック・ライフ 〜奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝〜

「奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝」を読んだ。

 
私はブラックスプロイテーション映画に、ファンク、ソウル、ヒップホップとアメリカ黒人文化は好きなのだが、ジャズだけはほとんど通ってこなかった。
ビッグバンドのスウィングやビバップは耳に入ってくれば非常に好ましく聴こえてくるのだが、それ以上掘ってみようという気にならない。私の世代だと“ジャズ喫茶”に代表される、うるさ型の堅苦しい文化であるように刷り込まれているのは大きな要因であろう。
 
最近、黒人に対する蔑称“Nワード”について「黒人同士なら仲間という意味で気軽に使われもするが、他の人種が黒人に対して使うのは、その文脈を問わずタブー。奇妙な果実のカバーがほとんど無いのと同様」といったツイートを見かけた。
「奇妙な果実」は南部での黒人リンチを歌ったビリー・ホリデイの代表曲という話は知っていたし、歌詞だけは読んだことがあったが、当の曲自体は聴いたことが無かった。
興味が無いなりにビリー・ホリデイの名が記憶の手前側でフラフラしていたタイミングに、古本屋で「奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝」を見つけた。パラパラとめくってみると「カウント・ベイシーのバンドからサイコロでツアーのギャラを巻き上げた」「見込みのある貧相な歌手にドレスを買ってやったのが後のサラ・ボーン」などなど。もはや神話のような話がめくったページ全てに載っており、ナンダコリャ!とレジへ持っていったのがきっかけである。
 
読み初めてみると、購入のきっかけになった印象はさらに強くなった。もはやサビだけが連打されるスピードコアのような人生である。
そもそも産まれから壮絶だ。ビリーが産まれた時、母親が13歳、父親が15歳という生まれついての波乱万丈エリートだ。
物心つくとレコードプレイヤーがあってジャズが聴けるという理由で娼館に押しかけてお手伝い名目で入り浸る。10歳でレイプされ、その“責任”を取らされて感化院へ送られる。出てきて改めて娼婦になり、しかし逃げ出して、ジャズ・シンガーになるのがやっと15歳である。
 
このあたりまで読んだところで改めて本書のことを調べたのだが、どうやら浪費家でいつもからっけつなビリーが当座の金を得るために、ニューヨーク・ポスト(当時はまだデマ吐きネトウヨ紙では無く、立派な東スポタブロイド紙)の記者ウィリアム・ダフティーの誘いに乗って、インタビューの口述筆記で簡単に仕上げた本だそうだ。
 
なるほど本書はタブロイド紙記者らしい極めて扇情的でドラマチックな表現、もしくはビリーのサグい言い回しがそのまま採用されたであろう猥雑な、しかし魅力に満ちた文章で綴られている。
加えてダフティーは「ファクト・チェック」はあえてしなかったと告白している。たとえば、後の研究者によるとビリーを産んだ時の両親の年齢は、父親が17歳、母親は19歳だったそうだ。
これらの理由で本書は多くの人々に、かなり否定的に捉えられているようである。ビリー本人も出来上がった本は読んでいないそうだ。
 
私は「ビリーの壮絶な人生の真実を!」といった欲求を叶えるため読み始めたワケでは無かったし、そもそも「自伝」ともなればどうしたって主観的なものになる。他人の印象と違うのはあたりまえだ。実際に起こった事象と違うとしても、むしろ主観的にどう捉えていたかの方がその人を知るには良いだろう。
記された“神話”の数々も極めて主観的であることに加え、本人がどう見られたかったか、と告白する妄想的私小説と捉えた方が良いだろう。
その前提で読み進めていくと、ラッパーの“ブラギング&ボースティング”めいた自画自賛と、妄想炸裂のロマンスに溢れていることも腑に落ちる。
 
そして何しろ読み易くて楽しいのである。
 
ジャズには詳しくないのだが、前述したカウント・ベイシーのバンドとのドサ廻りやサラ・ボーンの話。サッチモから来た手紙の結びが独特だった話。ベニー・グッドマンが自分の公演の常連だった話。などなど私でさえ知っている伝説的な名前がポンポンと出てきてビリーを褒め、称え、感心し、傅いて協力し、去っていく。おそらく私の知らないジャズ・ミュージシャンの名前も出てきているのであろう。知らない名前もゾロゾロと出てくる。
 
むろんビリー本人がそれこそ伝説的な存在なので同時代に生きたジャズ界隈の有名人なら大なり小なりの関わりはあっただろう。しかし、ビリーのボースティングはそこで止まらない。
 
【有名人編】
・店に来たオーソン・ウェルズと仲良くなってデートを重ねていたら「別れろ」という謎の電話が行く先々にかかってきて怖くなって別れた。
・車が故障したんで助けを求めたらクラーク・ゲーブルで、そのままナンパされてバーに行ったら黒人のビリーをバカにしたレイシストの男をゲーブルが電光石火で殴り倒した。
 
【アクション編】
・小学生の時にボクシングの授業があり、鼻にいいパンチを食らわせた相手の顔面に外したグローブを叩きつけ、パンツを引き裂いた。
・ドラッグを使っていた頃、ホテルに帰るタクシーの中でイヤな予感がして引き返すよう頼んだが、運転手は何を言われたのか理解できず。しょうがないので運転手を外へ突き飛ばし車を強奪。案の定静止しようと出てきた捜査官の脇をすり抜け、銃声を背に逃走。
 
【何をやらせても一級品編】
・映画で「あらゆる感情を「イエス・ミス・メリー・リー」で表す女中」役をやらされる。撮影の際、監督にダメ出しをされ「じゃぁ、どの言い方がイイ?」と23種類の違った「イエス・ミス・メリー・リー」を披露してやった。
・カフェ・ソサエティでのオーディションでチラ見した少女を採用しないという店主とケンカして採用させたのが後のヘイゼル・スコット。
 
などなどなどなど。これらは生前の千葉真一山城新伍らが得意とした、センスと景気の良いヨタ話である。つかれたウソを検証して暴くような野暮天をするよりも、素直に感心し驚いてウソに身を委ねるのが正解の、スリリングな快楽に満ちた読書体験であった。
 
そして、ようやく「奇妙な果実」を聴いたのだが、これはレコーディングされた時点で劇場などでかなりコスリまくっていたであろう、主旋律を見失いそうなほどクセの強い歌唱アレンジがされていて、カバーがムズかしいのは素人の私でも想像できる。
そして、ダイアナ・ロスニーナ・シモンといった、カバーをしてもそれなりに受け入れられそうな人々を始め。スティング、UB40、ピート・シーガーといった「ナルホドね」と思う人々。果てはコクトー・ツインズやスージーバンシーズまでもカバーしているそうである。

映画としては短いがムービーにしては長い『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』鑑賞。

 
物語は、ブルックリンで負け犬と蔑まれる配管工のマリオが、迷い込んだ異世界でピーチ姫を助けながら自身の存在意義を見つけていく。という成長譚の王道展開である。
だが、本作にとって「物語」は必要最低限の「骨」でしかなく、メインはこれでもかと詰め込まれた『スーパーマリオブラザーズシリーズや『マリオカート』『ドンキーコングなどへのオマージュだ。
 
マリオやピーチ、クッパを始めとしてクリボー、ノコノコ、ヘイホーなどなどが劇場用映画のハイエンドなクオリティのCGで再現され、おなじみの音楽や効果音がオーケストレーションされた音数の多い豪華なサウンドで、それぞれ大幅にブローアップされている。
 
本作上映前に流れる任天堂のイメージ・コマーシャルは、あと少しのところで失敗したプレイヤーが悲嘆にくれ、怒鳴り、枕に顔を沈めて叫ぶ場面と、ようやくクリアした歓喜モンタージュである。これはゲーム:スーパーマリオシリーズの特性「たいがいの人はクリアするために同じ面を何十回もプレイする」という体験を表したものだ。この体験のあるなしで、映画:マリオへの共感度は大きく変わってくるだろう。
劇中のマリオはピーチに課せられたトライアウトやドンキーコングとの対決で、何度も挑戦しては失敗し、独自の攻略方法を見つけてブレイク・スルーする。この場面は実際にゲームをプレイしたことのある人にとって、大いなる「あるある」だ。
 
要はサブテキストとしてマリオタイトルのゲームをプレイし、クリアするために同じ面を何十回もプレイした体験が前提の作品なのである。
 
なので、私にとって本作を正しく評することはほとんど不可能である。なにしろスーパーマリオはほとんどプレイし、クリアもしているからだ。私にとって映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は最高のご褒美のような“ムービー”であった。

机上の王、現場に出る。『シン・仮面ライダー』

『シン・仮面ライダー』鑑賞。

 
庵野秀明主導による『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』に続く「シン」シリーズにして、ついに庵野本人が監督を務めている。
 
「シン」シリーズでは元々子供向けであるが故に、おおらかに設定された出自や展開を再構築するといった傾向があるだろう。
シン・ゴジラでは災害としての巨大怪獣と政府の対応という展開に軸を置き、ドラマやセンチメンタルな心情はほぼ排除された。
『シン・ウルトラマンでは宇宙人と怪獣を前にした政府の対応といった展開を、今度は肉として。軸には種族から違う地球の人々を守る宇宙人のエモーションに焦点が合わされた。
 
『シン・仮面ライダー』では「ショッカー」という存在と、彼らを止める人物のモチベーションが展開の軸になっている。
「悪の組織を運営する」といったシミュレーションゲームなどでも構成員を離さないためには良い給料や、良い労働条件を用意しなければいけない。強い怪人で人々を支配するというのは、ムズかしいし現実的では無い。という問題への回答があるのがなかなか面白い。
さらにその中へ、原作者である石ノ森章太郎作品へのオマージュが盛り沢山に投入され(見たことのあるアレだ!を見つける)オタク的な楽しみに溢れている。
また、オリジナルの造形を尊重しつつディテールやバランスで調整されたライダーや怪人たちはカッコよく、特にロングコートをたなびかせるライダーは至極絵になる。
俳優陣も芸達者が揃っており、庵野特有のアニメっぽい抑揚が必須になる非現実的なセリフや、過剰な感情表現が必要になる演技を、バランス良く演じ分けている。オリジナルの藤岡弘、もあの年代の人にすれば180cmの高い身長で筋骨隆々な肉体を持っているが、やはり最近の、手足の長い若者のプロポーションの良さはより見栄えがするものだ
 
これら脚本、配役、造形、といった撮影前の準備(プリプロダクションにおいては満点と言って良い出来栄えを誇っている。
 
しかし、アクションがまるでダメだ。
 
『シン・仮面ライダーではショッカー戦闘員たちが血塗れになって死んでいく。ライダーの拳は顔面にめり込み眼球をこぼし血飛沫をあげて死ぬ。
その様子がシュレッダーにかけたような細かいカット割りで、誰がどう殺されたのか判らない。その映像も被写体にカメラが近く、チラチラと何かがスクリーン前を忙しなく通過していく。何が起こったのか判らないまま、戦闘員たちがバタバタと死んでいくのだ。
 
設定としてショッカーたちが死ぬと証拠隠滅のため泡になって消える。ライダーが血塗れだった手を見つめ自らの暴力に震える場面だが、泡でしっとりとした黒い革手袋をいくら見つめても、単に革手袋なだけで何の印象も無い。
 
中盤、廃トンネルの中でライダーが黒いスーツのショッカーたちに襲われる場面では、真っ暗な中、バイクのヘッドライトとライダーの目だけが浮かび上がり、本当に全く何がなんだか判らないまま爆発が起こって終わってしまう。
 
ラスト近く。ヘトヘトになったライダーが敵ボスと戦う場面。疲労困憊した2人の疲れた戦いを捉えるカメラは、何故か延々と小刻みに揺れ続ける。
 
庵野の頭の中には、エヴァンゲリオンで魅せた見事な戦いや、キメ絵、スペクタクルがあったのだろう。しかし、それを現場で実現させる手立てを知らなかった。
よしんば、庵野が知らなかったとしてもスタッフが知っていれば出来たハズだ。しかし、残念ながら庵野の現場に彼の頭の中に描かれた情景を再現できる者がいなかった。もしくは出来るのだが伝わらなかった。


私が鑑賞した劇場では上映前に韓国アクション映画『THE WITCH/魔女 -増殖-』と邦画の低予算アクション映画として異例のヒットを飛ばした作品の続編『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』の予告が流れた。


政府の実験により超能力を得た少女が施設を逃げ出し追手と戦うという、ほぼ仮面ライダーと同じ設定を持つ『THE WITCH/魔女 -増殖-』予告では、ビルの壁面を落ちながら弾丸をかわし、走る列車の上を駆け回り、超人的な跳躍を見せる。
『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』の予告では超クロスレンジの銃撃戦からの格闘戦や、手数の多い超人的な高速ファイトをコメディ的空気の中に投入する、前作の良さが継承されていた。

庵野の目指す映像には『THE WITCH/魔女 -増殖-』と同等の予算が必要だったのかもしれない。しかし(おそらく)『シン・仮面ライダー』よりも少ない予算で、それを凌駕するスペクタクルを『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』が見せてしまっている以上、言い訳は出来ないだろう。

聖なるペテン師の腐敗撫で斬り大無双『ベネデッタ』

『ベネデッタ』鑑賞。

 
どの業界でもそうなのかもしれないが、私のいるデザイン業界では大なり小なり胡散臭い人物と付き合うハメになる。
とある大手玩具メーカーと仕事をしていた頃にいたデザイン事務所では、初老の仲介役がそうだった。大ヒットした玩具はおおむね「あぁ、あれはオレが持ち込んだ企画だ。」と鼻を穴を広げ、当時まだ若かったコワッパの私を見下すように言ったものだ。
最初の内こそ「はぁ、そうなんですか。」と別に反論する知識も情報も無いので素直に感心していたが、なんぼなんでも何から何まで「オレが持ち込んだ」仕事だらけで、流石にいぶかしみ始めた。
ガンダムな。あれはオレが名付けた。当時チャールズ・ブロンソンの「マンダム」が流行ってたんで、そこから付けた。」
と言い出すに至り「あぁ、この人の話は全部ウソなんだな」と腑に落ちたものである。
 
『ベネデッタ』だ。ベネデッタが幼いうちに投げ込まれるように預けられた修道院は、その神聖さとはほど遠い、金と欺瞞に溢れた場所だった。その中で同性愛者としてのセクシャリティに目覚め、そのリビドーに従順に従っていたら、何だかメキメキと出世を果たす。という性欲版「無責任男」のような話だ。
 
まず、キリスト教は比較的歴史が浅く、その聖典はエジプト神話のエピソードを中心に編纂された当時の奴隷用の宗教だ、という話はよく聞くところだろう。
また、宗教画にあるような手の平に杭を打ち込む磔だと、自重で手を割いて取れてしまうので、手首に打ち込むのがキリストがいたとされる時代の「磔刑である。
 
このように、そもそもキリスト教というものが時の権力者の思惑に沿って作られ、勘違いによって補強された、作品中のベテデッタそのもののような宗教だと言える。
 
そのベネデッタを描いたのがポール・バーホーベンだ。
 
氷の微笑』や『ショーガール』などで、目的のためなら手段は選ばない女性を、下品な手段を選んで描写してきたバーホーベンである。
『ベネデッタ』では開幕早々、鳥のフンによる奇跡を描いた返す刀で、尻から火を吹く大道芸人を登場させる。クソから屁へ繋ぐ見事な構成だ。
 
さらに聖母マリア像にベネデッタを押し倒させると、すかさずベネデッタは聖母の乳首に吸い付く。さらに聖母は見事な聖具(せいぐ)へ姿を変える。
聖母にことごとくセックスのイメージをぶつけていくのだ。これは誤訳により「処女懐胎」の伝説を持ってしまった聖母マリア様の開放と言えるだろう。
 
また、バーホーベンはベネデッタの“奇跡”を必ず写さない。聖痕が現れる瞬間、必ずカメラはそっぽを向いている。その一方でベネデッタが見たと言うキリストとの出会いは克明に描いていく。キリストが悪人をバッタバッタと切り倒し、ベネデッタを抱き寄せキスまでする。
つまり、バーホーベンはベネデッタにガッチリ肩を組んで寄り添い、その“犯行”の手助けをしていると言えるだろう。
 
そうやって描くのは教会のたかり体質と腐敗だ。まず、ベネデッタの受け入れの持参金を競売のようにセリ上げる院長に始まり、聖痕が現れたと嘯くベネデッタを利用して収益アップと出世を狙う教区長。ペスト流行の中、愛人に子供を孕ませたことを隠そうともしない教皇大使。
彼らが対峙するベネデッタは、性に目覚めたものの神への愛も持ったまま、幻視と度胸と行動力で齟齬をうっちゃり続けていく。そして、共犯者バーホーベンはその様子を爽快感をもって描き、見事な快作として纏め上げているのである。
 
ちなみに。前出の自称ヒット作だいたい絡んでる仲介役は、実際に仕事を事務所にそうとう落としていった実績もあって、役員たちも軒並み頭の上がらない存在であった。